小栗上野介が駆け抜けた時代 48 激変した世界地図の中の江戸時代   欧州列強の重商主義政策

小栗上野介が幕末に行った事業のひとつに製鉄所建設の推進がありました。
その後の日本を近代国家へと牽引する造船業や重工業の萌芽となる事業でした。
結果だけを見てみると、開国した幕末から明治維新にかけては、日本は農業国から製造輸出国へ、保護貿易から自由貿易へと転換する道を選んだ時期ともいえます。
それよりも数十年も前の1846年、イギリスは穀物法を廃止して農業の保護を断念し、工業への特化が始まっていました。


それ以前のイギリス、つまり地主階級を国際競争から守るため、物の厳しい輸入制限を定めた穀物法を遵守していた頃のイギリスでは、輸出産業であった毛織物の国際的独占を図るため、原毛の輸出を禁止していました。


完成品輸入に高関税を賦課するとともに制海権の基礎であり、収益源でもあった海運業の保護育成のため、植民地貿易などをイギリス船に限定し、ヨーロッパからの商品の輸送をイギリス船か原産地船に限定する「航海条例」も制定していました。
ずいぶん保守的な政策ですが、これはイギリスだけではありませんでした。

フランスでも同様に工業原料の輸入には関税を減免し、完成品輸入には高率の関税を課していました。
特にレース織、絹織物、コブラン織、鏡などの嗜好品や贅沢品の製造業者に対しては補助金が施され、輸出が奨励されるとともに輸入が制限されていました。
この時期の強国の貿易政策は、このように貨幣獲得の観点から「輸出を善、輸入を悪」とするいわゆる重商主義政策を取っていたのです。


イギリスにおいては、18世紀に産業革命が進展し、動力化された綿工業を中心として、世界随一の工業力を持つに至っていました。
この時期、経済的・政治的に台頭した綿業資本家は、海外市場の拡大による規模の利益の実現を目指し、自由貿易の推進を主張するようになったのです。
先週のコラムで記したように経済学者の理論が自由貿易推進の支柱になっていたのです。

イギリスにおける産業革命が完成期に近づいた19世紀始めには、経済学者のデビッド・リカードが比較生産費説を唱え、各国が貿易を自由化し、相互に比較優位を持つ財の生産に特化することが双方の利益になるという主張を展開しました。
政治面では、1820年にはロンドンの商人たちが原材料価格を低下させ、安価な商品を海外市場に輸出するために、保護関税制度の撤廃を議会に請願するなどの動きが生じました。


また、リカードは「穀物生産は収益逓減の産業」とも説きました。
つまり、土地の生産力は労働および資本の投入によって増大させることができるが、肥沃度は次第に劣悪化し、ある一定の時点において、資本の投下量を倍増しても、生産物は倍増しないということです。
生産物の価値の増大は、一方では優等地との差が拡大することにつながり、劣等地地代の増大に発展するわけです。


地主は土地の生産力が落ちたら、生産物からの収入が少なくなるので、それを補うために地代を値上げする。
だから農業生産者の利益はますます減っていくということです。この収益逓減の理論は、今日でも実際の経済で応用されています。


思想面、政治面で自由放任の論調が強くなる中で、イギリスは1823年に二国間の条件付き相互主義を内容とする相互関税法を制定し、対外的に関税交渉を進めました。
しかし、後発欧州諸国は国内産業の保護を理由にこれに応じず、イギリスは相互主義を放棄し、1833年に原綿の輸入関税を50%ほど引き下げたことを手始めに、原材料の輸入関税引下げ、関税収入から所得税への財政収入の振替等の関税改革を進め、1840年代後半から50年代に穀物法廃止、一連の関税引下げなど相手国の対応にかかわらず、一方的に関税を引き下げる措置を実施し、輸入の自由化を進めたのです。


イギリスの有税品関税率は、1841年35%でしたが、1860年の関税改正法をもって、保護関税は基本的に全廃されました。


By Master K/益田 慶