7 江戸幕府の支配統制 年貢という租税制度
大名の支配統制と鉱山など直轄地のオペレーションの次に説明しておかなければいけないのが、農民統制である。農民が生産した米を大名が年貢として徴収し、大名は幕府に石高を申請し、上納金を納める。年貢収入が幕府の財政の基盤であったことを鑑みるなら、この制度こそが江戸幕府の支配統制の屋台骨といえよう。
そのベースになる「検地」は、戦国大名が自分の支配地域で課税を行うための資料として土地の調査を行ったのが起源だ。織田信長も領国内で検地を実施していたが、初めて全国規模で検地を行ったのは豊臣秀吉である。いわゆる「太閤検地」の多くは、大名の自己申告であった。これによって全国的に石高制が認知されるようになる。
太閤検地が画期的であったのは、土地の所有者でなく、耕作者(農民)を調査し、農民に課税したことである。これによって中間で搾取する武士が一掃された。流通業でいえば問屋をなくしたようなものだ。農民出身の秀吉らしい政策であった。この太閤検地を下敷きにしたものが、江戸幕府の初期の貢租(年貢)である。これは言い換えれば、幕府の租税制度である。
幕府はすべての土地の価値を米の生産力におきかえる「石高制」を採用し、全国的な流通による諸年貢の換金、領主経済の維持を保証し、領主は検地によって石高を計算したのである。検地にはさらにもうひとつの大きな目的があった。その土地の広さを調査するばかりでなく、農民は検地帳に記名され、職業「百姓」として租税の負担者とされた。検地帳という名の「課税台帳」がつくられたのである。
江戸時代初期の年貢徴収は、田を観察し、その年の収穫量を見込んで毎年年貢率を決定する方法が採用されていた。年間の石高から計算する方式なので、現在の税金の種類でいえば「総合課税」といえよう。このシステムを全国で機能するように推進したのは、大名と全国に派遣された奉行、代官である。幕府はごく少人数で各地に税務署にあたる組織をつくったのである。こういったしくみが徳川三百年を支えたのである。
年貢のシステムはこうだ。領地の石高を村々に振り分け、村全体の石高として換算し、年貢納入は村落が一括納入の義務を負う。そして幕府から派遣された代官や奉行、領地の大名の税務担当者がその村落の代表者から徴収し、幕府や大名に納めるのである。
物事をあきらめるたとえとして「ここが年貢の納め時」と言うが、その裏には当時の農民の「なんとか年貢納入を回避したい」という赤裸々な心情が見え隠れしている。また、村単位で協同して米をつくらなければいけという姿から農耕民族の「村社会」の構図がくっきりと浮かびあがってくる。農作業をさぼると村全体に迷惑がかかることになるのである。
徴収される年貢高に大きく影響を与えるのが、その領地が幕府直轄領か否かである。大名領では五公五民、つまり50%の収納率。これに対して幕府直轄領の場合、公定年貢率は四公六民、すなわち幕府の徴収は40%であった。
しかし実際には、マネジメントを担う代官の数がかなり少ないため、徴税活動の浸透率が低く、40%の徴収率に達することは難しかったとされている。幕府の直轄地を「天領」と呼ぶのは、天(幕府)が収める領という意味だけでなく、年貢が少なくてすむから農民にとって有利だというニュアンスが込められているようだ。
検地による年貢徴収制度にはメリットとデメリットがある。メリットは農民の管理がしやすいこと、課税制度が築けること、少数の管理者ですむことなどがある。「小さな政府」が稼動するには、やはりこういった課税システム、支配制度が必要であったということだ。デメリットは洪水や干ばつ、台風などでその年の実際の石高が大きく左右することだ。大名も農民も年によって収入が大きく変わるリスクを背負っていたのである。このことから江戸中期には、豊作・不作にかかわらず一定の年貢率による定免(じょうめん)法が採用されるようになる。
By Master K/益田 慶