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3 江戸幕府の支配統制 幕藩体制

江戸幕府の支配体制は「幕藩体制」と呼ばれ、中央政府である幕府と地方政府である藩の二重支配になっていた。地方は将軍が任命・承認した大名が藩を形成し、支配していた。なお、将軍の直轄地(天領)では大名の代わりに代官を置いた。この幕府(将軍)が藩(大名)をコントロールする幕藩体制は、見事に「小さな政府」を築いている。


各大名は「武家諸法度」の遵守はあるものの、それぞれの領地においてある程度独立した統治機構を形成している。支配体制の基本となっているのは、米などを現物で納めさせて年貢とする石高制だ。江戸時代前期の年貢徴収は、田を視察して、その年の収穫量を見込んで毎年ごとに年貢率を決定する方法であった。


田畑や屋敷に至るまで、面積に石盛という一定の計数をかけて米の生産力に換算し、石単位で表示するこの制度は、わかりやすい「課税制度」といえる。そして石高は、そのまま大名や旗本の収入を表す点においては、徳川グループ各支社(藩)や家臣と呼ばれる徳川コンツェルン幹部の「売上高」「年商」「年収」とも読める。本部機能を持つ幕府は、徳川グループ各支社、幹部の「売上高」「年商」「年収」をチェックできるという合理的なしくみである。
また、一石は大人一人が一年に食べる米の量に相当することから、これを兵士たちに与える報酬とみなせば、石高×年貢率と同じだけの兵士を養えることになる。つまり石高は大名の「財力」だけではなく「兵力」をも意味していたのだ。


江戸に築かれた旗本の屋敷が質素であったのに対して、江戸初期に建てられた御三家(尾張、紀伊、水戸)および大名屋敷はいずれも豪華であった。これも石高があったからこそ。屋敷の豪華さで石高を誇ったのであろう。


さて、徳川幕府の象徴といえば江戸城だ。築城工事は、家康の将軍任命の翌年、1860年に着手された。手始めは、城の基礎となる石材を運ぶ船の建造である。その船の建造を負担したのは、島津忠恒(初代薩摩藩主)、浅野幸長(初代紀伊和歌山藩主)、黒田長政(初代筑前国福岡藩主)など有力な外様大名28名であったという記録が残っている。この船が伊豆から巨大な石を一度に数個ずつ積んで、月に二回、江戸との間を往復したという。いずれも諸大名に課せられたミッションであった。


また、その前段階の埋め立て工事も諸大名が担ったという。たとえば駿河台の神田山を崩した土で、日比谷の入江は埋められた。これらは徳川家に対する忠誠心を試すにも、家臣の労働力を使わずに城の基礎を築ける点でも、合理的な手法である。いわば「報酬を出さないアウトソーシング」である。
蛇足だが、江戸の町を拓くために埋立てられた土地には、新たな地名がつけられた。その部分の工事を担当した大名の国名をとって尾張町、加賀町、出雲町など名づけられたところもある。ちなみに、漆喰で塗り固められた城の壁の原料となった石灰は、江戸西部にある村に命じて石炭岩を焼かせて、馬で運ばせたものだが、この道が現在の青海街道である。


諸大名は自分の領地から農民を江戸に連れ出し、資金不足は家臣にも担ってもらい、また豪商から借金をしてでも整えなければいけなかった。それは軍役ともいえるだろう。領地を支給してもらっている、つまり石高をもらっている徳川家に対する奉公なのである。


江戸城の建設と並行して、1604年には近江の彦根城を、その近隣7カ国の大名に命じて築かせ、1612年には駿河城を、1615年には名古屋城の建設を命じるなど、大名への課役はすこぶる大きかったようだ。江戸幕府の支配統制の本質は、巧みに大名を操ることにあったようだ。それは幕藩体制が築いた縦社会そのものである。


By Master K/益田 慶