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小栗上野介が駆け抜けた時代 41 激変した世界地図の中の江戸時代 ヨーロッパ列強

小栗上野介が生きた幕末は、世界地図が頻繁に塗り替えられた時代でした。当時、北アフリカ、中東から現在のトルコ一体に巨大な帝国がありました。王家オスマン家を君主としたオスマン帝国です。多民族帝国であったことで、民族運動が起こり、また産業革命に乗り遅れたことでヨーロッパ列強との経済力の差は歴然となっていました。


ヨーロッパ列強が競って紛争に介入した、オスマン帝国内の民族運動は「東方問題」と呼ばれました。その起点となったのが、ギリシア独立戦争(1821~29年)です。ロシア、イギリス、フランスの支援を受けてギリシアはオスマン帝国から独立しますが、その際にロシアは黒海とエーゲ海を結ぶ海峡の航行権を獲得しました。その後、フランスの援助を受けたエジプトが2回にわたってオスマン帝国からの自立を求めて戦いました。列強の利害は対立しましたが、結局イギリスの主導のもとに解決がはかられ、ロシアの地中海進出とフランスの影響下にあるエジプト独立の阻止がなされました。


ロシアはその後「クリミア戦争」を起こしますが、イギリスとフランスがオスマン帝国を援助したことで敗北し、ロシアの南下政策は完全に挫折します。一方のイギリスは植民地インドを土台に貿易で栄え、中国進出を目指します。これらの動向は「産業革命によって生み出された新しい経済システムがアジア世界を飲み込み始めた」とも解釈できるでしょう。当時の幕府にとって脅威なのは、貿易面では最も交易が深いものの、アジアの植民地化を進めるイギリスと、南下政策を推し進めるロシアだったのでしょう。


17世紀半ば以降、「鎖国」を続けてきた江戸幕府も、アメリカ合衆国使節ペリーの浦和来航をきっかけに大きく動揺します。幕末の国論は、ご存知のように「尊王・攘夷」と「開国」に二分されました。そして1854年、遂に215年ぶりの開国に踏み切りました。小栗上野介が遣米使節団としてアメリカ合衆国に赴いたのは、1860年のことです。上野介は造幣施設のほかにワシントンの造船所にも訪れています。「アメリカは鉄の国、日本は木の国」と感想をもらしたとされています。鉄があれば戦艦の製造に着手できます。逸早く産業革命に成功したヨーロッパの列強と、広大な領土を持つロシアとアメリカは、上野介にとってまさにすべてが「鉄の国」に見えたことでしょう。


島国の日本が攻められるとすれば、当時は当然のごとく軍艦によってでした。ここで上野介はロシア海軍とイギリス海軍の侵攻を恐れていたように思われます。「アメリカの支援がなければ、日本はいずれロシア海軍に支配されるのではないか」といった危機感があったのでしょう。そのアメリカは独立戦争で海外進出の余裕はありませんでした。


当時アメリカは、イギリスと共同で香港に艦隊基地を所有していました。対ロシア戦略と幕府海軍の育成を想定した場合、上野介が横浜周辺に海軍の基地が必要だと考えたのは当然のことでしょう。こうして上野介は帰国後、幕府に海軍増強を進言し、1866年に横須賀造船所が完成します。上野介には「大海軍構想」がありました。それは「戦艦は海外から購入すればよい」と主張した勝海舟とは反対のビジョン、すなわち自前の戦艦を製造することでした。歴史は興味深い事実を物語ります。1872年、横須賀造船所は明治政府海軍省の管轄になり、のちに軍艦を製造することになります。上野介の構想が見事に現実化したわけです。


その後、日本が1894年に「日清戦争」を仕掛け、清軍に勝利しますが、これによって日本は東アジアにおける中華秩序を崩壊させ、独自の勢力圏を形成し、同時に本格的な産業革命を進めるための資金を獲得したとも言えるのではないでしょうか。その後、列強の長引く不況によって「帝国主義」が誕生したことは歴史の教科書をひもとくまでもありません。


By Master K/益田 慶