小栗上野介が駆け抜けた時代 49 激変した世界地図の中の江戸時代 自由主義経済の思想
日本に黒船が来航する数年前のことです。
イギリスでは「穀物法」と並んで重商主義の2大支柱と言われた「航海条例」が1849年に廃止されました。
そもそもこの条例の目的は植民地との中継貿易からオランダを締め出すことにありました。
植民地およびヨーロッパ諸港との貿易を「乗務員の4分の3以上が英国人であること、英国製の船であること、所有者が英国人であること」といった条件を満たす船に限定し、それ以外の入港を禁止していたのです。
しかし自由主義経済の思想が広まったことと、植民地の経済の発展に伴い拡大した植民地からの不満が大きくなったこと、植民地独占体制維持のための行政費と軍事費の増大による納税負担の上昇などを背景に、「航海条例」は廃止されたのです。
イギリスが世界経済の発展に一肌脱いだように見えますが、実質的にはイギリスの「一方的自由貿易主義」が成立することになります。
「航海条例」の廃止は、思想的背景を持ちつつも、貿易相手国の所得増大によるイギリス製品の輸出増大、輸入原材料価格等の低下による輸出コストの低下など、イギリスの利益の観点から実施されたものでした。
残念ながら経済学者リカードの「比較優位の法則」は活用されておらず、後進工業国は食料品、工業用原材料を生産し続け、先進工業国であるイギリスは、強い国際競争力を背景に、世界の工業品市場を独占するという役割分担が継続されることを前提としていたのです。
また、最も政治的困難を伴った穀物法の撤廃は、議会制民主主義下での新興商工業者などへの参政権の拡大と、穀物の大凶作という政治的な環境が整って初めで実施されたという背景もあるのです。
そういった意味で自由貿易論は、強い工業国が貿易によって利益を得るための「強者の論理」としての域を出ていませんでした。
これはある意味では、アメリカが、正確にはアメリカの企業が利益を得るためにアナウンスされた、現代のグローバリズムの思想とよく似ています。
どの時代にあってもその時の強国が自国に有利なルールをつくり、それを外国に押しつける傾向があるようです。
さて、イギリスの政策と並行して、ヨーロッパ大陸においては、統一の遅れたドイツ地方において、1818年以降、主要領邦国家であったプロイセンが領邦内の内部関税の廃止と他のドイツ諸邦との関税協定等を推進し、1833年にはそれら多数の関税協定の結果としてドイツ関税同盟が形成されました。
その後、ドイツだけでなく、オーストリアとハンガリーの関税同盟、スイス内部などで統一的な関税同盟が矢継ぎ早に成立することとなり、ヨーロッパ大陸においても自由通商の基盤が着実に形成されていきました。
では、上野介が製鉄所建設の技術提携国に選んだフランスは、1860年頃どのような状況にあったのでしょうか。
ちょうどナポレオン三世(皇帝在位1852~1870年)の時代です。
1852年に国民投票を経て帝政を開始、1853年にクリミア戦争にイギリスやオスマン帝国側に加担し、ロシア帝国を破り、パリ条約で世界にフランスの力を見せつけました。
1856年には、イギリスと共同してアロー戦争を起こして清朝を屈服。
1858年、インドシナへ出兵してコーチシナ植民地を獲得します。
そして1860年に「英仏通商条約」を締結し、自由貿易を始めます。
こうしてフランスも重商主義から由由貿易へと移行します。
イギリスのヨ-ロッパにおける重要な貿易相手国であったフランスは、他国がフランス商品に特恵的措置な執った場合に、自国の関税も軽減・廃止するという相互主義の立場をとっていました。
このような状況の下で締結された二国間通商条約によって、イギリスは保護関税をほぼ全廃し、フランスは旧来の輸入禁止措置を撤廃し、最高税率を従価3割としたのです。
これによりフランス製のぶどう酒、酢、オリーブ油の対英輸出やイギリス製の綿製品、鉄製品、陶器の対仏輸出など二国間の貿易が促進されたのです。
By Master K/益田 慶