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2007年12月 アーカイブ

2007年12月01日

ヨーロッパの財閥と企業グループ 27 欧州財閥の系譜 フランス財閥

フランスの財閥は、ブランド王国を築いた企業ばかりです。世界に名だたるブランド約50社を擁する「モエ ヘネシー ルイヴィトン」(LVMH)は、高級ブランド品、有名ワイナリーなどを傘下に置く巨大コングロマリット(多角的複合企業体)です。1987年、ルイヴィトンとシャンパン製造会社のモエ・ヘネシーとの合併によりLVMHが誕生。LVMHグループは今日、ルイヴィトン、クリスチャン・ディオール、フェンディ、セリーヌ、セリーヌ有名ブランドを傘下におさめる巨大ブランド企業に成長。ワイン&スピリッツ、ファッション&レザー、パフューム&コスメティックス、ウォッチ&ジュエリー、セレクティブ・リテーリングの5つの事業から成ります。


グループを牽引するのは、会長のベルナール・アルノー。『フォーブス』2006年版の「世界長者番付」では前年の17位から一挙に7位にまで浮上した人物で、一代で資産額2兆3650億円の世界の億万長者となった成功者です。1987年にLVMHが誕生した翌年、クリスチャン・ディオール社がLVMHの株式の4割を取得し、合流しました。アルノーはルイヴィトン社の人間でも、モエ・ヘネシー社の人間でもなく、クリスチャン・ディオール社の社長でした。低迷していたディオール社を復活させた手腕が高く評価され、遂にLVMHも手中に収めたのです。アルノーはクリスチャン・ディオールを手に入れるめに親会社自体を買収し、親会社だけを売却するという離れ業をやってのけた人物です。その際にアルノーは、企業買収、国際投資では世界トップクラスの定評があるフランス系投資銀行「ラザール・フレール」と組んで買収を企てました。プジョー、ルノー、シトロエン、ミシュラン、パナールなどフランス自動車産業はロスチャイルド財閥に支えられてきましたが、その傘下であるラザール・フレール財閥が特に大きな影響力を持つといわれています。


LVMHはワイン&スピリッツ分野では、香港の商社ジャーディン・マセソンや英国ギネス財閥と組んでアジアやアメリカ、フランスなどにおける流通を共同事業で行う協定を定めました。ちなみにギネス社が米国のグランド・メトロポリタン社と合併して誕生したディアジオ社は、LVMH株を取得しています。ギネス財閥がベルナール・アルノーを支援したことで、彼がLVMHの総帥になれたのかもしれません。


90年代に有能なアメリカ、日本、イギリス、フランス、イタリア、スペインなどのデザイナーを起用するとともに積極的にM&Aを展開し、伝統的で優秀な手作りの製品作りで高級ファッション品市場を席巻していきました。特にM&Aによって次々に老舗ブランドを買収して巨大化していった様は、とても現代的な手法といえるでしょう。


ちなみにルイヴィトンの売り上げの4割は日本で、LVMHグループにとって日本人は「いいお客さん」ということになっています。一方、日本人のブランド志向は、ブランド品を貴族階級のものとしてあまり関心を寄せない欧米の庶民からは、異常に見えているようです。


フランスの財閥には、父親から化粧品会社「ロレアル」を引き継いだリリアンヌ・ベッタンクールがいます。彼女は『フォーブス』2006年版の「世界長者番付」では15位にランクインし、フランス国内では第2位となっています。女性の資産家としては世界屈指です。


ほかに著名なフランスの企業グループを挙げるなら、セルジュ・ダッソー率いる「ダッソー・グループ」を忘れてはいけません。ダッソー・グループは、戦闘機ファンには「ミラージュ」でおなじみ。フランス有数の軍需産業企業体であり、最近では情報産業に大きく進出しています。2004年にはフィガロ紙やレクスプレス誌をはじめ複数の有力地方紙を傘下におさめるメディアグループ「ソクプレス」の会長に選ばれています。


By Master K/益田 慶

小栗上野介が駆け抜けた時代 37 激変した世界地図の中の江戸時代 鎖国政策と海外事情

江戸時代中期から後期にかけて起こった世界情勢の激しい変化。たとえばアメリカ合衆国の独立と拡大、ゴールドラッシュの勃発、アヘン戦争を機にしたイギリスによる中国への進出など、鎖国政策を取っていた江戸幕府の首脳部は正確に把握していたのでしょうか?


実はかなり正確に知っていたという説があります。鎖国中であったとはいうものの、オランダ、清国、朝鮮とは貿易のつきあいがありましたから、海外の情報告は少なからず入手していたとされています。
薩摩藩の支配下にあった琉球王国には、1816年にイギリス艦隊が来航しています。こういった事態は薩摩藩を通して幕府へ伝わっていたはずです。また、毎年長崎に来るオランダ船から幕府へ提出される「オランダ風説書」と題した海外情報レポートにも国際情勢は記されていました。


清国がアヘン戦争でイギリスに負け、開国を強いられ、香港まで奪われた事実も幕臣の耳に入っていたようです。幕府は1825年に発令した「異国船打払令」を1842年に廃止し、来航した外国船には薪や水、食糧を与えて帰国してもらおうという新たな法令を発令しています。1844年には、オランダ国王から開国を促す書面を受け取っています。この背景には、イギリスやアメリカ、ロシアなどの大国が日本を植民地にする前にオランダが主導権を握りたいという目論見もあったのでしょう。世界の列強は、未開の地であるアジアへと目を向けていたのです。


ここにその時期にアメリカで貴重な体験をした一人の日本人がいます。のちに小栗上野介が監察として加わる遣米使節団(1860年)の護衛艦「咸臨丸」に通訳として乗船するジョン万次郎(本名:中濱万次郎)は、ゴールドラッシュが始まった年(1849年)にアメリカにいた数少ない日本人、あるいは唯一の日本人でしょう。


彼は1841年、14歳のときに漁師の手伝いで漁に出て遭難し、漁師とともに太平洋に浮かぶ無人島に漂着しました。彼らを救ったのがアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号です。当時の日本は鎖国状態だったので、救われた漁師たちは寄港先のハワイで降ろされました。しかし、船長に気に入られた万次郎は自ら希望し、捕鯨の航海に出かけます。船名にちなみジョン・マン(John Mung)という愛称をアメリカ人からもらい、日本ではのちに「ジョン万次郎」と呼ばれることになるのです。


カリフォル二アのゴールドラッシュは1848年1月21日朝、アメリカ東部出身のジム・マーシャルという偏屈な男がカリフォル二ア中部のコロマを流れるアメリカ河畔で数個の金塊を発見したことから始まります。これがアメリカと世界の歴史を変えたのです。


金発見の噂が流れると世界各地からゴールド・フィーバーに浮かれた人たちが集まって来ました。東部のアメリカ人は妻子や恋人を残して単身で訪れ、メキシコ人は妻子を帯同して春に来て、秋にはメキシコに帰るという季節労働者でした。フランス人は彼らだけて固まってフランス社会を形成し、その言語、文化を維持したようです。中国人は極めて保守的でパイオニア精神に欠け、いつも他民族が掘り尽くして放棄した鉱区の権利を買っては再採掘していたという記録が残っています。国民性があらわれたエピソードです。


万次郎はアメリカ東部のマサチューセッツ州フェアへブンの町で教育を受け、航海術まで学びました。その後、捕鯨船に乗り3年4カ月、7つの海を駆け巡ったとされています。1849年9月、捕鯨基地に戻るとゴールドラッシュの噂を耳にします。日本に帰る資金を稼ぐ絶好のチャンスでした。


カリフォルニア行きを決心した万次郎は、彼を救ってくれた恩人の船長に別れを告げ、海路サンフランシスコに到着。現在カリフォルニア州都のあるサクラメントで食料品、日用品を購入した後、コロマの近くの山に入り、最初は日雇人夫として働き、後に独立して僅か2カ月半で600ドルの大金を貯めることができたとされています。


By Master K/益田 慶

2007年12月02日

FXライフ 16 ユーロの歴史と欧州の通貨 非ユーロ採用国

ユーロを導入していない欧州の国のうち、まだ紹介していない国と通貨を個別に紹介していこう。とりわけ、それらはユーロの登場と拡大によって「どのような影響を受けたのか」に注目したい。


