世界資源戦争 5 石油開発の歴史 第四次中東戦争とオイルショック
1972年のジュネーブ協定、リヤド協定の締結によって石油産油国は発言力を増していった。そしてリヤド協定から10ヵ月後の1973年10月、第四次中東戦争が勃発した。エジプトとシリアの連合軍がイスラエルに武力攻撃を仕掛けたのである。アラブ諸国も参戦した。イラクはエジプトへ師団と戦車、戦闘機を派遣。サウジアラビアとクウェートは連合軍に金融支援を行い、サウジアラビアとヨルダンは師団をシリアに派遣。ほかにもアルジェリア、チェニジア、スーダン、モロッコが兵士を派遣した。
第四次中東戦争を受けてPOEC加盟のペルシャ湾岸産油6カ国は原油公示価格の21%引き上げと原油生産の削減、イスラエル支援国への禁輸を決定した。それまでは供給過剰の傾向にあったこともあり、非常に安価であった原油価格は最高で4倍まで高騰。石油禁輸の対象にならなかった国にも深刻な影響を受けた。これが「第一次オイルショック」である。
原油価格の高騰は、石油のほぼ100%近くを輸入している日本に大きな衝撃を与えた。燃料としての使用ばかりでなく、化学製品の原料として活用している重工業を中心に多くの企業が打撃を受けた。当時の日本は田中角栄が牽引する「列島改造ブーム」による地価高騰で急速なインフレが発生しており、オイルショックによって多くの便乗値上げが行われた。こうしてさらにインフレが加速し、国内の消費者物価指数は1974年に23%も上昇した。トイレットペーパーや洗剤などの買占めが起こり、テレビの深夜放送の休止が実施された。こうして日本の高度経済成長時代が実質的に終焉した。
第四次中東戦争は、米ソの仲裁によって16日間で停戦に至ったが、この戦争をきっかけに原油価格の管理権限を握ったOPECはさらなる値上げを実行する。 1973年末には翌年から原油価格を倍に引き上げることを宣言。1973年初頭に1バレルあたり2ドル台だった原油価格は1年後に11ドル台まで上昇した。
中東の産油国にとって第四次中東戦争は、アラブ諸国がイスラエルをこらしめただけでなく、OPECが原油価格決定権を石油メジャーから奪取したことに大きな意味がある。「世界資源戦争」の視点から見れば、第四次中東戦争はOPECが欧米の石油メジャーから原油価格決定の主導権を奪い返し、石油メジャーが非OPEC諸国に活路を求めるようになる分岐点であったといえよう。
さらにうがった見方をすれば、エジプトとイスラエルの和平成立後、エジプト産の原油がイスラエルへ輸出されるようになった。ご存知のようにイスラエルは石油と武器の輸入大国である。第四次中東戦争によって、エジプトはイスラエルという安定した原油の取引先を確保し、イスラエルは原油の供給国を得たのである。本来なら欧米の石油メジャーがイスラエルに原油を販売するところだが、アメリカもイギリスもそこまでは手出しできなかったということだ。
そして1979年、イランでイラン革命が起こり、シーア派指導者のホメイニーが王党派から政権を奪った。アメリカの支援を受けて近代化を進めていたイラン皇帝はエジプトに亡命し、イラン・イスラム共和国というイスラム国家が誕生する。この間、イランでの石油生産が中断したため、イランから大量の原油を輸入していた日本は再び逆境に立たされる。OPCEはイラン革命を予期していたかのように、1979年から原油価格を4段階に分けて、計14.5%値上げすることを発表。再び原油価格は高騰し、「第二次オイルショック」が到来した。日本に「省エネルギー」という言葉が定着したのはこの頃である。
日本同様、中東の石油に依存してきた先進国は、中東以外での新たな油田開発を積極的に行うようになり、また石油以外のエネルギー開発にも目を向けるようになる。
中東ではさらに紛争が続く。1980年、長年国境をめぐってイランと対立関係にあり、イラン革命の宗教的な影響を嫌った隣国のイラクがイランに侵攻し、「イラン・イラク戦争」が勃発したのである。この両国の国境にあたるシャトル・アラブ川の使用権をめぐる紛争は昔から衝突の原因だった。イラク側にある同川沿いの都市バスラは石油積み出し港である。イランの反撃により、イラクの産油地域は脅かされることになる。
By Master K/益田 慶