小栗上野介が駆け抜けた時代 33 銀行設立と財閥の誕生 郵便蒸気船会社
三井が「三井銀行」と「三井物産」を設立したのが明治9年。その3年前に岩崎弥太郎は「三菱商会」を設立しています。自身の家紋である「三階菱」から取り、トレードマークに菱形を採用します。こうして民間の汽船運輸業をスタートさせます。
彼の前にたちはだかったのが、半官半民の「郵便蒸気船会社」。三井の三野村利左衛門と渋沢栄一の合作の企業です。これは現在でいうところの大蔵省主税局長であった頃の渋沢が地方から租税を中央に集めるために汽船を必要としたことから始まっています。半官半民とは、会社設立の資金が三井の管轄する国庫金から捻出されていたからです。つまり、政府の運営でありながら、その半分は三井グループの運営ということです。
見方を変えれば、幕末に小栗上野介が提示した「自前で船を造ることで近代化を推し進められる」というビジョンを、三野村が受け継いだともいえるでしょう。資金力に恵まれた郵便蒸気船会社の登場によって、民間の弱小海運業社は倒産していきました。しかし、郵便蒸気船会社にも弱点がありました。郵便蒸気船会社は官の気風が抜けずに高慢な運営をしていたのです。汽船運輸業を始めた岩崎弥太郎は、そこに活路を見いだしました。
弥太郎は当時の権力者である大久保利通や大隈重信に積極的に接近しました。明治7年、江藤新平が明治政府に対する「佐賀の乱」を起こした際、大久保はこれを鎮圧するために必要な海上輸送の一部を三菱商会に依頼。同年の「台湾出兵」の際には、これに井上馨、渋沢栄一が反対したため、大久保は彼らと親密な関係にある「郵便蒸気船会社」を使わず、三菱商会の船を使ったのです。
つまり、「大久保利通-大隈重信-三菱商会」というラインと、「井上馨-渋沢栄一-三井グループ(郵便蒸気船会社)」というラインが激しく対立したわけです。
弥太郎が政商として活躍しはじめ、郵便蒸気船会社と三菱商会の立場は逆転します。やがて郵便蒸気船会社は解散。同社が所有していた船18隻は政府が買い取り、政府所有の13隻の船とあわせてほとんど無償で三菱商会に払い下げされ、さらに三菱商会に助成金まで交付したのです。三菱商会はこうして日本近海の航路を独占することになります。大久保利通が暗殺されたのちは、大隈重信が三菱商会を援護し、上海航路を開くことを弥太郎にすすめます。
三菱商会は半官半民であった「郵便蒸気船会社」の業務を引き継ぎ、吸収する形で社名を「郵便汽船三菱会社」と改め、外国船の運賃より値下げした運賃で打って出ます。政府の支援もあり、三菱は徹底したディスカウント戦略で海外の海運業者を退けていきます。
政界から天下りした渋沢栄一が「第一国立銀行」の頭取に専念していた頃、時代の風雲児・岩崎弥太郎は「台湾出兵」や明治10年の「西南の役」などの軍事輸送で巨額の富を得、三菱は三井に匹敵するほどの富豪にまで成長していきます。明治10年末の時点で、郵便汽船三菱会社の所有する汽船は61隻。当時の日本の汽船総トン数の73%を占めるまでに至りました。
弥太郎は汽船を中心とする為替業、海上保険業、倉庫業と事業範囲を広げていきます。三菱で荷為替を組んだ製品はすべて三菱の船で運び、三菱の船で運ぶ荷物はすべて三菱の保険をつけ、三菱の倉庫に納めるというビジネスです。荷為替料、保険料、運賃、倉庫料のすべてで儲けたわけです。
三菱が海運を独占したことで直接打撃を受けたのは、益田孝率いる三井物産でした。わずかな汽船しか所有しない三井物産は、嫌でも三菱の汽船を利用しなければいけませんでした。三井物産は三菱に対して莫大な運賃を支払っていましたが、値引き交渉をしても岩崎弥太郎は拒絶し続けました。
渋沢と益田は弥太郎に反撃を開始します。独占の排除を訴え、三菱を敵対する地方の船のオーナー、問屋、荷主などに声をかけ、一大海運会社を設立し、三菱に対抗しようという狙いです。こうしてライバルは激突したのです。
By Master K/益田 慶