ノルウェーは1994年の国民投票でEU非加盟を決定している。通貨はノルウェー・クローネ。国際表示の略称はNOKだが、国内で値札などに使用されている表示は「kr」だ。クローネとはノルウェー語で「王冠」の意味である。この通貨は、1875年にデンマーク、スウェーデン、ノルウェーによる通貨同盟が結成され、導入されたクローネ(クローナ)が基になっている。ヨーロッパの通貨がユーロに統合されていくなか、ノルウェーが非EU国家であることから「スイス・フラン」とともに富に名高い欧州の通貨である。


ノルウェーはEUに加盟していないとはいえ、EU諸国との貿易関係は輸出入とも強い。意外に知られていないのが産油国としてのノルウェーだ。2004年度には、平均日量2900万バレルの原油を輸出し、世界の原油輸出国の中では、サウジアラビア、ロシアに次いで第3位の大国となった。またノルウェー沖の大陸棚で産出される天然ガスはヨーロッパ全体のガス消費量の15%を占めている。近年は、低金利政策や欧州諸国を中心とした外需の回復を背景に景気が回復し、また石油価格の高騰により、石油産業を中心に経済が活性化している。2006年度のGDPは2.9%、物価上昇率は2.3%、失業率は2.6%と安定している。


このように同国は沿岸の北海大陸棚で採掘される石油、天然ガスなどの資源に恵まれており、石油・天然ガス部門は同国のGDPの25%、また輸出額の約3分の2を占めている。ただし、石油への過度の依存は、国際的な石油価格の変動や輸出先の景気によって国内の経済に大きな影響影響をもたらすので、石油依存体質からの脱却が同国にとっての課題となっている。

また、原油・石油製品の決済はUSドルで行うことから、ノルウェー・クローネは石油価格とは直接連動せず、むしろユーロとの関連性が強いとされている。国際的な比較ではノルウェー・クローネは安定した通貨のひとつといえよう。


ユーロとの関係で見るなら、ノルウェー経営者連盟が企業にユーロ対策指導や相談を行っているが、これまでのところ企業経営方針、戦略、事業再編検討案などに大きな影響は出ていないとのことだ。ユーロが安定すれば為替市場でのリスクが減り、ユーロ経済圏の安定はノルウェー輸出産品の市場安定を意味する。各企業にとっても会計処理が簡易になり、資金調達も容易になるだろう。一方、ユーロ導入国の拡大が進むことのデメリットもある。国際市場での競争力の激化である。価格の透明性が増すことによって、値段の交渉に大きく影響することが予想される。


1993年に分離したチェコとスロバキアもまたユーロ導入に至っていない国である。チェコの通貨はチェコ・コルナ(Kc)、スロバキアの通貨はスロバキア・コルナ(Sk)だ。共産主義国家であった両国は、ともにユーロ導入を掲げている。チェコ人がほとんどを占めるチェコは現在、機械工業、化学工業を中心に景気は好調で、2005年以降6%の高い成長率を記録。賃金上昇が消費に波及し、内需が拡大したことがその要因とされている。一方で失業率の上昇(2006年は6.4%)、財政赤字の増加といった懸念材料もあるが、EU加盟を選択したチェコは、将来のユーロ導入の条件を整備する段階に入ろうとしている。


一方、スロバキア人から成るスロバキアは、2009年のユーロ導入を目指して2005年よりERMⅡに参加。積極的な外国投資の誘致を進め、失業率が10%近くあるものの、近年は個人消費に支えられ、輸出も好調。2006年は8.3%を記録するなど高い経済成長率を示し、2008年度予算では財政赤字が基準を満たすGDP比3%以内に抑えられる見込みである。


By Master K/益田 慶

小栗上野介が駆け抜けた時代 38 激変した世界地図の中の江戸時代 遣米使節団

成立したばかりのアメリカ合衆国は、極めてまとまりのない国家でした。強力な中央政府を樹立し、「国民国家」をつくろうとする北部に対して、イギリスに綿花を供給する南部は経済的にイギリスへの従属状態にあり、北部の支配下に入るのを拒んで州の自立を主張したのです。南部が奴隷制の容認、自由貿易、州の自立を主張したのに対し、北部は奴隷制の廃止、保護貿易、強力な中央政府の構築を唱えていたのです。やがてイギリスが必要とする綿花の一大供給地の「南部」と、工業化を進める「北部」の対立へと発展していきます。


小栗上野介が監察として加わる遣米使節団がアメリカに向かった1860年は、アメリカにとっても大きな分岐点となった年でした。同年11月の選挙で奴隷制廃止論者のリンカーンが第16代大統領に当選したのです。じつはアメリカ視察から帰国した小栗上野介が、最初の外国奉行に昇進したのも同じ11月でした。

翌年には南部11州が「アメリカ連合国」を立ち上げ、北部からの分離をはかります。リンカーンはこれを認めず、南部が実力行使に打って出たことで、「南北戦争」が勃発したのです。


では、南部が綿花を供給したイギリスは当時どのような状態にあったのでしょうか? イギリスは、自国の不景気を解消するために1840年に清帝国に「アヘン戦争」を仕掛け、清帝国から香港島を奪い、「南京条約」を結んで、上海などの5港を開港させ、清帝国に一律5%の関税(関税自由権の喪失)、領事裁判権などを認めさせ、同時にインドへも進出していました。東インド会社がインドの主要な地域を次々と植民地としていったのです。つまり、アジアの大国は、ヨーロッパを中心とする自由貿易圏に組み入れられていったのです。


しかし「アヘン戦争」の勝利によって香港島を支配し、上海などの5港を開港させたものの、イギリスが期待したほどの商業利益は上がりませんでした。そこで再び戦争を起こしてでも「南京条約」を改定させるべきだという風潮が高まっていきます。この口実になったのが「アロー号事件」です。


1856年、広州でイギリス船籍の密輸船アロー号が清の役人に拿捕され、清人船員が海賊の容疑で逮捕されます。その際に清の役人がイギリスの国旗を引き摺り下ろしたことに対して、当時の広東領事ハリー・パークスは「イギリスに対する侮辱だ」と抗議します。これに対して清国の大臣は、国旗が掲げられていなかったことや船籍登録の期限が過ぎていたことを主張し、アロー号船員の逮捕は合法であったと主張。広州に反英運動が高まりました。


一方のイギリスはフランスのナポレオン3世に共同出兵を求め、フランスは広西省でフランス人宣教師が殺害されたことを口実に出兵したのです。


1857年、イギリス・フランス連合は広州を占領。その後、清国内で局地戦を戦い、やがて北京を占領。1860年、北京条約が締結されます。これによって清は、天津の開港、九竜半島の割譲を飲まざるを得なくなり、ロシアは和約に仲介したとして沿海州を譲り受けたのです。


そのロシアは当時、国内政治の不満を解消すべく南下政策を推進していました。つまり、清帝国さらには日本を植民地にしようと目論んでいたのです。こうして見てみると、当時の幕府にとってイギリスが最大の脅威で、次いでロシアということになりそうです。


では、ヨーロッパの大国イタリアとドイツはどういう状況であったのかといえば、イタリアはオーストリアから領土を奪回し、1860年にイタリア王国を成立。現在のドイツは、プロイセン王国時代。軍事力を蓄えつつ、オーストリアとつばぜりあいを繰り返していました。


こういった状況の中で、小栗上野介は日米修好通商条約の締結に関する国書を携えてはるか太平洋を越えてアメリカへ渡ったのです。


By Master K/益田 慶

2007年12月03日

ヨーロッパの財閥と企業グループ 28 欧州財閥の系譜 スウェーデン財閥 イタリア財閥

日本人にはなじみが薄いスウェーデンにも世界有数の資産家がいます。家具の小売業では世界ナンバーワンの売上を誇る「イケア」の総帥イングヴァー・カンブラッドです。


イケア(IKEA)は、スウェーデンの大手家具店でありながら、現在はオランダ南部の都市ライデンを本拠地とする財団法人スティヒティング・インカ・ファウンデーションがイケアグループ全体の親会社を所有する形になっています。圧倒的な売り場面積と低価格路線が受け入れられ、売上高は148億ユーロ(2005年8月末)。イングヴァー・カンブラッドの個人資産は3兆800億円といわれています。『フォーブス』2006年版の「世界長者番付」では、堂々の4位にランキングされています。ノルウェーを足がかりにして、スイス、フランス、ドイツ、デンマークほかヨーロッパのほぼ全域、アメリカやカナダにも店舗をオープン。流通や梱包、製造などのコストを徹底的に削減しながら、顧客のニーズに合わせた格安の組み立て式家具を販売し、その後ヨーロッパで絶大な人気を誇るようになりました。


