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100年企業 4 旧財閥系の100年企業 住友グループ

住友の起源は、三井よりも古い。江戸時代の寛永年間(1624~1643年)に住友政友が洛中(京都市街)に書籍と医薬品を扱う「富士屋」を開いたことに始まる。この住友政友を住友家の「家祖」とするなら、事業の「業祖」は粗銅から銀を分離する精錬法を開発した蘇我理右衛門となる。理右衛門は政友の姉婿である。政友は理右衛門の長男・友似と娘を結婚させ、住友家に迎えた。のちに住友友似は大坂に進出し、銅商「泉屋」を営み、父親から受け継いだ粗銅から銀を取り出す技術によって莫大な利益を上げていく。友以は銅貿易をもとに糸、反物、砂糖、薬種などを扱う貿易商になり、さらには友似の末子が両替商を開業し、泉屋は「大坂に比肩するものなし」と言われるほどに繁盛した。


友似の孫にあたる代にあたる1690年、住友家は幕府直轄地であった別子銅山(愛媛県新居浜市)の開発に着手し、世界最大級の産銅量を誇る銅山に成長させる。この住友家が運営を担った別子銅山が住友財閥の出発点であり、それ以降約280年にわたって住友グループの重要な事業となったのである。幕末から戦前までの住友財閥の特徴は、「総理事」と呼ばれる住友家の当主に代わって事業を監督処理する代理人を置いたことにある。住友家の「君臨すれども統治せず」の姿勢は、三井財閥・三井家や三菱グループ・岩崎家とは対照的である。


初代総理事の広瀬宰平が、最初に住友家と事業を分けた人物である。別子銅山の支配人として近代化を推し進めた人物で、幕末には別子銅山を没収しようとした新政府の使者に向かって「確かに別子銅山は幕府領であるけれども、住友家が発見し、独力で経営してきたものである。しかるに、新政府がこれを没収し、経験のない者に任せるというのであれば、それは国益に反することである」と訴えたとされている。明治に入り、製鉄・化学工業の重要性を痛感した広瀬は、硫酸製造や製鉄にも乗り出した。こういった先見性のある総理事が住友財閥を支えたのである。


さて、住友グループの「御三家」といえば、住友銀行(現三井住友銀行)、住友金属工業、住友化学があり、「新御三家」には住友商事、住友電気工業、NEC(日本電気)が並ぶ。1895年(明治28年)、住友家15代当主・住友吉左衛門の個人経営によって大阪でスタートしたのが旧「住友銀行」である。三井との連合がなければ「100年企業」に該当したわけだが、バブル崩壊後の長期不況に加え、住友不動産、住友建設といった直系企業が抱える巨額の不良債権、メインバンクであった熊谷組の経営危機(最終的に債権放棄)、金融のグローバル化による銀行再編の波を受けていた住友銀行にとっては三井との合併は賢明な選択肢であったといえよう。


「御三家」の住友金属工業、住友化学、「新御三家」の三社も「100年企業」には該当しない。それでは住友グループの「100年企業」を紹介していこう。


1888年(明治21年)に別子銅山で修理工場として創業したのが「住友重機機械工業」である。銅山が滅び、修理工場からスタートした同社が総合機械メーカーとして生き残ったのは時代の流れを物語っている。二代目総理事・伊庭貞剛が、住友の事業の起点となったアルミと銅のメーカー「住友軽金属工業」を創業したのが1897年 (明治30年) 。また発電機や変電機の製造で名高い「明電舎」も同年に創業されている。伊庭は翌年、別子銅山に山林課と土木課を設立した。その山林課が現在の「住友林業」に発展したのである。製造業に欠かせない倉庫業では、「住友倉庫」(1899年創業)が「100年企業」に該当する。「住友生命」と「住友大阪セメント」はともに1907年創業なので、本年が100周年にあたる。


さて、2001年に住友銀行と三井グループのさくら銀行が合併して「三井住友銀行」が誕生した際には、住友グループと三井グループの合併が進み、経済界の再編成が加速するかに見えたが、2003年に住友化学と三井化学が経営合併を撤回したように、メリットのない業界では合併はないということだろう。企業カラーの異なる三井との合体は、今後も注目していきたい。


By Master K/益田 慶