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小栗上野介が駆け抜けた時代 36 激変した世界地図の中の江戸時代 世界の勢力地図

徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府が開かれた1603年から1867年に大政奉還するまでの264年間、日本は江戸時代が続きました。

では、同じ時期に世界の勢力地図はどのようになっていたのでしょうか? そして日本は世界各国とどのような関係にあり、直接的にせよ、間接的にせよ、どのような影響を受けたのでしょうか? 小栗上野介が登場する幕末までの動向を同時代的に進めながら関係性を紡いでいきます。


イギリス、フランス、スペインなどのヨーロッパの強国がこぞって自国の領にすべき進出した新大陸(アメリカ)。江戸時代初期の1607年、まずイギリスが植民地を建設します。当時の幼い女王にちなんで「ヴァージニア」と命名された植民地を皮切りに、大西洋に沿って多くの植民地を開いていきます。1733年にはジョージア植民地が形成され、ここに13の植民地が揃います。


イギリスは植民地に対して本国なみの課税はせず、植民地が輸入する商品に高率の関税をかけました。また、鉄などの植民地での生産を禁止することで、植民地を本国の市場、あるいは原料供給地として確保する「重商主義」的政策を取りました。つまり、植民地は釘一本にいたるまでイギリスから輸入しなければいけなかったのです。


17世紀末から断続的に続けられていたフランスとイギリス両国の植民地支配をかけた対立は「七年戦争」と呼ばれる長期間の抗争の結果、イギリスが北米の植民地のすべてを奪うことになります。しかし、新大陸とイギリス本国は距離が遠いことから、政治的には植民地議会を中心とする自治が認められていました。フランスとの戦争で財政が悪化したイギリスは、植民地に対してさらに無茶な政策を強制します。財政難の東インド会社が植民地で茶を無税で独占販売できる特権を与えたのです。植民地ではイギリス本国に対する反対運動が広がり、対立が深まっていきます。


イギリス本国と植民地の対立は、やがて独立戦争へと発展していきます。1775年にイギリス本国軍と植民地の民兵が衝突。植民地側はジョージ・ワシントンを司令官として戦いに挑みます。ヨーロッパ諸国はこの闘争を覇権国イギリスを叩く好機と捉え、フランス、オランダ、スペインは植民地を支援。武装中立同盟のデンマーク、プロイセン、ロシアなども間接的に植民地を支援しました。こうして1776年、13の植民地はフィラディルフィアで「独立宣言」を出し、アメリカ合衆国を成立させます。


1783年のパリ条約で、13州の独立は認められ、1787年にはアメリカ合衆国憲法が制定されます。選挙による大統領の選出、司法・立法・行政の三権分立と州の強い権限を特色とする連邦国家の誕生は、のちに小栗上野介が描く国家のイメージに大きな影響を与えました。大政奉還の際に「早急に幕藩体制を廃止して、郡県制へ移行させ、そのうえで大統領制を敷く」と構想した上野介は、明らかにアメリカ合衆国をモデルにしたものです。


さて、独立を達成したアメリカ合衆国は1803年、ナポレオン1世が支配するフランスから1500万ドルでルイジアナを購入し、領土を倍増させます。以降も1819年にスペインからフロリダを購入、1845年にメキシコ領のテキサスを併合。1848年にはアメリカ合衆国が大きな飛躍を遂げるきっかけとなるカリフォルニアの併合に成功します。形式的にはメキシコから1500万ドルで購入したカリフォルニアでその年に金鉱が発見されたのです。アメリカはとても安い買い物をしたわけです。金鉱が発見された翌年の1848年からゴールドラッシュが始まります。一獲千金を求める男たちは、その年にちなんで「フォーティナイナーズ」と呼ばれました。


一方、当時のアジアも激動の時代を迎えていました。中国という巨大な市場を手に入れるためにイギリスがアヘン戦争(1840年)を仕掛け、清国が無理やり開国させられたうえ、香港がイギリスの植民地になっていたのです。


By Master K/益田 慶