中国やオーストラリアへも進出し、2006年現在、世界の33の国と地域に合計241店舗。そのうち23カ国、215店舗が直営店です。日本では千葉県と兵庫県に店舗がオープンしています。


親子二代でアパレルブランド「ヘネス&モーリッツ」(H&M)を成功させたジュテファン・パーソンもスウェーデンが誇る資産家の一人です。「最良の価格でファッションとクオリティを提供する」をコンセプトにアメリカでの成功に続き、さらなる国際的拡大を続け、2002年には34,000人以上の従業員を持ち、14ヵ国で800以上の店で衣服および化粧品を販売しています。広告宣伝で有名芸能人とタイアップしてブランドイメージアップを図るユニクロの戦略の手本はH&Mにあるとささやかれているほど。世界のアパレル業界GAPのライバルとして注目されていましたが、瞬く間に600店舗を展開。売上においては、GAPの一店舗あたりよりも30%(1億円)以上も高いとされています。日本にはまだ進出していませんが、注目しておきたい企業です。


一方、イタリアの財閥、企業グループは、日本にもなじみの深いものばかりです。シルビオ・ベルルスコーニはイタリアの前首相にして、サッカーリーグ「セリエA」のACミランのオーナーです。1986年、深刻な低迷期に陥っていたACミランを買収。以来ミランは、数多くのトロフィーを獲得。フォルツァ・イタリア党(中道右派)を設立したベルルスコーニは3期に渡りイタリア首相を歴任。その背後には、豊富な資金力と支配下のメディアの積極的な活用があったとされています。


ベルルスコーニはミラノ生まれ。父親は銀行員でした。ミラノ大学法学部卒。歌手、掃除機販売業を経て、建設業で成功。1978年、42歳という若さで地方民放テレビ局「テレミラノ」を開局。有線テレビ会社や新聞社も経営し、1988年には百貨店「スタンダ」会長に就任し、一代で建設・流通・メディアにわたる企業グループ「フィニンベスト」を築き上げました。特にメディア部門を統括する「メディア・セット」は、全国的な地上波放送を行う民放4局のうち、3局を所有。イタリアのメディアの70パーセントをコントロールするといわれているほどです。イタリアで「メディア王」といえば、ベルルスコーニを指します。個人資産は1兆2100億円。イタリア国内では文句なくナンバーワンです。実業家が首相になるイタリアには、ほかにもユニークな財閥や企業グループがあります。


By Master K/益田 慶

2007年12月3日 FX検定 きょうの問題 台湾総統選 台中問題

2007年12月3日 台湾総統選 台中問題

2008年3月は、台湾の総統選が控えている。北京オリンピックを前に東アジアの大きな問題、地政学的リスクが「台中問題」である。台湾の最大野党は国民党であるが、陳水扁総統率いる台湾の現政権与党は何党か。

正解 民進党 民主進歩党


台湾では、1996年から総統の選出方法として国民選挙を採用している。
台湾は民主国家の原則である民選選挙による国家元首の選択が為されている。

1990年代前半の李登輝総統時代に中華民国の民主化が本格化した。
外省人に対する本省人の政治的地位が向上したこともあり、台湾では自らを「中国人」ではなく「台湾人」と認識する「台湾人意識」が高まった。台湾人意識の高まりと「本土化」により、2000年の台湾総統選挙では「台湾人意識」を強調した陳水扁元台北市長(後に民主進歩党党首も兼務)が当選し台湾政治の本土化が進んだ。「本土化」とは、中華民国を台湾の政権と位置づける考え方である。

台湾独立を叫ぶ与党民進党に対し、中華人民共和国とのこれまでの関係を維持することを主張しているのが国民党、親民党(第3政党右派)である。中国統一か台湾独立かで国論の二分化がより深化しながらも台中の経済関係は親密度を高めており台湾国民がどのような選択をするかで台湾海峡の緊張が高まる可能性がある。

2008年は北京オリンピックの年でもあり、台湾民衆の中には中華人民共和国からの圧力は、国際世論を配慮すると限定的との見方もある。中華人民共和国では北京オリンピック後も上海万博、辛亥革命100周年などの行事が控えているため、中国共産党がどこまで強気の姿勢を見せてくるか注目である。

中国共産党は民進党の下野を望み、国民党との経済重視の対話路線を展開し台湾世論を反独立へと誘導しているといわれている。台湾総統選を前に中国政府は台湾に対しさまざまな圧力をかけてくる可能性がある。アメリカ共和党政権は一貫して台湾擁護の姿勢であるが、アメリカも2008年は大統領選を控えている。ブッシュ政権が終わり次期政権が民主党になるか、共和党になるかは、現在のところ不透明であるが、民主党が政権を獲った場合、特にヒラリー・クリントンが大統領になった場合、アメリカの対外政策は中国寄りにシフトするかもしれない。

台湾総統選の行方、韓国大統領選の行方、アメリカ大統領選の行方、この組み合わせがどのようになるかによって東アジア情勢の様相は変わってくる。中長期的視点から見たときこのような政治動向の理解はFX投資を行うに当たっては確認しておくべき点である。

2007年12月3日 (月) ユーロ圏失業率

08:50 (日) 第3四半期法人季節設備投資
09:30 (豪) 10月貿易収支
16:45 (仏) 10月生産者物価指数
17:15 (香港) 10月小売売上高-価格
17:30 (スイス) 11月SVME購買部協会景気指数
19:00 (ユーロ圏) 10月失業率
24:00 (米) 11月ISM製造業景況指数

5 江戸幕府の支配統制 江戸幕府の職制の特徴

江戸幕府は外交権、行政権、徴税権を握ったばかりでなく、司法・立法権も掌握した。天下統一を果たした徳川氏にはもはや合戦の必要はなくなり、次に目指すのは安定した政治である。それを実施するには組織がいる。徳川幕府は、家康から家光に至る三代の間にコンパクトで合理的な組織をつくりあげていった。以下に紹介する職務の要職には主に譜代・旗本がついた。多くが複数月番制・合議制であった。


最高司令官の「将軍」は、もちろん徳川家の男子が就任。会社でいえば「社長」だが、大御所となった家康などはさしずめ取締役会長か。非常時に置かれた最高職である「大老」は、堀田、酒井、土井、井伊各家から選ばれた。彼らはすべて10万石以上の譜代大名である。こちらは代表権を持つ副社長に該当するだろう。一般政務を統括する「老中」には譜代大名4~6名がつき、当初は年寄と呼ばれた。常置される最高職で、大番頭・大目付・町奉行・勘定奉行・遠国奉行などを支配した。


幕府の官僚機構を見ると、大名を監察するのが「老中」、それ以下の旗本・御家人を監察するのが「若年寄」、大名を監察する「大目付」、旗本・御家人を監察する「目付」、朝廷・西国を監察するために「京都所司代」という役職があてがわれていることから監察機構がしっかりしていることがわかる。


老中が支配した職務のうち「大番頭」は江戸城警備隊長。旗本から任命される軍事部門のトップで、江戸城と江戸市中の警備を担った。「大目付」は大名を監察する役目。さらに老中の下には行政・司法の担当者が並ぶ。「勘定奉行」は天領の財政・行政、関八州の公私領・関八州以外の幕領の司法を担当。天領の経理・財務担当者であり、徴税と司法を担当する「郡代」と「代官」を管理した。
「江戸町奉行」(町奉行)は、江戸の行政・司法・警察を担当。南町奉行と北町奉行が1ヶ月交替の月番制で、旗本より任命された。


地方にある幕府の直轄都市(京都、大坂、駿府、長崎など8つ)には京都町奉行、長崎奉行などの「遠国奉行」が置かれ、それ以外の幕府の領地には勘定奉行配下の郡代や代官が派遣された。ちなみに奉行の出世コースを時代劇「大岡越前」で有名な大岡忠相を例に挙げてみよう。


注目したいのは、ひとつの役職が多くの職務を兼ねていたことだ。江戸町奉行は三千石が支給されるほどの高級官僚で、幕府官僚機構でも上位の役人である。彼らが管理した北町・南町奉行所は、現在の東京都庁と警視庁と裁判所の役目も持っていたと予想される。百万都市・江戸の治安を守っていたのは、現代の警察業務に当たる町奉行所の同心だが、それほど大きくない組織が警察権と裁判権と行政権のほかに消防や防疫など立法権まで兼ね備えていたことは、このコラムのテーマである「小さな政府」ぶりを物語っている。


