小栗上野介が駆け抜けた時代 45 激変した世界地図の中の江戸時代 世界最大の都市・江戸
幕末の日本の人口は、約2500万人と推定され、元禄年間の江戸の人口は約80万人とされています。当時ヨーロッパ最大の都市ロンドンの人口が約50万人とされていることから、江戸は1700年前後に世界最大の都市になったといえるでしょう。当時そのイギリスは世界最大の軍事大国でしたが、長州藩との紛争(1863年)以外いたって友好的だったのは、南下しつつあるロシアの極東での活動を封じ込めるために外交戦略上必要であったということが挙げられます。
もうひとつ異なった見方もできます。イギリスにとって日本は中国ほど大きな市場ではなかったので、江戸での商取引を保護するために軍隊を派遣する必要はないという判断が下されていたということです。軍隊派遣にかかる経費は商取引上の利益をはるかに上回るものだったのでしょう。
幕末における日本の対外交易の少なくとも3分の1は対イギリスでしたが、一方それはイギリスの全対外貿易の50分の1にも満たないものでした。日本との交流を失う危険まで冒して、江戸に3万の軍隊を駐留させようとは思うはずがありません。
1865年に日本を訪れた冒険家のシュリーマンは『シュリーマン旅行記 清国・日本』で「ヨーロッパにおける絹、茶、木綿の暴落と幕府が打ち出す交易に対する無数の障害によって、採算のとれている外国商人はほとんどいない」と記しています。
そんな状況にあっても、日本との交易で財を成す外国人ビジネスマンは少なからずいました。アヘン貿易で財を築き、香港に本拠を置くイギリス系商社「ジャーデン・マセソン商会」は上海にも支店を置き、のちに横浜に支店を出しました。代表はウィリアム・ケズウィックです。同社は中国へのアヘン貿易で富を蓄え、明治維新期の日本へ武器を供給していたことでも、その足跡を記録に残しています。
長崎の武器商人グラバーが興したグラバー商会は、ジャーデン・マセソン商会の長崎支店長的な立場の人物でした。グラバーが輸入した英国産の武器が大量に薩摩や長州に売り渡されて、明治維新が成ったというのは、すでに何度もお伝えしてきました。見方を変えるなら、イギリスが討幕に一役買ったといえるでしょう。
一方、横浜に支店を開いたジャーデン・マセソン商会のケズウィックは、日本の物価の安さに目をつけました。小判を両替して利鞘を稼ぐより商品を買いつけて中国沿岸まで運んで売りさばいたのです。外国人商人が手当たり次第に商品を買いあさったので、つられて貿易と直接関係のない商品の値段も引きずられるように高騰しました。いわゆる便乗値上げです。幕末の物価上昇の要因には、こういうミクロの見方もできそうです。
さらに伊藤博文や井上馨を含む5名の若者が1863年に横浜からイギリスに向けて出航できたのも、1865年に森有礼ら薩藩留学生15人と五代友厚や寺島宗則ら4人の外交使節が海を渡ったのも、グラバーやジャーデン・マセソン商会のケズウィックの手引きがあったからだとされています。彼らを送り出した薩長藩は、幕府の規則(海外渡航は国禁)を無視し、秘密裏に洋行の準備を進めました。
グラバー商会は、資金の大部分をオランダ貿易会社とジャーデン・マセソン商会に依存しており、留学生の学資もジャーデン・マセソン商会(香港)の信用状にもとづいて、マセソン商会(ロンドン)が薩長藩の手形を割り引く形で前貸ししていたとのことです。従って、実質的な留学生の支援者はジャーデン・マセソン・グループであったといえます。つまり、この時点で国際金融資本が日本に流れていたということです。
グラバーの日本での活動はジャーデン・マセソン商会を通じて英国政府に伝えられていたことは間違いありません。それでは、英国政府は日本から来た留学生をどのように受け入れたのでしょうか?
By Master K/益田 慶