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4 江戸幕府の支配統制 江戸幕府の官僚統制

家康を征夷大将軍に据えた江戸幕府の官僚統制も、藩主をトップに置く各藩の支配統制も、封建的主従関係をベースにしている点では同じ構造である。


1590年、家康は秀吉の命令で、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国の領主から、北条氏の旧領である武蔵・伊豆・相模・上野・下野・上総・下総の7カ国に移封された。150万石から250万石への加増であったが、家康にとって縁の深い三河の土地を失い、まだ拓けていなかった関東に移されたことは辛酸をなめる思いであったことだろう。


関東に入った際、徳川氏の直轄領は江戸の周辺だけだった。しかし、その頃から家康は有力な家臣(上級家臣)を江戸から遠方の重要な支城に配置した。たとえば榊原康政(10万石)を上州館林に、井伊直政(12万石)を上州箕輪に、結城秀康(10万石)を下総結城に、本多忠勝(10万石)を上総大多喜に、大久保忠世(4万石)を相州小田原に配置した。彼らは謀反を企てないであろう支店長クラスであり、それぞれが軍隊を率いるリーダーであった。


一方、およそ100万の直轄地には、伊奈忠次や大久保長安などの有能な家臣を「代官」などに据え、統治していった。その代官クラスは、主に武田・今川・北条の旧臣を登用した。つまり、かつてはライバルグループにいた途中入社の優秀な人材を抜擢したのである。これに意気に感じた途中入社組は徳川コンツェルンに忠誠心を誓ったことだろう。


この統治の仕方は、家康独自の人材登用法の結晶である。家康は井伊や本多など、いわゆる「生え抜き」の武将によって強力な軍団を形成し、途中入社組のうち有能な行政官・財務官を側近に抱え、領国統治と財政を固めたのである。豊臣政権下で最大の領地をもつ徳川グループは最も強力な軍隊と豊かな行政・財政を築いていったのである。家康がやがて覇権を握った基礎は、こういった関東領地経営の成功があったからであろう。


さて、江戸幕府を開いた家康は1605年、将軍の職を三男・秀忠に譲り、その後は大御所と称せられるようになる。政治の実権は大御所が握り、中央政権の法的な主権者は将軍ということになる。家康は「政権の主権者は代々徳川の本家が世襲するのだ」という伝統を早くにつくりあげてしまったのである。個人の資質でなく、将軍という役職が権威を示し、また徳川家が絶対的な権力を握っていることを諸大名に知らしめるこの手法は、統治の仕方として卓越している。これは徳川家の側近も諸大名も将軍の代が替わっても自動的に徳川家に臣従するというシステムだ。借家なら定期的に契約更新手続きがあり、プロ野球選手なら定期的に球団との契約更新が行われるが、徳川家と家臣、諸大名の関係は半永久的に継続されるのである。これも「小さな政府」を築くうえで重要なファクターのひとつである。


江戸幕府設立初期に軍事・政治両面でキーマンとなったのは、酒井忠次、井伊直政、本多忠勝、榊原康政といった「四天王」である。これら側近にとって、徳川家は代々の主君。よって四天王の子供たちも徳川家に仕えることになる。たとえば本多忠勝の息子、忠政は伊勢桑名藩の第二代藩主となり、のちに播磨姫路藩の初代藩主、かの姫路城主となる。つまり、家臣たちも徳川家から与えられた領地の領主の地位を引き継いでいったのである。これは家の継続・繁栄のためにつくられた徳川家のシステムと相似している。


一方では、本多正信のように家康の側近として幕政を実際に主導する立場の者も登場する。家康から家光に至る徳川三代を描いた時代劇では、本多正信に代表される「吏僚派」と本多忠勝に代表される「武功派」の権力抗争がよく描かれるが、それはむしろ幕府に有能な人材が揃っていたことを物語っているといえよう。これは前述した家康の統治制が人材育成に大いに貢献したことを証明しているといえよう。家光によって大老に格上げされた土井利勝、酒井忠勝などが幕府の支配体制を確立していく。


By Master K/益田 慶