小栗上野介が駆け抜けた時代 43 激変した世界地図の中の江戸時代 朝鮮半島

現在の韓国と北朝鮮にあたる李朝の交易は、江戸時代には清帝国に貢ぐような貿易のほか、対馬を介した日本との交易、琉球との交易が中心でした。日本からの輸入品は銅、銀などで、日本への輸出は、塩、生糸、絹織物などでした。対馬との貿易のピークは18世紀中頃。金額ベースで日清、日蘭貿易をしのいでいたとされています。しかし、日本銀の生産量が激減すると、江戸幕府は中国への銀輸出を規制するようになり、続いて李朝への銀輸出禁止令が発布されました。


この金銀についてですが、日本国内では、当時大きな経済問題が進行していました。江戸幕府後期に発生した、日本と外国の金銀比価の違いによる金の流失です。金と銀の交換率は、外国では1対15であったのに対し、日本では1対5でした。外国では金を1グラム買うのに銀を15グラム支払わねばいけませんが、日本では銀を5グラム支払えば金を1グラム手に入れることができたということです。


だから日本が開国し、貿易を開始するやいなや、外国の商人たちは銀を日本に持ち込んで金を買い、外国でそれを銀にかえ、その銀でまた日本の金を買うという繰り返しで巨利を得ていました。幕府がこのことに気づいて貨幣を改鋳した時には、すでに国内から10万両以上の金が流出してしまったあとだったといわれています。幕府は金銀の為替には特に敏感になっていたというわけです。


小栗上野介が1860年に挑んだ、アメリカの金貨と日本の小判の含有量を調べ、それによって交換比率を決めた「史上初の為替レート交渉」には、こういった台所事情も含まれていたのです。じつはアメリカの金貨には銀はほとんど含まれていませんでしたが、日本の小判には相当量の銀が含まれていました。だから、日米の金貨の交換比率は、銀の含有量を含めて評価し、決定することになったのです。


再びアジアに目を向けましょう。アジア諸国との貿易経験のある李朝でしたが、一方で進出してくるヨーロッパの列強に対しては、強固な鎖国政策をとってきました。キリスト教と西欧文化を弾圧する党派が主流になるわけですが、これがのちに朝鮮朝廷の混乱の原因になっていきます。やがて江戸幕府と同じように開国派が主流になっていきます。


1868年に明治政府が成立した際に独立維持の鍵となったのが、じつは朝鮮半島でした。清が李朝やベトナム、琉球などの国を保護国化し、アジアで大きな影響力を発揮しようと改革を進めていた頃、ロシアの南下と朝鮮半島の支配を強化しようとする清を牽制するために日本は1875年、開国を求めて江華島(こうかとう)へ浸入しました。翌1876年、鎖国状態にあった李朝と強引に「日朝修好条規」を結びます。これは李朝を清の属国でなく、独立国として認め、李朝と自由貿易を行うために結ばれた条約です。以降、李朝はアメリカ、イギリス、ドイツ、ロシア、フランスとも同様の条約を締結することにより、列強に開国することになります。


「日朝修好条規」は、自由貿易とはいえ、明らかに不平等条約でした。李朝の港で日本人が起こした犯罪は日本に領事裁判権があるとされたほか、開港場における日本貨幣の使用を認めることが条件になっていました。それより早い1871年に結んだ「日清修好条規」は対等なものでしたから、明治政府はまず朝鮮半島に一定の影響力を持とうとしたのでしょう。李朝では、日本にならって主権国家を目指す勢力と、王朝体制を維持しようとする勢力が対立を深めていきます。と同時に、日本と清との対立も深まっていきます。

こうして「アヘン戦争」や「アロー号事件」などイギリスを中心とした列強の中国侵略に、やがてロシアや日本が加わることになります。


By Master K/益田 慶