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小栗上野介が駆け抜けた時代 42 激変した世界地図の中の江戸時代 産業革命

小栗上野介が遣米使節団としてアメリカ合衆国に渡った1860年当時、世界の工業生産順位は、1位イギリス、2位フランス、3位アメリカ、4位ドイツの順でした。アメリカ以外は逸早く産業革命に成功したヨーロッパの列強ばかりです。

やがてこの順位は、1870年代に1位イギリス、2位アメリカ、3位フランス、4位ドイツへと変化し、世界が大不況に包まれる1873~96年には、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、1900年にはアメリカ、ドイツ、イギリス、フランスへと移っていきます。日本では明治維新直後の政府が不安定な時期に、列強は狂ったように植民地の獲得に乗り出し、「世界の分割」を完成させます。


たとえばアフリカ。1880年代~1900年代頃までにエチオピア、リベリアを除くすべてのアフリカが分割されました。アフリカ分割の中心は、1875年にエジプトからスエズ運河の管理権を獲得したイギリスと、アルジェリアからサハラ砂漠を横切り、東岸に至ろうとするフランスでした。イギリスとフランスは長い間、植民地抗争を続けてきました。「七年戦争」(1756~63年)に敗れて北アメリカの植民地をイギリスに譲り、続いてインドにおける主導権も失ったフランスは当時未開の地であったアフリカを目指したということです。

一方のアメリカ合衆国は、南米との中間に位置し、大西洋と太平洋の中継海域の「カリブ海」の支配が重要であったため攻勢をかけていきます。


では、幕末から明治維新の頃のアジア諸国はどのようになっていたのでしょうか? 日米和親条約を結んだ1854年以降、幕府はイギリス、ロシア、オランダと間で和親条約を締結しましたが、清国との「日清修好条規」、李朝(朝鮮)との「日朝修好条規」が結ばれたのは、明治になってからのことでした。


現在の中国やモンゴル、チベットなどは、統一王朝の清が支配していました。長い歴史をもつ中国は早くに文明が開化し、清帝国の全盛期にはモンゴルの諸部族を併合し、朝鮮、琉球、マカオ、ベトナムなどが清帝国に忠誠心を示してきました。イギリス、フランス、ドイツなどヨーロッパの列強より強国でした。

鎖国を続けた江戸幕府との外交はありませんでしたが、中国商船の長崎貿易は許されていました。しかし、19世紀に入ると、逸早く産業革命に成功したヨーロッパ諸国との力関係が逆転していくのです。


清帝国は1636年に建国され、1912年まで続いた大国です。18世紀末にイギリス商人がヨーロッパの対中国貿易戦争に勝利し、開港地・広州で茶貿易を推進したことを起点にイギリスと清の長く続く関係が生まれます。イギリスはその後、アヘン戦争を仕掛け、清を半植民地化していきます。清はイギリス人と交流することで、ヨーロッパの軍事技術、生産システムなど積極的に導入し、支配体制の再建をはかりました。しかし、それは儒教官僚による統治や伝統的社会を温存して西洋の技術だけを取り入れるもので、表面的な改革であったといえるでしょう。日本が開国に踏み切った背景には、幕府の弱体化だけでなく、清帝国を反面教師にしたという見方もできるでしょう。つまり、「中途半端な改革では近代化は成功しない」「清はイギリスの植民地のままで進んでしまう」という戒めがあったということです。


一方、江戸幕府が現在の韓国と北朝鮮にあたる李朝を脅威に感じていなかった理由のひとつは経済力の低さです。朝鮮王朝のイデオロギーである儒教主義では、商人は極めて卑しい者とされていたため、李朝は経済政策が進んでおらず、貨幣経済自体は自力では成り立っていませんでした。王朝は幾度となく貨幣制度の導入を行ったものの、貨幣の材料である銅を日本に依存し、流通量は極めて少なかったようです。また、豊臣秀吉の朝鮮出兵や清の攻略で国内の産業基盤はズタズタにされていたので、近代化どころの話ではなかったようです。


By Master K/益田 慶