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小栗上野介が駆け抜けた時代 32 銀行設立と財閥の誕生 三井組ハウス

明治5年6月、三井が銀行業務を行うための「三井組ハウス」が日本橋に完成しました。しかし、三井単独の銀行設立に「待った」がかかります。この建物を三井・小野の「共同銀行」に譲るべし、という井上馨、渋沢栄一の命が下ったのです。当時の井上は大蔵大輔(現大蔵大臣)、渋沢は大蔵官僚でした。三井の大番頭、三野村はこれを拒否し、駿河町にあった両替店を急遽、新築の「三井組ハウス」に移転させたのです。


すると井上、渋沢は三井が務めていた政府の為替方を廃止し、「預かっている官金を即納せよ」と迫り、「三井・小野組合銀行」に大蔵省為替御用を命じるよう辞令を交付しました。そして政府は「三井組ハウス」をこの銀行に譲渡するよう、三井に命じたのです。三井は政府の決定に逆らうことをあきらめ、苦々しい思いのまま受け入れました。「三井組ハウス」は建築費の2倍以上の価格で譲渡されました。


この銀行は同年11月、正式に「第一国立銀行」と命名されました。これが日本初の“商業銀行”です。同行は日本最初の株主公募広告を新聞に掲載しましたが、応じたのは59名のみでした。役員として、頭取の上に総監役として渋沢栄一が就任。2年後、渋沢は頭取に就任します。これが日本の“役人天下り”の第一号です。渋沢はその後、東京ガス、東京海上保険、王子製紙、帝国ホテル、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなどの企業の設立にかかわります。


一方、三井は幕藩時代からのライバル小野組を排除したいと願っていました。明治7年、そのチャンスが到来します。当時、大蔵卿(現在の大蔵大臣)であった大隈重信が、三井、小野、島田に預けている官金の担保を3分の1から一挙に全学に増額させようと画策します。三野村は井上馨からその情報を入手し、全力を挙げて担保を準備しました。そして大蔵省から正式に通達が布告されたとき、小野組、島田組はまったく対策ができませんでした。結果、小野組と島田組は倒産します。三井は小野組の負債の整理を引き受けます。


同年、三井両替店は「為替バンク三井組」に改組。「第一国立銀行」から手を引き、2年後の明治9年、日本初の“民間銀行”を設立します。これが「三井銀行」の誕生です。創立願を受理した当時の東京都知事は、かつての幕臣、大久保一翁です。


一方、明治5年に大蔵省を辞任した井上馨は明治7年、大蔵省の益田孝とともに貿易会社「先収社」を創業。その後、政界返り咲きに成功した井上は、先収社の利権を益田に譲渡します。当時、三井の三野村は社内に「三井国産方」を設立し、貿易を担当させていました。これに目をつけた三野村は先収社と三井国産方を合併させ、ここに「三井物産」が誕生します。初代社長・益田は三井家の「雇われ社長」ではあったものの、経営の実権を全面的に委任されました。


三井は明治中期に「三井銀行」「三井物産」とも明治政府の公的業務を返上し、民間取引に専念。政商を脱却し、財閥の道を歩むことになります。旧三井物産は当時の国民経済にとって最大の生産物だった米の国内の流通整備を推進、さらに日本の米を日本の船でヨーロッパに初めて輸出することに成功します。また綿糸紡績業を支え、イギリスから最新鋭の紡績機械を輸入、中国、インド、米国からは綿花を輸入し、日本綿紡躍進の陰の立役者となります。


益田はのちに官営三井炭鉱の払い下げ入札で三菱の岩崎弥太郎と争い、落札に成功します。旧三井物産が飛躍的な発展を遂げたのは、三井鉱山の石炭があったからとされています。石炭の市場を上海、香港、シンガポールなどに開拓したのです。こうして益田は、明治40年代に巨大な三井財閥を完成させるのです。別の角度から見れば、それは最大のライバル三菱との死闘の歴史ともいえます。

By Master K/益田 慶