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小栗上野介が駆け抜けた時代 57 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(6)

万延元年(1860年)、国内の全市場を支配するための中核機構「国益会所」プランは勘定方の下で順調に発展しました。牽引したのは、老中の安藤信正と久世広周(ひろちか)です。2人が推進した政策論は公武合体です。つまり、公家(朝廷)の伝統的権威と武家(幕府)を結びつけて幕府権力の再強化を図ろうというものです。


幕府は1861年には、孝明天皇の妹の和宮を14代将軍家茂夫人として婚姻関係を結ぶことに成功します。孝明天皇はもともと鎖国を主張していた人物で、井伊直弼が独断で諸外国と通商条約を結んだことを不満に思っていました。外国人排除を唱える攘夷論を貫き、西洋医学の禁止を命じるなど保守的な考え方を示しました。その攘夷論者の孝明天皇と徳川家が親戚となることで、老中の安藤と久世は公武合体を推進したわけです。


皇妹和宮の降嫁による幕府の支出は莫大であったと想像できます。しかし、幕府は井伊政権時にこじれきった朝廷との関係を修復するため、金に糸目を付けない歓迎をしなければいけませんでした。この婚礼行列は総勢6000人という規模に膨れ上がり、これが中山道の全行程を旅したわけですから、旅費・飲食代だけでも莫大なものになります。


しかも勤王の志士による和宮奪回計画の噂があがり、幕府は沿道警備に計29藩の藩士を動員したといわれています。それに要した費用をすべて財政の疲弊している各藩に負担させるわけにはいかず、幕府が何らかの形で資金を諸藩に提供したのでしょう。火の車であった幕府の財政は、さらに圧迫されたはずです。


さて、老中の安藤信正と久世広周が主導した「国益会所」ですが、12月には会所頭取が任命され、翌文久2年2月に国益会所が正式に発足しました。5月からは実際の事務を取り始めたのです。しかし、7月になって会所そのものが廃止されます。その理由は、この構想の推進役であった安藤信正が「坂下門外の変」を機に失脚し、久世広周も公武合体の失敗を理由に罷免させられたからです。政権は一橋慶喜(将軍後見職)、松平慶永(政事総裁職)に交替していきます。


「坂下門外の変」とは、文久2年(1862年)1月15日、江戸城坂下門外で、老中安藤信正が、幕政改革を目指す水戸の尊皇攘夷派浪士ら6名に襲撃された事件です。井伊直弼から続く開国路線が尊攘派の反発を呼び、さらに安藤が推進した、朝幕関係の改善を目指す公武合体路線の具体策である皇妹和宮降嫁が、尊攘派の怒りを買っていたのです。水戸浪士の意図は討幕ではなく幕政改革で、安藤の命にも別状はありませんでしたが、幕府の要人が再度白昼に襲撃され、幕府の権威をさらに傷つけることになったため、安藤は同年4月に老中を罷免されます。

ところで水戸藩といえば徳川御三家のひとつ。幕府に近い藩がどうして尊皇攘夷の思想を抱いていたのかといえば、水戸藩・徳川光圀が開いた「水戸学」に天皇を尊ぶ尊王思想が記されており、水戸藩はこれに強く影響を受けていたからです。


安藤と久世の失脚後に政権を担当したのは、水戸徳川家出身で、同じく御三家の一橋家を継いだ一橋慶喜(将軍後見職)と、松平慶永(政事総裁職)です。2人はすでに実施に入っていた「国益会所」による全国的流通の把握をめざす政策を廃棄します。2人が実施した「文久の幕政改革」のうち、経済上の政策である全国市場の幕府による独占的支配という構想は大きく後退し、軍政改革に重点がおかれるようになります。


商業を全面的に国家がコントロールしようという考え方は、かつてのロシアや東欧圏諸国が押し進め、失敗に終わっています。しかし当時の日本では諸藩が財政危機を乗り切るために同様の施策を展開し、成功を収めていました。社会主義国の発想ですが、仮に流通の中央支配が成功していれば、幕府には莫大な利潤が確保できたことでしょう。安藤信正の失脚により、幕府は惜しまれるチャンスを逃したのかもしれません。


By Master K/益田 慶