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小栗上野介が駆け抜けた時代 52 幕末の貿易と外交、経済政策の見取り図(1)

今週から幕末期の主な貿易と外交にスポットを当て、広くは幕府、幕臣、各藩の経済政策を俯瞰してつづっていきます。今日の貿易や外交、経済政策にも通じる点が多く、また幕末の要人たちが考えた方針や政策には先見的な政策も多くあったことにも注目してください。


小栗上野介は幕臣としていろんな役職につきましたが、1860年から約1年間、「外国奉行」という重職を拝命しています。これは1858年、日米修好通商条約が締結された際に設置されたもので、主な仕事は対外交渉などの実務でした。つまり、外交官兼外務大臣といった職務です。
外国奉行として功績をあげた人物の名を挙げるなら、岩瀬忠震(ただなり)、水野忠徳、新見正興、そして小栗上野介の4名でしょう。


岩瀬は、黒船来航という非常事態に直面した当時の老中阿部正弘が挑んだ思い切った人材登用によって1854年、目付に抜擢されます。阿部は東大の前身の蕃書調所を開校したり、大船製造禁止令を解いて船の建造を認めたり、いくつかの改革を実行した政治家です。その阿部に引き上げられた岩瀬は、1855年にはロシアのプチャーチンと交渉して日露親和条約締結に挑み、1858年にはアメリカ合衆国の総領事タウンゼント・ハリスと交渉して条約締結に臨み、日米修好通商条約に署名した人物です。直後に初代の外国奉行に命じられ、出世を果たしましたが、井伊直弼の大老就任に反対したため2ヶ月後には作事奉行に左遷、翌年には同奉行を解任され、不遇のまま1861年に44歳の若さで死去しました。


同じ時期に活躍した人物に、下総佐倉藩主の堀田正睦(まさよし)がいます。岩瀬と同様、阿部正弘の推挙を受け、幕府の老中に就いた開国派です。攘夷鎖国が時代錯誤であることを痛感し、「一国も早く諸外国と通商すべし」と説いたとされていますが、一説には積極的に交易をするつもりはなく、のらりくらりとアメリカ側の要望をかわしたため、ハリスが激怒したとも伝えられています。真相は不明ですが、やがて日米修好通商条約の締結に必要な朝廷の許可を得られず、井伊直弼に大老の職を譲ります。


岩瀬は開国に積極的な幕臣で、幕末の混迷する外交路線を積極的な開国・通商の方向にリードしていった外交官です。幕末の政治家の三傑として「岩瀬忠震、水野忠徳、小栗上野介」を挙げる専門家は少なくありません。1860年に上野介が初の遣米使節団の監査として渡米する頃には、岩瀬はすでに幕臣ではなかったわけですが、上野介が岩瀬から何らかの影響を受けたことは確かです。


アメリカ総領事のハリスが岩瀬を高く評価したのは、外交担当の岩瀬が聡明だったからでしょう。岩瀬はハリスとの最初の交渉の席で下記のように宣言したと伝えられています。
「我々は通商とか貿易といったことについて全く知らない。貴下は通商が我が国にとり莫大な利益があると言明された。よって、我々は貴下を信頼し、条約草案の起稿を一切お任せする。願わくは我が国に利益のある草庵を作り、貴下の言明に偽りのないことを明らかに示していただきたい」
ずる賢いハリスはアメリカの利益になるよう考えながらも、一方で日本の利益になることも条約に盛り込もうと考えたといわれています。


そして1858年6月、ハリスは岩瀬を呼びつけて、こう忠告したとされています。
「英仏艦隊が5日後に到着します。その前に調印すれば、アメリカは貴国と英仏の間でトラブルが生じた場合、斡旋(あっせん)の労を惜しみません。しかし、応じないときには、英仏に先んじ、重大な決断を下さざるを得ないでしょう」


ハリスはこう言って即時調印を迫ったようです。「アメリカは日本と友好的に通商する目的で来ています。しかしイギリスとフランスの方針は日本を植民地化することだ」というニュアンスです。イギリスとフランスがアロー戦争で清国を武力で侵略したことは、岩瀬の耳にも入っていたことでしょう。即時調印しなければいけない、と岩瀬は察したのでしょう。まさに、そのとき歴史が動いたのです。


By Master K/益田 慶