老中を補佐した「若年寄」も譜代大名から任命され、旗本や御家人を監察した。若年寄の下に置かれた「小姓組番頭」は将軍の雑用係、「書院番頭」は将軍護衛隊の隊長である。


老中や若年寄が管理した多くの職務のほかに、将軍直属の職務もある。寺社・寺社領の監察を務めた寺社奉行は、宗教行政機関である。一万石以上の大名が就任したことから、三奉行の中では旗本から任命される町奉行・勘定奉行より格式は上である。京都所司代・大坂城代も将軍直属で、前者は二条城にあって老中に次ぐ要職。「将軍の代理」というニュアンスであろう。朝廷や西国大名の監視を務めた。後者は大坂城にあって大坂在勤幕府諸役人を統制し、緊急時には将軍に代わって軍事決定権を発揮できた。出世コースとして、大坂城代から京都所司代を経て老中に昇進するのが通例である。


ちなみに奉行の出世コースを時代劇「大岡越前」で有名な大岡忠相を例に挙げてみよう。書院番→仮奉行→遠国奉行(伊勢奉行)→江戸町奉行→普請奉行→寺社奉行→大名。ただし町奉行から大名になったのは、江戸時代を通じて大岡忠相のみである。


By Master K/益田 慶

2007年12月04日

小栗上野介が駆け抜けた時代39 激変した世界地図の中の江戸時代 ヨーロッパによる世界制覇

振り返ってみれば日本が幕末と呼ばれた時代は、ヨーロッパによる世界制覇の時代とも呼べます。各地でヨーロッパ列強が覇権をかけた戦いを繰り返しました。


たとえば同盟国(イギリス、フランス、オスマン帝国)とロシアによる「クリミア戦争」(1853~1856年)、イギリスの支配下にあった北インドの軍事基地でインド人の傭兵が起こした「セポイの反乱」(1857年)、「アロー号事件」をきっかけにイギリスが清帝国を襲った「アロー戦争」(1857~1860年)、サルデーニャ王国がオーストリアと開戦して勝利した「イタリア統一戦争」(1859年)、プロイセン王国(北ドイツ)がオーストリアに圧勝した「普墺戦争」(1866年)。


一方、独立後のアメリカは、実力行使に出た南部軍に北部軍が対峙した「南北戦争」(1861~1865年)の時代を迎えます。

では、同じ時代の日本にカメラを移動しましょう。1853年、ペリーが黒船4隻を引き連れて浦賀へやってきて「開国しろ」と幕府に迫りました。幕僚は返事を先延ばしして、とりあえずペリーに帰国してもらいます。しかし、同じ年に今度はロシア大使プゥチャーチンが長崎を訪れ、ペリーと同じように開国を迫ったのです。ロシアの南下政策はついに極東の島国にまで及んできたわけです。


1854年にペリーが再来し、遂に「日米和親条約」を結んで開国します。これはロシアのプチャーチンに先を越されないための防衛策でもあったのでしょう。
「日米和親条約」には、アメリカを優遇するという項目が記されていました。つまり、他の国との条約の中に日米和親条約より有利な条項が入った場合は、自動的にアメリカにもその条項が適用されるというものです。


和親条約は、イギリス、ロシア、オランダとの間でも結ばれます。しかし、ロシアのプチャーチンと結んだ「日露和親条約」だけは他国と内容が異なるので注意してください。その後の日本の歴史に大きな影響を与えることになるのです。「北方の領土については、択捉(エトロフ)島より南が日本領、得撫(ウルップ)島より北をロシア領として、樺太については両国人の雑居の地」としたのです。ここに初めて北方領土に「国境」という概念が生まれたのです。


さて、1856年になると、ハリスがアメリカの初代総領事として来日し、下田に駐在します。彼の使命は、日本と通商条約を結ぶことでした。つまり、自由貿易を求めるものです。そして1858年、大老・井伊直弼が天皇の勅許を得ないまま、「日米修好通商条約」に調印します。これには1856年に起こった「アロー号事件」が大きな影響を与えていました。

イギリスがフランスと組んで清帝国を攻め入り、広東を軍事制圧したことを井伊直弼は耳にしていたのでしょう。そしてハリスが「アロー号事件」を例に挙げてイギリスとフランスの脅威を説き、アメリカと条約を結ぶほうが有利であると主張したのでしょう。これには「イギリスやフランスがひどい内容の不平等条約を押し付けてきた場合には、アメリカが阻止してあげよう」といった安保条約にも似た誘いが加味されていたのです。


井伊直弼はイギリスに攻撃されるより、アメリカと交易を始めるほうがリスクは少ないと考えたのでしょう。井伊直弼の独断が朝廷や攘夷主義者の大きな怒りを買い、のちに暗殺につながるわけです。


その後、幕府はオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同じような条約を結びます。列強諸国との貿易には原則として役人はタッチせず、日本人商人と外国の民間商人との間で行われました。これが自由貿易です。


1859年の輸出総額は約89万ドル、輸入総額は約60万ドルに過ぎませんでしたが、取引額は数年の間に飛躍的に伸びていきます。1865年には輸出総額約1850万ドル、輸入総額約1515万ドルにもなりました。


By Master K/益田 慶

世界資源戦争 2 石油開発の歴史 石油ビジネスのはじまり

石油の利用自体は古い。紀元前4000年のメソポタミアで彫刻の素材として、また紀元前2500年のエジプトではミイラの防腐剤として天然アスファルトが利用されていたという記録がある。地下から湧く「燃える水」の存在は、古代から各地で知られていた。「日本書紀」には天智7年(668年)越の国(現在の新潟県)から「燃える水・燃える土が近江大津宮に献土された」とあり、おそらく石油のことであろうと推測される。17世紀からルーマニア産の石油が灯油用に用いられたとされている。しかし、大量生産はずっと後のことであった。


石油は19世紀半ば頃から「何か汚いけどよく燃える液体がある」という理由から明かりを取るための燃料として使われていた。それが本格的に商業ベースで生産され始めたのは19世紀の初頭のアメリカにおいてだ。つまり、石油開発の歴史はまだ200年しか経っていないのである。
産業革命までさかのぼれば、当時の最大の動力は石炭を燃料とする蒸気機関である。石炭で動く蒸気機関車がその最たる例だが、石油が発見され、利用されるようになると産業構造も一気に変化した。


石油を最初に巨大ビジネスに展開したのはかのロックフェラーである。機械掘りの油井の出現が、石油生産に革命をもたらしたのだ。エドウィン・ドレークが1859年8月にペンシルベニア州タイタスビルの近くのオイル・クリークで採掘を始めたのが世界最初とされているが、定かではない。歴史に残っているのは1863年、ジョン・D・ロックフェラーが二人の弟ともにオハイオ州クリーブランドで石油精製業に乗り出し、1870年にスタンダード石油を設立したことだ。


ロックフェラー兄弟は、次々と精油業者を口説いて談合シンジケートを設立。9年後には全米の石油の95%をスタンダード石油が握り、またたく間に財閥にのぼりつめる。独占企業のスタンダード石油に対し、世論の反発が起き、1890年に成立したシャーマン反トラスト法により、同社は解体するが、その頃のロックフェラー財閥の手練手管は、いずれこの連載で紹介していく。


ヨーロッパでいち早く石油の将来性に目をつけたのはパリのロスチャイルド家だった。すでに1860年代末より、アメリカ産の石油をフランスに輸入していた。まだ市場が小さく、競合が少ない状況にあって石油に着目したのは、ロスチャイルドの先見性だろう。ロスチャイルドは、アドリア海の港町フィウメ(現クロアチア)に石油精錬工場を建設。その後、次第に石油の需要が高まっていく。その背景には、石油を利用する内燃機の利用が盛んになっていったことがある。1876年にドイツのニコラウス・オットーがガソリンで動作する内燃機関(ガソリンエンジン)を発明。ダイムラーがそれを改良し、1885年にダイムラーによって特許が出される。同年、ドイツのカール・ベンツは、ダイムラーとは別にエンジンを改良。こうして自動車の本格利用が始まり、一方ではアメリカ軍・イギリス軍が第一次世界大戦において石油を燃料とした艦船を導入し、ドイツ海軍に大勝した。需要が伸びれば供給も求められる。石油ビジネスは一部の企業に莫大な利益をもたらしていく。


