小栗上野介が駆け抜けた時代 53 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(2)
小栗上野介、水野忠徳とともに「幕末の政治家三傑」に挙げられる岩瀬忠震(ただなり)は1858年、当時目付の職でしたが、大老に就任したばかりの井伊直弼の同意を得ぬままポーハタン号へ赴き、独断によりハリスを相手に日米通商条約に調印しました。岩瀬は早くから横浜開港説を唱えるほどの開国実務派で、「日本の中のアメリカ人」と陰口を叩かれていたと言われています。彼が日米通商条約の締結を遮二無二に急いだのは、フランスの養蚕地が蚕の伝染病で全滅したため、世界市場で生糸の相場が高騰し始めていたときでした。つまり、日本にとって貿易の好機が到来していたのです。
岩瀬はずいぶん葛藤したと想像できます。5日後に到着するという英仏艦隊の砲艦外交に屈し、日本をアジア諸国のように英仏の植民地としてしまうのか、あるいはその前にアメリカを相手に戦火を交えるのか、もしくは日米通商条約を締結し、自由貿易を始めるのか――。岩瀬が選んだ選択肢は、結果として日本の近代化を促すために役立ったわけです。調印後に外国奉行に昇進した岩瀬ですが、井伊直弼によって免職させられます。
井伊は生糸の増産、開国と貿易開始の実現に努めてきた海防問題を専門的に扱う部署「海防掛」を解体し、「外国奉行」を新設しました。その第一号が岩瀬です。井伊が「もはや、開国は時の趨勢(すうせい)」といった言葉(ことば)を書き残しているのは事実です。しかし、鎖国を国是としたうえでの限定開国であり、生糸貿易によって一気に富国強兵、殖産興業を実現させようとしたひとつ前の老中堀田正睦や岩瀬、次に紹介する水野忠徳ほどの先見性はなかったようです。
のちに外国奉行を務めた水野忠徳は、岩瀬と同じく阿部正弘によって抜擢された旗本でした。日英和親条約、英・仏各通商条約交渉の全権を担ったほか、岩瀬とともに蘭・露各追加条約に調印し、また神奈川開港地問題、通貨問題など条約締結後の諸問題の解決に能力を発揮した幕府の外務官僚です。
水野の業績として忘れてはならないのが、長崎奉行時代に挑んだ「長崎海軍伝習所」の設立です。これは幕府が海軍士官育成のために設けた教育機関で、幕臣や諸藩士が抜擢され、西洋技術や航海術、蘭学などを学ばせました。第1期には幕臣として勝海舟、薩摩藩の五代友厚がいます。練習艦の咸臨丸(かんりんまる)は、のちに遣米使節団とともにアメリカへ渡たり、その時の艦長が勝海舟であったことは有名です。
英・仏各通商条約交渉の全権を担った優秀な外務官僚であった水野は、1859年には神奈川奉行を兼任します。その年に「ロシア国士官暗殺事件」が横浜で発生し、その処置が業務怠慢と受け取られ、外国奉行と神奈川奉行の職を解かれ、軍艦奉行に左遷。この問題で1860年の遣米使節団に参加できませんでした。岩瀬は将軍の跡継ぎ問題で井伊直弼と意見を異にしたため官位を奪われていたので、やはり使節団には参加できず、そこで新たに使節候補に挙がったのが、新見正興(まさおき)、村垣範正(のりまさ)、そして小栗上野介の3名だったのです。
さて、1859年から函館、横浜、長崎の3港で貿易が開始され、港に居留する外国商人と日本人商人との間で取引が行われるようになります。日本からは主に生糸が輸出されました。この貿易は岩瀬忠震が目論んだとおりでした。
特にフランスの養蚕地が蚕の伝染病で全滅したため生糸は、国内市場よりも貿易市場の方が高値で取引されました。それによって生産地と市場を仲立ちしていた商人は、江戸などの大都市の問屋ではなく、直接開港場へ生産品を卸すようになります。そのため、江戸の問屋商人を中心とする従来の流通機構が徐々にほころびを見せ始めるのです。これは中間マージンを省き、物流をスピードアップさせる近代的なビジネスに通じることですが、幕末の経済は混乱しました。
By Master K/益田 慶