小さな政府江戸幕府 13 江戸幕府の先鋭的な政策 公募による貨幣鋳造機関の開設
江戸時代に機能した金座・銀座は貨幣の鋳造を担う民間機関であると同時に発行機関の役割、改鋳による通貨調整役も兼ねていた。現在でいうなら造幣局と日本銀行の一部分の機能をこれらが担っていたのである。実にコンパクトに仕上がった組織といえよう。
金座は小判師の鋳造した原判金の鑑定と検印を行う金貨製造・管理センター、銀座は銀貨製造・管理センターである。銀座は当初、伏見、駿河、大坂に設置されたが、伏見の銀座は1608年に京に移され、駿河の銀座はのちに閉鎖される。大坂の銀座は生野や石見などの銀山から鋳造用の銀を買い集め、京に送る役割を担っていたようだ。やがて銀座は江戸と京都の二ヶ所のみとなり、のちに江戸のみに集中するようになる。金座・銀座とも勘定奉行が厳しく管理したものの、民間の請け負い事業である。
一方、銅を鋳造した銭貨の寛永通宝を全国に広めるために1637年、幕府が全国に設置した貨幣鋳造機関が銭座だった。金座・銀座と異なり、銭貨を必要とする場合に限り一時的に開設されたもので、当初は幕府から銭貨鋳造に関する独占的な特権を与えられた商人で組織された。金座・銀座同様、勘定奉行の支配を受けたが、開設期間が短く、請け負い人が著しく交替したので、取り締まりは穏やかであったようだ。通貨調整のための短期集中の請け負い事業なので、金座・銀座ほど重要視されていなかったということだろう。
銭座は江戸では寛永通宝の鋳造を浅草と芝で行い、その後は本所(現在の墨田区の一部)や深川にも設立された。糸割符制度によってポルトガル船の輸入生糸を独占的に一括購入した京の商人たちが銭座の設立を申請し、1700年に寛永通宝の鋳造を行ったという記録が残っているように、銭座の経営は公募によるものだった。幕府が業者を探して打診したのでなく、公募であったことに着目したい。
幕府は請け負い業者を闇雲に探すリスクを回避できるし、町人にとっては銭座経営の機会が均等に与えられたことになる。封建時代にあって画期的で民主的な方法だ。とはいうものの、請け負ったのは、銅山経営者、貿易商など全国の有力商人がほとんどで、その背後で操っていたのは各地の大名であったようだ。銭座の利益の一部は幕府に上納されたが、銭座経営の利益は大名の資金源にもなっていたのだ。
しかし、やがて国産銅の減退が顕著になり、貿易用銅の確保のために銅生産がコントロールされるようになる。統制が強化された明和期(1764~1771年)以降は、幕府の命により金座・銀座が銭貨の鋳造を兼ねるようになる。1772年には、金座・銀座以外の銭貨鋳造は原則として禁止された。これも幕府による通貨統制政策である。
こうして通貨調整が行われ、金貨・銀貨・銅貨による三貨幣制度が定着していったわけだが、同時に大きな矛盾となる制度も生まれた。幕府は上方で流通していた雑多な銀を、銀貨の一定した丁銀・小玉銀に統一したのである。丁銀・小玉銀とは銀の秤量による貨幣で、重さを量って使う貨幣である。一方の金貨はその枚数によって交換価値を計る表記貨幣。この秤量貨幣(銀貨)と計数貨幣(金貨)の併用が江戸時代の貨幣制度のユニークさであり、また問題点でもあった。
金・銀・銭(銅)貨という、単位も性格もまったく異なる貨幣が併存したことで、銀貨を重用していた上方と金貨を重用していた江戸との取引に混乱が発生したことから両替商が発展し、やがて三井や住友といった財閥が生まれる要因にもなったのである。
金本位・銀本位の視点から見れば、幕府は素材価値の高い金を貨幣制度の中心に据えようとしたようだが、国際決済手段として広く認められていたのは銀であった。金本位制と銀本位制はまったく異なるパラダイムである。幕末に大量の金貨が海外に流出したのは、国内外の貨幣に対する価値のギャップによって生じたという見方もできるだろう。
ちなみに現在、江戸金座の跡地に建っているのが日本銀行である。そして日銀もまた金座・銀座同様、政府から独立した法人で、公的資本と民間資本によって成り立つ組織である。
By Master K/益田 慶