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小栗上野介が駆け抜けた時代 46 激変した世界地図の中の江戸時代 ジャーデン・マセソン商会

小栗上野介が幕府初の遣米使節団の監査役として渡米したのは1860年でした。その3年後、5人の長州密航留学生がイギリスへ渡りました。野村弥吉(井上勝)、遠藤謹助、山尾庸三、井上聞多(井上馨)、伊藤俊輔(博文)です。当初はこの5名でしたが、井上聞多と伊藤の2名は、実際に海外に出て攘夷の無謀を痛感し、タイムズ記事で長州と英米仏蘭との間で戦争が始まるとの情報が入ったことから留学を放棄し、1864年4月にロンドンを発ち、帰国します。


この長州留学生たちは、ジャーデン・マセソン商会のウィリアム・ケズウィックや英国領事ジェイムス・ガワーの協力を得て、ジャーディン商会所有のチェルスウィック号で上海に渡り、ロンドン行きの貨物船ペガサス号とホワイト・アッダー号に分乗しながらロンドンに到着しています。
英国留学中に世話役になったのは、ジャーデン・マセソン商会の創業者の一人であるジェームス・マセソンの甥にあたり、マセソン商会(ロンドン)の社長を長く務めたヒュー・マセソンでした。


このヒュー・マセソンの紹介で、長州留学生はロンドン大学ユニバーシティー・カレッジのアレキサンダー・ウィリアム・ウィリアムソン博士と出会います。ウィリアムソン博士は、ユニバーシティー・カレッジの化学教授を務めながら、英国学士院会員、ロンドン化学協会会長などの要職に就いており、偏見にとらわれない世界主義的見解の持ち主でした。また、思想的には、ジョン・S・ミルの功利主義やオーギュスト・コントの実証哲学の信奉者として知られていました。

 
長州留学生5人はウィリアムソン博士がいるユニバーシティー・カレッジに学びながら、揃ってイングランド銀行を見学するなど最先端の知識を吸収していきます。結果として彼らが明治初期に活躍したのですから、彼らの留学は日本の近代化に大いに役立ったといえるでしょう。
伊藤博文はのちに初代総理大臣、井上馨は外務大臣や内務大臣など要職に就きます。井上勝は初代鉄道局長官として日本の鉄道の発展に寄与し、山尾庸三は工部大臣として活躍、遠藤謹助は洋式の新貨幣を鋳造して現在の造幣局のもとをつくります。


では、薩長の留学生を密航させたグラバー商会とジャーデン・マセソン商会は、どうしてそのような協力を買って出たのでしょうか? 利益に敏感なビジネスマンが単なる親切で行ったとはとうてい思えません。


幕府が1862年7月に外国艦船の購入を許可すると、幕府や各藩は競って契約に乗り出し、日本は格好の外国艦船マーケットとなりました。こうした中でグラバーはジャーデン・マセソン商会から委託されて、鉄製蒸気スクリュー船カーセッジ号(12万ドル)を幕府経由で佐賀藩に売却し、1864年10月を契機に本格的な艦船取引に乗り出していきます。
艦船取引は利潤も大きく、このカーセッジ号についても販売価格12万ドルに対して簿価は4万ドルとなっており、この取引だけでジャーデン・マセソン商会は5万8000ドルの純益をあげていることになります。


留学生達が英国で学んでいた頃、すなわち1864年から68年の5年間にグラバーないしはグラバー商会の名前で販売された艦船は24隻、価額にして168万ドルに及びます。これは、同時期に長崎で売却された艦船の約30%、価額にして36%にあたります。売却先は薩摩藩が最も多い6隻、ついで熊本藩の4隻、幕府、佐賀藩、そして長州藩の各3隻となっています。しかし、薩摩藩6隻の内のユニオン号(桜島丸、後に乙丑丸)は土佐藩士である上杉宗次郎(近藤長次郎)が仲介して長州藩が薩摩藩名義で購入した船であり、実際には薩摩藩5隻、長州4隻となります。


グラバーはこうした艦船の売却以外に、各藩の依頼によって英国での船舶建造も仲介していました。この建艦は、グラバーの長兄であるチャールズ、そして薩摩留学生達をロンドンで出迎えたジェイムズらがアバディーンで設立した船舶保険会社グラバー・ブラザーズ社を通じて行われました。

By Master K/益田 慶