小栗上野介が駆け抜けた時代 51 激変した世界地図の中の江戸時代 欧米の帝国主義化
幕末に幕府が兵庫(神戸)、新潟などの開港をしぶったのは、輸出による物価高騰で国民の生活が窮乏しているという理由からでした。日本の開港に期待を寄せる欧米諸国と幕府の封建体制とは、本質的に相容れないものでした。1864年にイギリスが、フランス、オランダ、アメリカの4カ国連合艦隊を組んで関門海峡に来襲し、下関を襲撃した意図は、自由貿易を進めようとしない日本への失望感があったと推測できます。
4カ国連合艦隊による下関攻撃の効果は、長州藩の排外方針を全面的に転向させると同時に、イギリスの対日貿易を以前にも増して繁栄に導きました。長州は列強を排斥するのでなく、むしろ力を借りて幕府を倒すことに焦点を定め、イギリスと手を結び、また長州は薩摩藩とも親密になります。薩長連合は反幕府という政策で一致し、幕府を武力で倒す決意を固めます。やがて大政奉還が発表され、日本は明治維新へと展開していきます。日本は欧米式の自由貿易の時代を迎えるのです。
一方、ヨーロッパにおける自由貿易のネットワークは、長くは続きませんでした。日本では明治維新以降にあたる1870年代以降、工業力で英国に対する追い上げを図るドイツは高率の関税を採用し、アメリカは建国以来、厳格な相互主義原則を堅持し、高関税率を維持しました。後発工業国の保護政策の思想的基盤は、自国の未熟な産業を保護することにありました。後発工業国は国内の近代化政策の推進と保護貿易政策を通じて、自国の望ましい比較優位構造が実現し得ると考えたのです。
ドイツは国内市場の独占を国内企業に認め、その利潤をもって外国市場の販路を拡大します。アメリカは羊毛、毛織物、鋼、鋼レールなどに関税を課し、工業生産者に国内市場を与え、利潤の増大、生産の拡張を図ります。ヨーロッパでの不況と農産物価格の低下がきっかけとなって、ロシア、フランスも同様に 19世紀末期には保護主義に転換していきます。
さらにイギリスにおいてもアメリカ、ドイツなどの後進国の急速な経済的台頭により、製品輸出が次第に困難になり、逆に輸入が漸次増加して従来の工業生産者にとっての貿易利益が必ずしも享受されなくなります。またイギリス植民地もそれ自身の工業をもつようになり、イギリス商品の安易な購入を手控えるようになります。このような状況の下で、イギリス本国では帝国特恵関税の設定、保護関税案が提案されますが、当時その案は否決され、辛くも自由貿易は堅持されます。
しかし、アメリカ、ドイツの経済的台頭とともに相対的に経済的地位が低下したイギリスは、アメリカを中心とする保護措置に対して、従来の一方的自由貿易主義を貫くことが困難な状況に陥っていきます。やがて資本の拡大を目指して領土(植民地)の奪い合いが激しくなり、「帝国主義」の思想が生まれ、列強は第一次世界大戦へと進んでいくわけです。
次週からは再び幕末の日本に戻り、小栗上野介はもちろんのこと幕末の要人が外国貿易や外交をどのように考えていたのか、ひいては現代にも応用できる経済政策のあり方をひもといていきます。
By Master K/益田 慶