小栗上野介が駆け抜けた時代 35 銀行設立と財閥の誕生 三井と三菱

幕末に「兵庫商社」を設立した小栗上野介。その小栗から多くのことを学んだのが後に「三井の中興の祖」と呼ばれる三野村利左衛門です。彼は三井銀行の礎を築きました。三野村の死後、三井の後継人として活躍したのが渋沢栄一でした。第一国立銀行、東京株式取引所などを設立したのも渋沢です。
一方、幕末に活躍した坂本龍馬の海援隊の行動パターンを引きづいたのが、後に「三菱」を立ち上げる岩崎弥太郎でした。


三井はその出発点が呉服屋および両替商で、幕末、維新の転換期には、事業を金融および貿易という分野に絞り込み、一部の事業を切り捨てました。生産よりも商業コミッション、あるいは金融分野で利益をあげることが三井の事業の中心にあったということです。旧三井銀行の設立も、この流れの上にありました。


これに対して三菱は、海運事業からスタートし、造船、商事、銀行、地所などの事業へと枝分かれしていきました。海運業を母体としたことから、必然的に船舶の修理、建造を必要とし、機械工業と関連しながら重工業への道を切り開いていくことになります。このため軍需産業のウェイトが高くなり、いくつかの戦争で兵器を製造することになります。三菱は創業社長の岩崎弥太郎、2代目の弥之助 (弥太郎の弟)、3代目の久弥 (弥太郎の長男)、4代目の小弥太(弥之助の長男)まで、岩崎家が社長を務めました。これは他の財閥グループには見られないことです。世に言う「岩崎家」とは、岩崎弥太郎と2代目の久弥の2家系からなることがわかります。この両家が実権を握って企業の舵取りを続けた点が、三菱の特徴といえるでしょう。


2代目の久弥は1896年(明治26年)に、その経営手腕を買われ、第4代日本銀行総裁に就任しています。三菱為替店が三菱銀行に改組されたのは1919年です。ちなみにUFJ銀行を経て、東京三菱UFJ銀行へと合併されていく三和銀行と東海銀行は、当時まだ誕生していません。


1919年当時、すでに営業していた銀行は、
(1) 三井銀行(のちに太陽神戸三井銀行→三井住友銀行)
(2) 住友銀行(のちに大阪銀行→住友銀行→三井住友銀行)
(3) 横浜正金銀行(のちに東京銀行→東京三菱銀行→東京三菱UFJ銀行)
(4) 安田銀行(のちに富士銀行→みずほ銀行)
(5) 第一銀行(のちに第一勧業銀行→みずほ銀行)
(6) 大阪野村銀行(のちに大和銀行→りそな銀行)
(7)北海道拓殖銀行(1997年に破綻)


三菱は、銀行としては後発ながら、その後、東京銀行やUFJ銀行を吸収し、現在まで生き残っているということです。


さて、第二次世界大戦後の企業分割(財閥解体)で痛手を受けたのは、三井より三菱のほうが大きかったと想像できます。事実、三菱は激しく抵抗したが、三井は財閥内でむしろ三井本社の解体論が台頭していたとされています。


1946(昭和21)年9月、三菱本社は正式に解散し、三菱各社は戦後の混乱の中で、それぞれ独立した会社として苦難の道を歩み始めました。GHQの指令は、関係会社の社長や幹部の追放と解散に及び、三菱の商号や商標の使用も厳しく制限されました。戦後、三井本社、三井物産も同じく解体されました。三井、三菱、住友、安田の4財閥、これに富士産業を加えた5社が財閥解体の第1次指定になりました。


以降、多数の会社に分散した財閥系企業は、現在の企業グループへと形を変えて発展していくのです。


『小栗上野介が駆け抜けた時代』は、次週からは再び江戸時代に戻り、ゴールドラッシュに沸くアメリカ、当時世界の海を支配していたオランダやアジア侵略を図っていたイギリスなどの諸国の動向を追いながら、人物の交流や貿易などにスポットを当てて展開していきます。


By Master K/益田 慶