小栗上野介が駆け抜けた時代 54 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(3)
幕末の貿易は、函館、横浜、長崎の3港の開港とともに生糸などの輸出品を中心に活性化します。さらに中国・清朝末期の大反乱「太平天国の乱」(1851~1864年)にイギリス・フランスの介入が本格化し、本来ならば需要がないはずの雑穀や蝋などの軍需品の輸出増加も始まりました。こうした急増する輸出需要に対し、生産供給が追いつかず、全般的に物価が高騰するなど、日本経済に大きな混乱が生じていました。最も大きな被害をこうむったのは、江戸の問屋です。
井伊直弼の補佐をしていた老中の安藤信正は、井伊直弼が「桜田門の変」で暗殺された際にそばにいた人物で、井伊暗殺後、最高権力者となります。独裁政権を進め、経済対策面では無策であった井伊とは異なり、安藤は経済の混乱に対応するために「五品(ごひん)江戸廻送令」として知られる命令を発します。これは「雑穀、水油、蝋(ろう)、呉服、糸など五つの商品を江戸経由で流通せよ」という政策です。水油とは灯油、つまり行灯(あんどん)に使う菜種油で、糸とは生糸の意味です。
要するに「多くの商品が横浜に集まってしまった結果、江戸が品薄になって庶民が困っているので、特に生活必需品である五品について当分の間は、いったんは江戸に回しなさい」という政策です。確かに雑穀から呉服までの4品については日用品で、これらが品薄になれば庶民の生活に響くだろうということは想像できます。しかし、同時にこのような幕末の日本人の日常に密着した商品が、この時代に欧州やアメリカまで運ぶ貿易の対象になったとは思えません。灯油や雑穀は欧州やアメリカのほうが豊富で、また外国人は呉服を着用しません。したがって、開港のために江戸の庶民の必需品が不足したというのは疑ってかかったほうがよいでしょう。
着目すべき品目は、生糸だけです。江戸に住む一般庶民が、生糸から自分の衣類を生産したとか、江戸市中に機織り工場があったわけではありません。また、普通の庶民は絹織物を日常に着ていたわけでもありません。つまり、生糸が江戸に流通しなくなったからといって庶民が困ったという事実はないのです。この「五品江戸回送令」の本当の狙いは、生糸に関する利益にあったということです。
では、このような法令をわざわざ出すことで、安藤信正は何を狙ったのでしょうか? 名目は「物価高騰の抑制」ですが、従来の通説では「開港場に地方商人が直接輸出品を売り込むようになったので、それまで独占的に商品を扱っていた江戸の特権商人が打撃を受けたことから、幕府を動かして出させた」と記されています。仮にそうであるならば、「五品江戸回送令」は輸出抑制策でも物価対策でもなく、単に江戸商人の利潤確保策です。
たとえば「幕臣が彼らからワイロを受け取ったから」と想像するのは、うがった見方でしょうか。井伊直弼時代の幕府財政は、金銀の改鋳益に頼る以外、何ら具体的な歳入増加策はなく、「火の車」であったと想像できます。そこで幕府、つまり江戸の財政拡大のための起死回生の策が「五品江戸回送令」だったのでしょう。青写真を描いたのは、井伊直弼だったのかもしれません。江戸商人たちは、多額の上納金を行うことで、この法令を井伊直弼、あるいは安藤信正から引き出すことに成功したのでしょう。
列強各国が「条約に規定する自由貿易を妨げる」と反発したのは当然のことです。一方、「五品江戸回送令」に従い、在郷商人の荷物は、建前上いったんは江戸に回されますが、実際には単に問屋の送り状を受けただけでそのまま横浜に送られることになりました。江戸商人は、送り状の発行に当たってマージンが確保できれば満足で、生糸の現物を必要としていたわけではないからです。したがってこの時点での「五品江戸回送令」は、貿易そのものには影響を与える措置ではありませんでした。また、在郷商人は直接、横浜へ配送する者が多く、法令の効果は上がりませんでした。
By Master K/益田 慶