小さな政府江戸幕府 8 江戸幕府の先鋭的な政策 陸路の整備と伝馬制度
今週から数回にわたって江戸幕府の先鋭的な政策を紹介していこう。幕府の政策といえば、参勤交代の実施や武家諸法度・公家諸法度の発令、鎖国、大判・小判の改鋳などが思い浮かぶが、まずその前に江戸と地方都市を結ぶインフラ整備が必要である。江戸は幕府が開かれるまで辺境であったので、江戸市街の建設と交通網の編成は徳川家の重要な事業であった。と同時に交通網の整備は、経済の発展を促す先鋭的な政策でもあった。
江戸への交通・輸送路は陸上交通が先に進み、のちに上方-江戸を結ぶ廻船など海上交通が生まれる。1603年、家康は諸大名を動員して神田山を崩し、現在の日本橋から新橋に至る地域の湿地を埋め立てて市街地を造った。その際、従来は西方台地を通過していた東海道をこの市街の中央に通したのである。これが現在の銀座通り、国道一号である。
新たに架橋した日本橋を起点に、そこから36町を「一里」とし、一里ごとに五間四方の一里塚を造らせた。木を植えて旅人の休憩所、憩いの場としたのである。旅人は一里塚を目印にどれだけ歩いたのかを確認したのであろう。諸藩も江戸にならい全国に一里塚が設けられた。
東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道の、いわゆる五街道のうち、最初に完成したのは、江戸と上方を結ぶ東海道・中山道だ。家康は一里塚に加え、各終点までの道程に約2~3里(8~12km)間隔で宿場町(宿駅)を設けた。当時の輸送の主力は馬であり、公用の物資を運ぶために設けたのが伝馬(てんま)である。伝馬とは、兵の移動や物資の輸送に備えて、宿場に乗り継ぎ用の馬や人足を置くこと、あるいはその乗り継ぎ用の馬のことを指す。公用の旅行者や荷物を宿駅から宿駅へと送るこの伝馬制度は、実に合理的な方法である。
物流に詳しい人なら、現在の佐川急便やヤマト運輸が行っているシステムと同じであることに気づくだろう。たとえば全国から東京都内に向けて送られた荷物は、一度品川の巨大な倉庫に集まる。物資は届け先によって渋谷区、世田谷区などに分類され、そのエリアの担当者が品川の倉庫までトラックで駆け、トラックに荷物を載せ、自分の地区へ戻る。これは家康が考案した伝馬制度を踏襲した物流システムである。
各宿場には、一定の馬と人足を常備する問屋(とんや)が置かれた。東海道では当初、問屋の数は36であったが、だんだん公用の輸送・交通量が増え、1616年には75、1638年には100となったが、それでも足りずに宿場の近所の農村から人や馬が借り出された。このように宿駅周辺の村々に課役を負わせたのが助郷(すけごう)制度である。助郷役には報酬として賃銭が支払われたが通常賃銭の半分くらいにしかならず、遠い村から往復に1、2日かかってもその分は無償であった。また、幕府公用の旅行者は農繁期に多く、村では助郷役に差し出す農民が間に合わずに代わりに金銭を差し出すこともあり、村の財政は圧迫されたという。
興味深いのは、公用の荷物は無料であったことだ。おそらく地方の大名が徳川家に送った手紙や物資のことであろう。公用であることを証明するために幕府は朱印状(伝馬朱印)を発行した。これを携帯していない者に対して、各問屋は公用の伝馬を出すことを禁じられたのである。商業が発達するまでは、幹線道路では公用の荷物の輸送が主であったようだ。
では、こういった荷物の全工程の管理と権限を誰が持っていたのかと思って調べてみると、江戸の町年寄が担っていたことがわかった。さらに輸送を管理していた伝馬役は、現在の皇居前に当たる村の有力者であったようだ。つまり、民間に任せたのである。彼らは江戸城が完成した際に埋立地に立ち退きした村人だ。だからであろうか、伝馬役を手配する代償として新たな土地を与えられ、その名主になっていった。伝馬役が移り住んだ町は、大伝馬町、南伝馬町、小伝馬町と呼ばれた。そうしてその周辺に伊勢商人などが進出して店を開き、問屋町が形成されていく。これが中央区日本橋に残っている「大伝馬町」「小伝馬町」の町名の由来である。
By Master K/益田 慶