江戸幕府の先鋭的な政策 9 江戸幕府の先鋭的な政策 水路・治水工事など公共事業

江戸は日本の城下町としては特殊な立地であった。家康が江戸に入ってきたときには、城の目の前まで入江が入り込んでいた。つまり、農業にも城下町を築くにも適さないウォーターフロントだったのである。


この土地に大名の屋敷を設けるには土地が小規模すぎたので湿地や海を埋立て、その土地に首都機能をもたせることになる。家康は、最初は城の近くに大名、旗本たちの武家屋敷を誘致し、日本橋から海へ向けての一帯を町屋にした。武家地は主に台地に、商人や職人の住む町人地は低地に向かって広がっていった。台地を通称「山の手」、低地を「下町」と呼んだ。余談だが、日比谷入江を埋め立てできあがった日本橋や京橋、銀座も「下町」ということになる。

では、埋め立て工事が必要な土地にわざわざ城を構えたのはなぜだろうか? それは水運を利用できるというメリットがあったからだ。江戸の川や堀は水路の役割を果たし、経済面・治水面で大きく役立ったのだ。


家康は、江戸に着いた月に江戸城本丸先と江戸湊を結ぶ船入り堀「道三堀」の建設に着手したという。江戸城建設のための資材を搬入するための水路である。トラックのない当時、城の建築に必要な巨大な石や木材は陸路では運べなかった。また、陸路より水上交通のほうが輸送量が大きく、コストは低いというメリットもあった。伊豆で切り出された石材や、駿河(現静岡県)、遠江(現静岡県)、三河(現愛知県)で伐採された木材は、外様大名が造った船に載せられ、そのまま城へ持ち込まれたのである。さらに小名木川を開削して、行徳の塩や船橋の野菜、米などの食料を確保するための水路を築いた。これは江戸城建設と城を核にしたインフラ整備といえよう。

当時の江戸は、低地ゆえに水害に弱く、雨期にでもなると、常に洪水になやまされていた。家康は、下町を水害から守るために、昔からの平川と小石川を日比谷入江には注がせずに、ひとつにまとめて東方に流れている隅田川に落とす工事に着手した。本流を切り放すことで洪水を防ぐ策である。治水工事は政治力がなければ到底できないものだ。家康の実行力はたいしたものである。


一方、下町では自然の河川をもとに堀をめぐらせ、物資の輸送に用いられた。魚河岸が日本橋に生まれたのは、日本橋が架橋された直後だ。徳川家に魚を提供するために摂津の国(現大阪府・兵庫県)から来た漁師たちは、家康から隅田川の河口の浅い場所を埋立て造成することを許された。彼らは魚群を追いこんで一網打尽にすれば漁法によって、徳川家に提供してもまだ余るほどの漁獲量を誇った。余った魚を人通りの多い日本橋通りで販売する許可を幕府からもらい、これが魚河岸の始まりとなる。当初は、それらの魚すべてが日本橋川を船で運ばれて河岸に荷揚げされ、売られたという。日本橋川とその支流の堀、各々の河岸は江戸湊の内港の役割を果たし、江戸の物流の中心となって江戸の経済を支え、発展していった。 


しかし埋立地には問題もあった。井戸を掘ると海水が湧き出るため飲料水を得るのが難しかったのだ。そこで家康は生活用水の不足を心配し、家臣の大久保藤五郎に上水道の建設を命じた。まず、小石川付近の流水を江戸城方面に引いて小石川を造らせた。これを発展させ、神田川の上に「水道」を渡らせたのが「神田上水」である。当時の水道は木製の水道管に真水を通したものだが、これが日本最初の水道事業である。井の頭池(現在の武蔵野市)を水源にし、小石川の関口で分水し、その後、湯島や神田の台地に沿って流れていたという。

その後、江戸の人口が急増したので新たな上水が必要となり、多摩川の水を取り入れ、現在の新宿まで堀として流し、そこから暗渠となって江戸城虎ノ門に達する「玉川上水」が完成する。玉川上水は江戸だけでなく、途中の村でも飲料水や農業用水に用いられた。

築城と治水と物流のために水路を開き、一方では飲用や農業用水の確保のために上水道を造った家康。江戸は彼の手腕によって住みやすい都市へと変わっていったのである。水路・治水工事、上水道工事など公共事業の実施は、政治家として見事な政策である。現代なら家康は「都市開発プロデューサー」といったところだろうか。


By Master K/益田 慶