小栗上野介が駆け抜けた時代 55 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(4)
小栗上野介が遣米使節団の監査として渡米した万延元年(1860年)、安藤信正が老中に就任します。急増する輸出需要に生産供給が追いつかず、物価高騰を招いたことを抑止すべく、安藤は開港と自由貿易に対して妨害的とさえいえる行動を様々な場面で見せるようになります。しかし「五品江戸回送令」によって発生した貿易量の落ち込みはそう多くではありませんでした。そしてもうひとつの大きな問題「金貨の流出」に歯止めをかけることもできませんでした。
経済の混乱状態を打開するには、井伊直弼が処分を行ったエリート官僚たち、たとえば岩瀬忠震や水野忠徳を再起用して対応させれば良さそうなものですが、安藤にはそういう戦略はなかったようです。
開港に伴って物価が高騰した理由は、通商条約が採用している為替レートが実勢に見合っていないために、外国から見て日本製品に割安感があったからです。従ってレートを改訂すれば輸出量は阻止でき、国内に商品は行き渡り、物価高騰を鎮めることができるわけです。
当時は実質的に銀本位制でしたから、基本レートは銀貨が決済単位でした。銀貨を改鋳して、より高品位にすればやっかいな対外交渉などしなくとも、自動的に為替レートの改訂ができます。例えば「銀1分=1ドル」というペリーの時点のレートに戻せば、外から見た日本の物価は一気に3倍以上に跳ね上がることになりますから、激しい輸出はいやでも止まるはずです。
さらに金貨が流出する理由を説明すれば、銀貨をベースとする為替レートに基づく小判の価値に比べて、海外の金の取引価格が高すぎるからです。そこで、日本の銀貨の対外価値を高めれば、自動的に小判の対外価格も高くなり、金の流出はやはり止まるはずです。仮に上記のように、銀1分=1ドルとすれば、自動的に小判は4ドルという計算になりますから、海外よりも金が高くなり、うまくいけば流出した金が戻って来るくらいになるはずです。つまり、物価の高騰も金貨の流出も、銀貨の高品位化というひとつの政策で解決可能ということになります。
そもそも、こうした問題が起こった原因は、この時期の一分銀が幕府通貨史の中でも際立って粗悪な通貨だったことにあります。劣悪な一分銀が安政元年(1854年)まで鋳造・発行され続けており、最終的な発行量は総計で4520万0589両、1億8080万枚になります。さらにそれより粗悪な安政一分銀も井伊直弼によって発行されていました。
閑職に追い込まれていた水野忠徳は、南鐐(質の良い銀)貨幣を復活し、これを為替レートを決定する際の基本通貨とすればよいと考えました。南鐐二朱銀はその重量から計算すると43セント程度に相当し、南鐐は二朱ですから1両はその8倍、したがって3ドル43セント程度になります。つまりこれが基本レートになれば、日本通貨はそれまでよりも約2.3倍強くなり、輸出にも歯止めがかかるし、金の流出も止まるということになります。
しかし、水野のプランは、アメリカ外交官のハリスの強硬なクレームを受けて実施には至りませんでした。ハリスはその改革が実行されると、日本との貿易で利益が少なくなることをすぐに理解したのです。しかし、為替レートの変更を外国との交渉ではなく、国内における改鋳という処理だけで行いうる点では、水野のアイディアはとても優れていたといえるでしょう。
改鋳による為替レートの変更を諦めた水野は、改めて次の策を建議します。それは金の流出だけでも食い止めようという方策でした。小判が国内的には一分銀の4倍の価値しかないのに、それに含まれる金の量が国際水準から見て高すぎることが流出原因でした。したがって、国際水準から見て一分銀の4倍程度しか金を含んでいない小判を発行すれば、いやでも金の流出は止まると推測したのです。こうして発行されたのが、かの有名な万延小判です。
By Master K/益田 慶