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小栗上野介が駆け抜けた時代 34 銀行設立と財閥の誕生 三菱商会

1873(明治6)年に岩崎弥太郎自身が社長となって“三菱”を名乗り、三菱商会、三菱蒸汽船会社、郵便汽船三菱会社と改名を重ねながら、活発な活動を展開していきました。明治7年頃から、日本の海運業は三菱に独占されたのです。


三菱を敵視する渋沢栄一と井上馨、三井物産の益田は、三菱の営業スタイルに反感を抱いている地方の船オーナー、問屋、荷主などに声をかけ、反三菱グループを設立しようと企てました。「一大海運会社を設立するから出資してほしい」と打診したのです。このときに誕生したのが「東京風帆船会社」です。しかし、岩崎は次の手を打ち、「三菱が全面協力するから、自分で物産会社を設立してはどうか」とすすめたのです。この誘いが巧みだったのか、三菱は明治15年頃まで海運業を独占しました。


しかし、時代の風は常に順風とは限りません。1882年、反三菱勢力の急先鋒、東京風帆船会社と北海道運輸会社、それに三菱系の越中風帆船会社の3社が合併して「共同運輸会社」が創立します。当時の金で資本金600万円という巨大企業で、260万円を政府が出資しました。そして郵便汽船三菱会社と同じ航路、同じ時間の就航をスタートされるのです。三菱は再度値下げ攻勢に出て、共同運輸を撤退させようと画策します。受ける共同運輸もさらなる値下げで対抗しました。競争は激化し、両者の争いはもはや政府が放置できないところまで達します。


1884年、岩崎弥太郎が他界します。1885(明治18)年には、共倒れと混乱を恐れた政府が両社の間に入り、郵便汽船三菱会社は反三菱派が後押しする政府保護の共同運輸会社と対等合併を強いられました。こうして誕生したのが「日本郵船会社」です。出資は共同600万円、三菱500万円と評価されました。表面的には三井が実権を握っているように見えますが、共同の株式は分散しており、なお岩崎に買い占められていました。従って重役は三菱系で占められました。これにより三菱は、中心事業であった海運業の独占状態から三井との合併会社となり、社員の多くが新会社の日本郵船会社に移籍しました。


この日本郵船が、日本の近代的株式会社のシンボル的存在となるのです。伊藤博文までが会議に参加したとされています。日本最初の定年制、日本最初のボーナス制、日本最初の退職金制度など、日本最初の会社制度が日本郵船から始まっています。これは小栗上野介が、横須賀製鉄所運営に用いようとした手法によく似ています。


さて、その後、三菱が事業を継続できたのは、生前、岩崎弥太郎が海運に代わる営業部門を確保していたことによるでしょう。先見の明があったということです。1873(明治6)年の吉岡鉱山や1881(明治14)年の高島炭砿の買収に始まる鉱業(三菱鉱業の前身、現・三菱マテリアル)、1884(明治17)年の官営長崎造船所(現・三菱重工業)を借り受けて進めた造船業などがそれです。これらの二つの事業は以後、三菱が推進する事業の中核となります。


1885(明治18)年に2代社長に就任した弥太郎の弟の弥之助は、三菱社を設立し、鉱業、造船を中心に会社の再興を図りました。やがて日本郵船も三菱に復帰し、1893(明治26)年に、弥之助は軌道に乗った三菱社を三菱合資会社に改組します。

なお、弥太郎の時代に東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)、明治生命保険(現・明治安田生命保険)、三菱為換店(現・三菱東京UFJ銀行)が設立されています。こうして三井を追いかけるように、三菱も財閥への道を歩いていったのです。

By Master K/益田 慶