ヨーロッパでは1873年、スウェーデン発明家ノーベルの兄弟がカスピ海沿岸のバクー油田を開発し、大規模な製油所へ発展させた。1876年には世界初の石油パイプラインを完成し、1877年には世界初の石油タンカー「ゾロアスタ号」を完成。1878年、ノーベルも兄たちの事業に参加し、「ノーベル兄弟石油会社」が発足した。ノーベル兄弟は、ロシアの石油産業の生みの親になる。
同じ頃、パリ・ロスチャイルド家もロシアに目を転じていた。カスピ海西岸が油田地帯として知られていたが、バクーからの石油は「ノーベル兄弟石油会社」 がロシア市場へ運んでいた。
1880年代初頭、バクーと黒海とを結ぶ鉄道工事が始まった。事業主が資金不足に陥った時に資金提供を申し出たのがパリ・ロスチャイルド家である。そして石油採掘権を確保し、石油生産・販売会社を起業。こうしてロシアの石油開発も活性化した。

By Master K/益田 慶

2007年12月4日 (火)  加中銀政策金利発表

08:50 (日) 11月マネタリーベース
09:30 (豪) 10月住宅建設許可件数
09:30 (豪) 10月小売売上高
19:00 (ユーロ圏) 10月生産者物価指数
23:00 (加) 加中銀政策金利発表

2007年12月05日

小栗上野介が駆け抜けた時代 40 激変した世界地図の中の江戸時代 幕末の自由貿易

日本人商人と外国の民間商人との間で自由貿易が行われるようになった幕末。当時の日本の輸出品の第1位は生糸です。輸出品の8割を占めていたとのことです。これは生糸の産地であるフランスやイタリアが蚕の疫病にかかり、壊滅状態に陥っていたからなのです。輸出品の第2位はお茶です。


反対に輸入品のほとんどは綿織物や毛織物などの繊維品でした。その他の輸入品として武器、艦船があります。幕末に坂本龍馬が武器を輸入していたことは以前説明しましたが、これらの武器は薩摩や長州が官軍として、幕府軍と戦う際に威力を発揮します。


さて、幕末における最大の貿易相手国はどの国だったのでしょうか? じつは先に交易を開始したアメリカではなく、列強のイギリスだったのです。これにも当時の世界情勢が大きく影響しています。アメリカは南北戦争(1861年~1865年)の勃発によって貿易がおろそかになっていたのです。


交易の9割は、横浜港で行われていました。貿易の変化として重要なのは、圧倒的な輸出超過で始まった交易が、1866年に輸入超過に転じたことです。これは輸入品の税率が20%から5%に引き下げられたことが原因です。


日本が列強諸国と結んだ条約では、関税自主権がなく、諸外国との話し合いで税率を決めるシステムを取っていました。これを「協定関税制度」と呼びます。


幕府は1866年、兵庫の開港期限を延長するかわりに、関税率をさらに引き下げ、自由貿易をさまたげる諸制限を撤廃することなどを取り決めた改税約書に調印しました。そういう流れがあり、外国商品がどっと安く国内に流れ込み、急に輸入額が増加したのです。

その頃、アメリカは北軍が勝利し、南北戦争は終結。アメリカ合衆国の再統一が進みます。国内市場の拡大、西部開発、安い労働力の急増は、アメリカの工業を急成長させ、19世紀末にはイギリスを抜いて世界第一位の工業国になります。工業化を後押ししたのは鉄道です。1869年に大陸横断鉄道が完成し、合衆国の鉄道総距離は26・2キロに延びました。これによって西部の開拓が促進されます。大陸横断鉄道の完成は、それまでの遅くて危険な駅馬車の時代を終わらせ、鉄道が経済の大動脈として機能する時代の到来を告げました。


大陸横断鉄道の開通によって、東海岸と西海岸の間の移動は、それまで陸上であれば数ヶ月、パナマ経由の船でも数週間を要していたものが、1週間に短縮されました。さらに1876年に運行された大陸横断超特急は、二ューヨークを出発してからサンフランシスコに到着するまで83時間39分という記録を作りました。当時の日本は明治維新の直後、やっと廃刀令が施行された頃です。この状況を比較するだけで当時の国力の差は歴然といえるでしょう。

この鉄道の完成より前に、小栗上野介は江戸-横浜の鉄道の建議を幕府に提出しています。小栗は1860年に遣米使節団の監査として視察に参加した際に初めて鉄道を見たのでしょう。また、鉄道事業によって自国の経済が活性化することを理解していたのでしょう。しかし、小栗の先見性を見抜いた人物は江戸幕府にはいなかったようです。

アメリカの発展の過程で注目したいのが、大陸横断鉄道の建設労働者が、アイルランド人移民、南北戦争の退役軍人、モルモン教徒、中国人移民などが多かったことです。アメリカは100年以上前から外国人労働者の受け入れに寛大であったという見方もできます。当時、中国人移民はカリフォルニアの金鉱山やクリーニング業、調理師などに従していました。カリフォルニア中から中国移民がかき集められたという記録が残っています。


このように南北戦争を機にアメリカの経済構造は激変しました。一方、ヨーロッパでは衰えるオスマン帝国に列強が群がるようになります。東地中海、黒海周辺での列強の争いはヨーロッパ最大の国際問題へと発展していきます。


By Master K/益田 慶

2007年12月5日 (水) RBAキャッシュターゲット

07:30 (豪) RBAキャッシュターゲット
09:30 (豪) 第3四半期GDP
19:00 (ユーロ圏) 10月小売売上高
22:30 (米) 第3四半期非農業部門労働生産性・確報
22:30 (米) 第3四半期単位労働費用・確報
24:00 (米) 10月製造業受注指数
24:00 (米) 11月ISM非製造業景況指数

2007年12月06日

小栗上野介が駆け抜けた時代 41 激変した世界地図の中の江戸時代 ヨーロッパ列強

小栗上野介が生きた幕末は、世界地図が頻繁に塗り替えられた時代でした。当時、北アフリカ、中東から現在のトルコ一体に巨大な帝国がありました。王家オスマン家を君主としたオスマン帝国です。多民族帝国であったことで、民族運動が起こり、また産業革命に乗り遅れたことでヨーロッパ列強との経済力の差は歴然となっていました。


ヨーロッパ列強が競って紛争に介入した、オスマン帝国内の民族運動は「東方問題」と呼ばれました。その起点となったのが、ギリシア独立戦争(1821~29年)です。ロシア、イギリス、フランスの支援を受けてギリシアはオスマン帝国から独立しますが、その際にロシアは黒海とエーゲ海を結ぶ海峡の航行権を獲得しました。その後、フランスの援助を受けたエジプトが2回にわたってオスマン帝国からの自立を求めて戦いました。列強の利害は対立しましたが、結局イギリスの主導のもとに解決がはかられ、ロシアの地中海進出とフランスの影響下にあるエジプト独立の阻止がなされました。


ロシアはその後「クリミア戦争」を起こしますが、イギリスとフランスがオスマン帝国を援助したことで敗北し、ロシアの南下政策は完全に挫折します。一方のイギリスは植民地インドを土台に貿易で栄え、中国進出を目指します。これらの動向は「産業革命によって生み出された新しい経済システムがアジア世界を飲み込み始めた」とも解釈できるでしょう。当時の幕府にとって脅威なのは、貿易面では最も交易が深いものの、アジアの植民地化を進めるイギリスと、南下政策を推し進めるロシアだったのでしょう。


17世紀半ば以降、「鎖国」を続けてきた江戸幕府も、アメリカ合衆国使節ペリーの浦和来航をきっかけに大きく動揺します。幕末の国論は、ご存知のように「尊王・攘夷」と「開国」に二分されました。そして1854年、遂に215年ぶりの開国に踏み切りました。小栗上野介が遣米使節団としてアメリカ合衆国に赴いたのは、1860年のことです。上野介は造幣施設のほかにワシントンの造船所にも訪れています。「アメリカは鉄の国、日本は木の国」と感想をもらしたとされています。鉄があれば戦艦の製造に着手できます。逸早く産業革命に成功したヨーロッパの列強と、広大な領土を持つロシアとアメリカは、上野介にとってまさにすべてが「鉄の国」に見えたことでしょう。


島国の日本が攻められるとすれば、当時は当然のごとく軍艦によってでした。ここで上野介はロシア海軍とイギリス海軍の侵攻を恐れていたように思われます。「アメリカの支援がなければ、日本はいずれロシア海軍に支配されるのではないか」といった危機感があったのでしょう。そのアメリカは独立戦争で海外進出の余裕はありませんでした。


