FX検定公認テキスト「外国為替FX投資の黄金律」 → 詳しくはこちら

小栗上野介が駆け抜けた時代 50 激変した世界地図の中の江戸時代   欧州自由貿易主義

日本が幕末を迎えていた頃、ヨーロッパの列強は自由貿易主義に移行します。穀物法廃止に代表される一方的なイギリスの自由貿易主義は、外国が保護貿易措置を執っている限り、そこから得られる貿易利益には限界がありました。一方、この条約の背景には、フランスのイタリア統一戦争介入による英仏関係の悪化を経済面から緩和しようというフランスの政治的意図もあったようです。


このような背景を理解しておくと、幕末にイギリスやフランスがどうして日本に開国を迫り、自由貿易を求めたのか、その理由が見えてきます。そして1864年にフランス、イギリス、オランダ、アメリカの4カ国連合艦隊が関門海峡に来襲し、長州藩が大敗北した「下関砲撃事件」の重要性が理解できます。


長州藩が前年、下関海峡を通過する外国船(フランス船、アメリカ船、オランダ船)を砲撃したことから勃発したこの事件は、当時の列強が関門海峡の封鎖解除を求めたものでした。列強の間では、一国の領海内における無害航行は、すでに国際法上認められる船舶の権利という認識が生まれていました。また、関門海峡の機能が、欧州におけるスエズ運河とよく似ていたことも挙げられます。博多や長崎、瀬戸内海航路を結ぶ運河としての下関海峡は、列強にとって欧州におけるスエズ運河のように重要な航路だったのです。列強には「自由貿易のルールを理解できない長州には武力で理解させろ」という目論見があったのでしょう。


アメリカ、フランス、オランダの三ヶ国が長州への抗議行動に、被害国ではなかったイギリスの参加を強く求めたのは、イギリスの東洋艦隊が最も優れた勢力を保持していたからです。当初静観していたイギリスが積極的に4カ国連合艦隊に加わったのは、関門海峡の封鎖がイギリスの貿易に深刻な影響を与えることに気づいたからでしょう。長崎の貿易は横浜のそれと比べると小規模でしたが、対日貿易の約20%を占め、兵庫(神戸)、大坂がまだ開港されていない当時にあっては、西日本における重要な貿易の窓口であることに変わりはなかったということです。長崎貿易が破滅的状態に陥ったことで、イギリスは始めて危機感を覚えたのです。


4カ国連合艦隊であるイギリス、フランス、オランダ、アメリカは、水面下で駆け引きをしていたともいえるでしょう。イギリスが下関を襲撃した意図は排他的な傾向の長州藩に是正を進め、開港に導くための軍事的デモンストレーションでした。イギリスはこれと同じことを清国で行って成功しています。「アロー戦争」です。


一方、フランスは当初幕府支援にまわり、対日政策でイギリスとは異なる姿勢を見せました。極東マーケットに食い込もうとしているイギリスの活動を牽制することがフランス側の狙いだったといえるでしょう。アメリカは当時、南北戦争の渦中にあったのでイギリスやフランスが日本に注ぐほどの関心を抱いていなかったと推測できます。古くから日本との貿易をしてきたオランダは不意に長州から砲撃を受けたので、その報復をするといった程度だったと想像できます。


最も進歩的だったのはイギリスです。幕府への期待を薄め、薩長連合に将来の政権構想を求めていました。武器商人を通じて両藩に武器を調達したのも、武器販売による利益を求めただけでなく、いわば薩長のクーデターを支援するものだったともいえます。フランスが恐れたのは、イギリスと長州藩が手を結ぶことだったのでしょう。だからフランス側はイギリスに対抗するために小栗上野介に近寄り、幕府に造船所建設の支援を申し出たのではないでしょうか。その一方で4カ国連合艦隊に参加せざるを得なかったのは、軍事力に優れたイギリスに勝手な行動をさせないための苦肉の策といえるでしょう。しかし、結果的にイギリスが幕府に求めたのは、輸入税を原則として一律16%に引き下げ、輸入税は5~10%に改訂することでした。


By Master K/益田 慶