小栗上野介が駆け抜けた時代39 激変した世界地図の中の江戸時代 ヨーロッパによる世界制覇

振り返ってみれば日本が幕末と呼ばれた時代は、ヨーロッパによる世界制覇の時代とも呼べます。各地でヨーロッパ列強が覇権をかけた戦いを繰り返しました。


たとえば同盟国(イギリス、フランス、オスマン帝国)とロシアによる「クリミア戦争」(1853~1856年)、イギリスの支配下にあった北インドの軍事基地でインド人の傭兵が起こした「セポイの反乱」(1857年)、「アロー号事件」をきっかけにイギリスが清帝国を襲った「アロー戦争」(1857~1860年)、サルデーニャ王国がオーストリアと開戦して勝利した「イタリア統一戦争」(1859年)、プロイセン王国(北ドイツ)がオーストリアに圧勝した「普墺戦争」(1866年)。


一方、独立後のアメリカは、実力行使に出た南部軍に北部軍が対峙した「南北戦争」(1861~1865年)の時代を迎えます。

では、同じ時代の日本にカメラを移動しましょう。1853年、ペリーが黒船4隻を引き連れて浦賀へやってきて「開国しろ」と幕府に迫りました。幕僚は返事を先延ばしして、とりあえずペリーに帰国してもらいます。しかし、同じ年に今度はロシア大使プゥチャーチンが長崎を訪れ、ペリーと同じように開国を迫ったのです。ロシアの南下政策はついに極東の島国にまで及んできたわけです。


1854年にペリーが再来し、遂に「日米和親条約」を結んで開国します。これはロシアのプチャーチンに先を越されないための防衛策でもあったのでしょう。
「日米和親条約」には、アメリカを優遇するという項目が記されていました。つまり、他の国との条約の中に日米和親条約より有利な条項が入った場合は、自動的にアメリカにもその条項が適用されるというものです。


和親条約は、イギリス、ロシア、オランダとの間でも結ばれます。しかし、ロシアのプチャーチンと結んだ「日露和親条約」だけは他国と内容が異なるので注意してください。その後の日本の歴史に大きな影響を与えることになるのです。「北方の領土については、択捉(エトロフ)島より南が日本領、得撫(ウルップ)島より北をロシア領として、樺太については両国人の雑居の地」としたのです。ここに初めて北方領土に「国境」という概念が生まれたのです。


さて、1856年になると、ハリスがアメリカの初代総領事として来日し、下田に駐在します。彼の使命は、日本と通商条約を結ぶことでした。つまり、自由貿易を求めるものです。そして1858年、大老・井伊直弼が天皇の勅許を得ないまま、「日米修好通商条約」に調印します。これには1856年に起こった「アロー号事件」が大きな影響を与えていました。

イギリスがフランスと組んで清帝国を攻め入り、広東を軍事制圧したことを井伊直弼は耳にしていたのでしょう。そしてハリスが「アロー号事件」を例に挙げてイギリスとフランスの脅威を説き、アメリカと条約を結ぶほうが有利であると主張したのでしょう。これには「イギリスやフランスがひどい内容の不平等条約を押し付けてきた場合には、アメリカが阻止してあげよう」といった安保条約にも似た誘いが加味されていたのです。


井伊直弼はイギリスに攻撃されるより、アメリカと交易を始めるほうがリスクは少ないと考えたのでしょう。井伊直弼の独断が朝廷や攘夷主義者の大きな怒りを買い、のちに暗殺につながるわけです。


その後、幕府はオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同じような条約を結びます。列強諸国との貿易には原則として役人はタッチせず、日本人商人と外国の民間商人との間で行われました。これが自由貿易です。


1859年の輸出総額は約89万ドル、輸入総額は約60万ドルに過ぎませんでしたが、取引額は数年の間に飛躍的に伸びていきます。1865年には輸出総額約1850万ドル、輸入総額約1515万ドルにもなりました。


By Master K/益田 慶