当時アメリカは、イギリスと共同で香港に艦隊基地を所有していました。対ロシア戦略と幕府海軍の育成を想定した場合、上野介が横浜周辺に海軍の基地が必要だと考えたのは当然のことでしょう。こうして上野介は帰国後、幕府に海軍増強を進言し、1866年に横須賀造船所が完成します。上野介には「大海軍構想」がありました。それは「戦艦は海外から購入すればよい」と主張した勝海舟とは反対のビジョン、すなわち自前の戦艦を製造することでした。歴史は興味深い事実を物語ります。1872年、横須賀造船所は明治政府海軍省の管轄になり、のちに軍艦を製造することになります。上野介の構想が見事に現実化したわけです。


その後、日本が1894年に「日清戦争」を仕掛け、清軍に勝利しますが、これによって日本は東アジアにおける中華秩序を崩壊させ、独自の勢力圏を形成し、同時に本格的な産業革命を進めるための資金を獲得したとも言えるのではないでしょうか。その後、列強の長引く不況によって「帝国主義」が誕生したことは歴史の教科書をひもとくまでもありません。


By Master K/益田 慶

FXライフ 17 ユーロの歴史と欧州の通貨  スイス

ユーロを導入していない欧州の大国といえば、スイスが挙げられる。通貨はご存知スイス・フラン(CHF)。「金よりも堅い」と呼ばれるほど世界で最も安定した通貨だ。それは国際社会におけるスイスの地位の高さを物語っている。


国内の物価は高いが、賃金水準も高く、国民の貯蓄高も高い。輸入関税率が低く、高級外車が比較的安く購入できるのも魅力のひとつだ。EU加盟の賛否を問う国民投票において、国民の過半数が反対票を投じたのは、すでに裕福な暮らしをしている国民がEU加盟にメリットを見出せなかったということだろう。スイスの主な産業は、精密機械工業(時計、光学器械)、化学薬品工業、金融業(銀行、保険)。日本への輸入品の大半も高級時計、医薬品が占めるなど日本との共通点の多い「ハイテク立国」だ。


2007年3月に連邦経済省経済事務局(SECO)が発表した経済見通しによれば、2006年の実質GDPは前年を上回る2.7%であった。民間設備投資が6.9%増、個人消費が1.9%増と内需が好調だったことに加え、米国、ユーロ圏およびアジア向けの輸出が好調だったことから、純輸出も0.7%とプラスになり、成長に貢献した。2007年については、内需は引き続き堅調だが、輸出の伸びが鈍化することから06年ほどの成長は期待できず、2.0%と予想している。2003年~2004年は失業率が4%台を記録したが、その後の好調な経済を反映して2006年には3.3%まで下がった。そういった意味では、スイスは基礎体力にすぐれた国といえよう。


歴史をひもとけば、山岳地帯にあり、特別な産業のないスイスは17世紀頃から各国の戦争に傭兵を派遣し、外貨を稼いできた。その各国の通貨を両替する必要からスイスでは金融業が発達した。また、戦乱に揺れる欧州各国の王族や貴族、ロイチャイルド家のような金融資本家が資産の安全な預け先としてスイスを選んだことが、スイスで銀行が発展した源流である。


一般に「スイス銀行」と呼ばれる大手プライベートバンクがマネーロンダリングの中継地として使われることでも知られている。口座を開くのに「小国の国家予算に匹敵するくらいの資産が必要」とか「口座維持のため最低でも1000万円(為替相場による)以上の預金が必要である」など、まことしやかに言われることや、多くの国際機関の本部か置かれる特殊な国であることも、すべてスイスが永世中立国であることが大きく影響している。


他国から攻められる不安のない国に国際機関やプライベート銀行が集まるのは必然といえよう。しかしスイスは「国民皆兵」を国是としている重武装の国家で、正規軍は高度な装備を有している。徴兵制度により20~30歳の男子には兵役の義務がある。学校やビルに核シェルターが装備され、男性の大半が予備軍人であるため各家庭には自動小銃と銃弾が支給されるなど、民間防衛力があるから永世中立が維持できるのである。ちなみに地区単位で設置されている武器庫には、対戦車火器や追撃砲などが収められているという。日本人にはにわかに信じがたい光景である。


隣国の小国リヒテンシュタインもスイス・フランを通貨として使用している国だ。小豆島ほどの面積で、人口は約34,000人。非武装永世中立国を自称しているが、実質的にはスイスの保護国であり、スイスとの間にパスポートは必要なく、住民も旅行者も自由に行き来できる。


リヒテンシュタイン家が元首であることから、欧州では数少ない絶対君主制の国だ。外交と国防はスイスが代行している。起源をドイツ系貴族家に持ち、14世紀からはオーストリアの領主ハプスブルク家に仕え、自らも領土を保有した同家が国外に持つ所有地は国の何倍もの面積になるという。国から歳費を支給されておらず、経済的に完全に自立しており、同家の資産総額は約30億ユーロ(約4800億円)とのこと。ドイツに本拠を持つ資産管理銀行リヒテンシュタイン銀行が、同家の財政を支えているといわれている。小国とはいうものの、現在ではスイス同様、精密機械産業や義歯、銀行・投資のビジネスが盛んな国で、これらの産業がリヒテンシュタインのGDPのほとんどを占めている。


By Master K/益田 慶

ヨーロッパの財閥と企業グループ 29 欧州財閥の系譜 イタリア財閥

前回に引き続き、イタリアの主な財閥と企業グループを紹介しましょう。日本でも著名なアパレルブランド「ベネトン」。創業者のベネトン一族は、妹が自宅でつくったセーターを兄が売に歩きまわったところからスタートし、世界120ヶ国、5000店舗の販売ネットワークを持つ売上高1兆円企業へと成長しました。イタリア国内では資産高2番目をキープする一族です。


創業者のルチアーノ・ベネトン前会長は現役を退いたものの、創業者一族は大きな影響力を持っているといわれています。1989年にはニューヨークの株式市場に上場し、イタリアのスキーブーツメーカー「ノルディカ」株の7割を購入。ですから正式にいえば、日本でなじみのあるスキーギアで名高いノルディカはすでにイタリアのメーカーということです。90年には、モスクワに最初のベネトンショップをオープン。またアメリカのインラインスケートメーカー「ローラーブレード」、アメリカのテニスラケットメーカー「プリンス」を買収。91年にはオーストリアのスキーメーカー「ケスレー」を買収し、原料を自前で供給するためにパタゴニアに大牧場を購入しました。


なお、この年、F1ではミハエル・シューマッハがベネトン・チームに移籍しています。ちなみに94年、シューマッハはドライバーズ・チャンピオンのタイトルを獲得しています。92年には、ルチアーノ・ベネトンが国会上院議員に選出され、翌年にはベネトンの店舗数は世界で8000店を突破しています。さらに、アウトドア用靴メーカー「アゾロ」、スノーボード・サングラスメーカー「キラーループ」を買収し、ベネトン・スポーツ・システム社を創立。1996年、ローラーブレード社の株式一部を、ニューヨーク・ロンドンの株式市場に上場。1999年には、アメリカの大手小売店シアーズ百貨店をパートナーとし「ベネトンUSA」コーナーをシアーズ450店に1800ヶ所設置しました。ファッション大国のイタリアですが、ベネトン一族は他の追随を許さない規模に成長しました。イタリア・ブランドといえば、「アルマーニ」のジョルジョ・アルマーニや、「プラダ」のミウッチャ・プラダ一族が名高いですが、売上げだけ見てみると、ベネトンは「アルマーニ」の約2倍、「プラダ」の約3倍です。世界に企業グループを築いてきたことでシナジー効果が表われているようです。


伝統的に工業デザインの開発に長けたイタリアには、世界シェアの7割を誇るアイテムがあります。高級メガネです。世界の高級メガネ市場のほとんどをイタリアの眼鏡メーカーが支配しているのです。イタリア眼鏡産業の特徴は、高付加価値製品を大量に世界中に輸出しているということです。
中でも「ルクソッティカ」はイタリアを代表する世界的なメーカーです。レオナルド・ベルベッキオ会長は、世界の長者番付のトップ50にランクインする億万長者。同社は高級ブランドから注文を受け、ライセンス生産で成功しました。具体的には、ブルガリ、シャネル、ウンガロ、エンポリオ・アルマーニ、ジョルジォ・アルマーニ、モスキーノ、フェラガモなど、13の高級ブランドのライセンスを保有。また独自ブランドを全世界向けに販売。2001年には眼鏡の大手チェーン店「レンズクラフター」に続き、「サングラス・ハット」をグループ傘下におさめ、全米に2500店舗以上を有しています。ブランド戦略だけでなく、小売り流通の整備にも着手し、日本にはないビジネスモデルを構築してきたというわけです。


