11 江戸幕府の先鋭的な政策 新田開発という名の農業制度

江戸時代に年貢の増収を図る目的で幕府や各藩は新田開発を奨励した。行政サイドからすれば開発奨励・農業振興策、平たくいえば「農地開拓」だが、耕地とともに集落が形成され、水路や街道の整備もセットになっているので「地域開発」と表現してもよいだろう。新田は巨額の利益(石高)を生み出すとともに、人口増大をまかなうために主食の米が必要になったという見方もできるだろう。新田開発は、国と自治体が同時に行った食糧増産計画という文脈からも語れそうだ。


新田開発は、江戸時代初期、享保の改革が行われた1720年頃、幕末直前にあたる1840年頃の3つのピークがある。江戸時代初期には役人や農民の主導で湖や潟、浅瀬などの埋め立てや干拓が実施され、陸地が増えて耕地となった。そもそも江戸の町の多くが埋立地であったことを鑑みれば、各藩は江戸にならったともいえよう。また丘陵地帯や台地など内陸地でも開発は進められた。こうした新田開発によって江戸時代初期に全国で1800万石だった石高(つまり国民総生産)は、江戸時代中期には2500万石、後期には3000万石と倍増に近い成果をおさめた。特に関東、東北、中国、九州などでは湖沼や潟が開発され、農地が増えた。


このような大規模な新田開発は、開発申請者に勘定奉行が許可し、工事が始められた。新田が完成して数年間は年貢が免除されるという特権もあったという。

興味深いのは、官営の新田と民営の新田が共存したことだ。幕府の直轄領や藩の所有地の開拓は当然公共事業だが、農民たちが独自で開発するのは民間事業である。「首長は民のために土地を耕す。農業をしたい者は自力で開発しろ」という江戸時代の土地開発は、とてもわかりやすい政策だ。幕府や藩がすべての地域開発を計画的に進めれば、それは無味乾燥した社会主義に陥る。モチベーションの高い農民はやる気をなくすだろう。


官営の新田は、幕府天領の代官が許可して行われる「代官見立新田」と、藩が主導で行う「藩営新田」があった。前者は天領なので幕府がオーナーである。農民は雇われる立場にあり、代官は年貢の10分の1の収入を得た。「藩営新田」は藩が農民に農地開発に必要な資材を提供して新田を開発させるかわりに数年間の年貢の免除を保障した。官営の新田で著名なのが、干拓と治水を含む利根川水系開発だ。資料によれば65年の歳月を費やしたという。


民営の新田には、下位の武士である土豪たちが資金を出し、周辺の農民を雇って開発した「土豪開発新田」、農民たちが村全体で資金と労力を提供して開発する「村請新田」、資金力のある大都市の商人が開発し、小作農を雇って耕させる「町人請負新田」があった。


幕府の財政危機から脱却するために徳川吉宗が実施した「享保の改革」では、幕府は次のような新田開発を促した。天領の内で大名領と入り組む場所であっても新田になりそうな土地があれば五畿内(摂津、河内、和泉、大和、山城国)の場合は京都町奉行に、西国・中国の場合は大坂奉行所に、北国・関八州は江戸町奉行所に願い出るように――。


この政策は、幕府が資金を負担することなく、民間資金を導入することで年貢地の拡大を目論むものである。そのかわりに開発地の一部を出資者が所有することを許可し、開発者は地主として小作料を徴収できる。つまり農地のオーナーになれるということだ。このしくみは「税金を低く設定するから、この地に支社を出してくれ」「土地を格安で提供するから、この地に工場を建ててくれ」といった国が設ける「経済特区」とそっくりである。


この時代に開発されたのが、関東ローム層地帯にあり、水に乏しかったことから農業にはきわめて不適切であった武蔵野の台地である。幕府が有能な農業技術者を派遣し、武蔵野の土豪が開発した。こうして関東平野が拓かれていったのである。


しかしながら弊害も少なくなかった。新田開発ブームに便乗した無計画な開発による水害である。水脈を加工したことで洪水が起こり、新田が崩壊するケースも各地で見られたという。江戸時代の事業も大きなリスクが伴ったという教訓のひとつである。


By Master K/益田 慶