高級チョコレートで著名な菓子メーカーの「フェレーロ」を経営するミケーレ・フェレーロ一族もイタリアの資産家のひとつ。フェレーロは世界で5本の指に入る菓子メーカー。看板商品のチェコレート「ロシェ」はトリフのような形で、まわりにへーゼルナッツがちりばめられた逸品。世界中で販売されている人気商品です。チョコレートペーストをパンに塗って食べる「ヌテラ」は、日本にも輸出されている人気商品。世界にはお菓子で億万長者になった一族もいるのです。


By Master K/益田 慶

2007年12月6日 (木) 欧州中銀金融政策発表

05:00 (NZ) RBNZオフィシャル・キャッシュレート
08:50 (日) 12/1までの対外及び対内証券売買契約等の状況
14:00 (日) 10月景気動向調査・速報
15:45 (スイス) 11月失業率
18:30 (英) 10月鉱工業生産
18:30 (英) 10月製造業生産高
20:00 (独) 10月製造業受注
21:00 (英) BOE政策金利発表
21:45 (ユーロ圏) 欧州中銀金融政策発表
未 定 (南ア) SARB政策金利発表
22:30 (米) 12/2までの週の新規失業保険申請件数
22:30 (加) 10月住宅建設許可
24:00 (加) 11月Ivey購買部協会指数

2007年12月7日 FX検定 きょうの問題 ベネズエラ国民投票 大統領選再選制限撤廃案否決

2007年12月2日 ベネズエラで憲法改正を問う国民投票が実施された。
投票の結果、大統領の再選制限撤廃などを盛り込んだ憲法改正法案は否決さ
れた。現ベネズエラ大統領は誰か。


正解 チャベス大統領


投票の結果は、賛成49%、反対51%で否決された。
選管によると、総投票数は、900万2439票で棄権率は44.11%であった。
有効投票数は888万3746票で、無効投票が11万8693票だった。

改正法案は69条あり、大統領の再選制限の撤廃のほか、労働時間の短縮、中央銀行を大統領管轄下に置くといったものだった。事前の世論調査や出口調査などでは、賛成が優勢だった。

結果は僅差で否決されたが、チャベス大統領は当初この結果を受け入れなかったが、軍部の説得により受諾した。

「21世紀の社会主義」建設を掲げて「終身大統領」をもくろんだチャベス氏だったが、独裁体制を危惧した反対派がかろうじて勝利した。

チャベス政権は、反米左派民族主義を掲げた政権である。ベネズエラは原油生産量世界第5位の産油国である。かつて石油メジャーが支配していた産油設備を国権で国有化し、貧困層への再分配を図ることで国民の支持を受けてきたチャベス大統領であるが、再選制限撤廃など長期独裁体制を築こうとするチャベス氏に対し、富裕層を中心とした民主勢力に待ったをかけられた。

ベネズエラは反米政権でありながら、外貨獲得の最大資源である原油の65%はアメリカ向け輸出である。チャベス政権は中南米の左翼政権、キューバ、ボリビアなどと連携して反米グループを形成してきた。

1999年に大統領に就任したチャベスは独裁色を強めながら、現在では立法、司法、行政すべてを自派で占めている。この事実上の独裁政権は反米主義、反新自由主義、反グローバリズムを訴えて次第に国内の他の政治勢力やマスメディアへの締め付けを行い始めている。

チャベスが政権を取ってから徐々に独裁色を強めているが今回の憲法改正に関する国民投票はその一環である。これまでにも大統領の任期が5年から6年に延長されたり、大統領自身が行政府の長として内閣を統率するようになった。 議会は、新憲法になって両院制から一院制に変わった。今回の選挙は3選を禁ずる憲法を改正しようとするものであった。

親米国からは非難が多いチャベス政権も内政という観点からは見え方が違う。
内政では保健と教育を最重要視する政策をとっている。低所得層が住む地区での無料診療所の開設、学校の建設、非識字者や学校中退者のための補習プログラムなどがその例である。貧困層重視の政策は、強引な政治手法とあいまって、富裕層、中産階級、以前の有力政党と結ぶ労働組合から強い反発を受けた。不足する医師はキューバから支援を受け、見返りに石油を提供している。

2002年4月にはチャベスのやり方に反発する富裕層や軍部が、CIAの協力の下にクーデターを起こしてチャベス大統領を逮捕し、代わりの政権を樹立したが、大衆の大規模デモと軍内部の反乱によって失敗した。

2002年12月から2003年2月にかけては石油産業でチャベス辞任を求めるストライキが起こり、ベネズエラ経済は大打撃を受けた。このときベネズエラ石油公社のゼネストにより原油供給が止まり、アメリカの原油価格が高騰した。

ベネズエラの政情不安は原油供給元として常に波乱要因である。

2007年12月07日

小栗上野介が駆け抜けた時代 42 激変した世界地図の中の江戸時代 産業革命

小栗上野介が遣米使節団としてアメリカ合衆国に渡った1860年当時、世界の工業生産順位は、1位イギリス、2位フランス、3位アメリカ、4位ドイツの順でした。アメリカ以外は逸早く産業革命に成功したヨーロッパの列強ばかりです。

やがてこの順位は、1870年代に1位イギリス、2位アメリカ、3位フランス、4位ドイツへと変化し、世界が大不況に包まれる1873~96年には、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、1900年にはアメリカ、ドイツ、イギリス、フランスへと移っていきます。日本では明治維新直後の政府が不安定な時期に、列強は狂ったように植民地の獲得に乗り出し、「世界の分割」を完成させます。


たとえばアフリカ。1880年代~1900年代頃までにエチオピア、リベリアを除くすべてのアフリカが分割されました。アフリカ分割の中心は、1875年にエジプトからスエズ運河の管理権を獲得したイギリスと、アルジェリアからサハラ砂漠を横切り、東岸に至ろうとするフランスでした。イギリスとフランスは長い間、植民地抗争を続けてきました。「七年戦争」(1756~63年)に敗れて北アメリカの植民地をイギリスに譲り、続いてインドにおける主導権も失ったフランスは当時未開の地であったアフリカを目指したということです。

一方のアメリカ合衆国は、南米との中間に位置し、大西洋と太平洋の中継海域の「カリブ海」の支配が重要であったため攻勢をかけていきます。


では、幕末から明治維新の頃のアジア諸国はどのようになっていたのでしょうか? 日米和親条約を結んだ1854年以降、幕府はイギリス、ロシア、オランダと間で和親条約を締結しましたが、清国との「日清修好条規」、李朝(朝鮮)との「日朝修好条規」が結ばれたのは、明治になってからのことでした。


現在の中国やモンゴル、チベットなどは、統一王朝の清が支配していました。長い歴史をもつ中国は早くに文明が開化し、清帝国の全盛期にはモンゴルの諸部族を併合し、朝鮮、琉球、マカオ、ベトナムなどが清帝国に忠誠心を示してきました。イギリス、フランス、ドイツなどヨーロッパの列強より強国でした。

鎖国を続けた江戸幕府との外交はありませんでしたが、中国商船の長崎貿易は許されていました。しかし、19世紀に入ると、逸早く産業革命に成功したヨーロッパ諸国との力関係が逆転していくのです。


清帝国は1636年に建国され、1912年まで続いた大国です。18世紀末にイギリス商人がヨーロッパの対中国貿易戦争に勝利し、開港地・広州で茶貿易を推進したことを起点にイギリスと清の長く続く関係が生まれます。イギリスはその後、アヘン戦争を仕掛け、清を半植民地化していきます。清はイギリス人と交流することで、ヨーロッパの軍事技術、生産システムなど積極的に導入し、支配体制の再建をはかりました。しかし、それは儒教官僚による統治や伝統的社会を温存して西洋の技術だけを取り入れるもので、表面的な改革であったといえるでしょう。日本が開国に踏み切った背景には、幕府の弱体化だけでなく、清帝国を反面教師にしたという見方もできるでしょう。つまり、「中途半端な改革では近代化は成功しない」「清はイギリスの植民地のままで進んでしまう」という戒めがあったということです。


一方、江戸幕府が現在の韓国と北朝鮮にあたる李朝を脅威に感じていなかった理由のひとつは経済力の低さです。朝鮮王朝のイデオロギーである儒教主義では、商人は極めて卑しい者とされていたため、李朝は経済政策が進んでおらず、貨幣経済自体は自力では成り立っていませんでした。王朝は幾度となく貨幣制度の導入を行ったものの、貨幣の材料である銅を日本に依存し、流通量は極めて少なかったようです。また、豊臣秀吉の朝鮮出兵や清の攻略で国内の産業基盤はズタズタにされていたので、近代化どころの話ではなかったようです。


By Master K/益田 慶

2007年12月7日 (金) 米雇用統計

08:50 (日) 第3四半期GDP・二次速報
16:45 (仏) 10月貿易収支
16:45 (仏) 10月財政収支
20:00 (独) 10月鉱工業生産
21:00 (加) 11月失業率
21:00 (加) 11月雇用ネット変化
22:30 (米) 11月失業率
22:30 (米) 11月非農業部門雇用者数
24:00 (米) 12月ミシガン大消費者信頼感指数・速報値
29:00 (米) 10月消費者信用残高

FXライフ 18 ユーロの歴史と欧州の通貨 バルト三国

バルト海沿岸に位置するバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)は欧州連合に加盟しているものの、各国ともユーロ導入には至っていない。歴史をふりかえると三国ともロシア帝国に支配され、ロシア革命ののち独立を果たしたものの、ソビエト連邦に併合された過去を持っている。古くから北欧諸国やドイツとのつながりが強く、経済開放後の北欧州資本の進出は目覚しい。それでは、今週と来週にわたって三国の通貨と産業の特徴、経済状況を紹介しよう。


バルト海のほぼ中心に位置するエストニアは、周囲をフィンランド、スウェーデン、ラトヴィア、ロシアに囲まれている。広さはデンマークよりやや大きく、日本の九州とほぼ同じ広さだ。通貨は1992年6月に導入されたクローン(EEK)。歴史的にドイツマルクとペッグ制で貨幣価値を保証してきたが、現在ではユーロとペッグ制を行っている。15.64クローン=1ユーロの固定相場制だ。


エストニアの歴史は、他国による占領と独立の歴史である。13世紀以来、デンマーク、ドイツの騎士団、スウェーデンといった外国勢力に支配されてきた。18世紀には「南下政策」を推進するロシア帝国に占領された。1917年にロシア革命が勃発すると、エストニアは独立を宣言。しかし1940年にソ連に、1941から1944年までナチス・ドイツに占領される。第二次世界大戦末期にソ連軍が再占領し、戦後はソ連に再併合され、15の共和国のひとつとなった。1988年には独立を目的とするエストニア人民戦線が設立。「ベルリンの壁」崩壊に象徴される東欧民主化の波はバルト三国にも及び、1990年に独立回復宣言を発表、翌年、ソ連が独立回復を承認し、国連に加盟した。


1994年のロシア軍撤退後は西欧諸国との関係を強め、2004年には欧州連合に加盟した。フィンランドから高速船で1時間半という立地からフィンランドとの関係が強い。バルト三国の中では最も経済状況が良く、特にIT産業が堅調である。これは「e-政府政策」によってネット・バンキングの普及が著しいことにも表われている。「ムーディーズ」や「スタンド・アド・プア」などの国際信用格付けは「A」を確保。しかし、一方で「外国企業依存型経済体質」と指摘されるように、北欧系資本の投資が盛んで、流通、金融・保険分野では外国資本が市場を占有している。


これは外国投資奨励政策の一環として、関税引き下げ・免除を実施(EU加盟に伴い一部関税を引き上げ)したことによる。それほど経済自由度指標が高いということは、政府による経済統制がほとんどなされていないことを物語っている。まるでアダム・スミスが『国富論』で述べた「自由競争によって『見えざる手』が働き、最大の繁栄がもたらされる」という言葉を実践するかのような経済政策である。


経済成長率は2000年7.9%、2001年6.5%、2002年7.2%、2003年6.7%、2004年7.8%、2005年9.8%と順調な推移だ。失業率は10%(2005年度)を記録しているが、建設業界を中心に労働力不足を懸念する声があるという。物価上昇率は、2005年は石油価格高騰や不動産価格上昇の煽りを受けて6.2%となった。

 
ロシアに大きく依存していた貿易は、1995年のEUとの自由貿易協定発効後はEUの占める割合が50%以上となり、2005年には、輸出の約80%、輸入の約70%をEU諸国が占めている。最大貿易相手国は、輸出でフィンランド、スウェーデン、ラトビア、輸入でフィンランド、ロシア、ドイツとなっている。さて、肝心のユーロ加盟だが、2004年に欧州通貨制度の為替相場メカニズム(ERM II)に参加し、2007年1月からのユーロ導入を目標に政策運営を行ってきたが、2006年4月、政府は石油価格の影響でインフレ基準の達成が困難となったことから、導入を見送った。現在早期のユーロ導入を目指している。


By Master K/益田 慶

2007年12月08日

小栗上野介が駆け抜けた時代 43 激変した世界地図の中の江戸時代 朝鮮半島

現在の韓国と北朝鮮にあたる李朝の交易は、江戸時代には清帝国に貢ぐような貿易のほか、対馬を介した日本との交易、琉球との交易が中心でした。日本からの輸入品は銅、銀などで、日本への輸出は、塩、生糸、絹織物などでした。対馬との貿易のピークは18世紀中頃。金額ベースで日清、日蘭貿易をしのいでいたとされています。しかし、日本銀の生産量が激減すると、江戸幕府は中国への銀輸出を規制するようになり、続いて李朝への銀輸出禁止令が発布されました。


この金銀についてですが、日本国内では、当時大きな経済問題が進行していました。江戸幕府後期に発生した、日本と外国の金銀比価の違いによる金の流失です。金と銀の交換率は、外国では1対15であったのに対し、日本では1対5でした。外国では金を1グラム買うのに銀を15グラム支払わねばいけませんが、日本では銀を5グラム支払えば金を1グラム手に入れることができたということです。


だから日本が開国し、貿易を開始するやいなや、外国の商人たちは銀を日本に持ち込んで金を買い、外国でそれを銀にかえ、その銀でまた日本の金を買うという繰り返しで巨利を得ていました。幕府がこのことに気づいて貨幣を改鋳した時には、すでに国内から10万両以上の金が流出してしまったあとだったといわれています。幕府は金銀の為替には特に敏感になっていたというわけです。


小栗上野介が1860年に挑んだ、アメリカの金貨と日本の小判の含有量を調べ、それによって交換比率を決めた「史上初の為替レート交渉」には、こういった台所事情も含まれていたのです。じつはアメリカの金貨には銀はほとんど含まれていませんでしたが、日本の小判には相当量の銀が含まれていました。だから、日米の金貨の交換比率は、銀の含有量を含めて評価し、決定することになったのです。


再びアジアに目を向けましょう。アジア諸国との貿易経験のある李朝でしたが、一方で進出してくるヨーロッパの列強に対しては、強固な鎖国政策をとってきました。キリスト教と西欧文化を弾圧する党派が主流になるわけですが、これがのちに朝鮮朝廷の混乱の原因になっていきます。やがて江戸幕府と同じように開国派が主流になっていきます。


1868年に明治政府が成立した際に独立維持の鍵となったのが、じつは朝鮮半島でした。清が李朝やベトナム、琉球などの国を保護国化し、アジアで大きな影響力を発揮しようと改革を進めていた頃、ロシアの南下と朝鮮半島の支配を強化しようとする清を牽制するために日本は1875年、開国を求めて江華島(こうかとう)へ浸入しました。翌1876年、鎖国状態にあった李朝と強引に「日朝修好条規」を結びます。これは李朝を清の属国でなく、独立国として認め、李朝と自由貿易を行うために結ばれた条約です。以降、李朝はアメリカ、イギリス、ドイツ、ロシア、フランスとも同様の条約を締結することにより、列強に開国することになります。


「日朝修好条規」は、自由貿易とはいえ、明らかに不平等条約でした。李朝の港で日本人が起こした犯罪は日本に領事裁判権があるとされたほか、開港場における日本貨幣の使用を認めることが条件になっていました。それより早い1871年に結んだ「日清修好条規」は対等なもの