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小栗上野介が駆け抜けた時代 31 銀行設立と財閥の誕生 三井組

新政府へ資金援助を続けた三井組は、大政奉還が実施された慶応3年(1867年)、金穀出納所御用となります。つまり、新政府の資金の窓口を担うようになったのです。利権はこれだけではありません。会計事務局為替方も担当したので、新政府の経理や為替政策も担ったということです。


三井組は明治2年(1869年)、大阪の豪商に呼びかけ、貿易と金融の両方を業務とする「東京貿易商社」を設立。そののち金融業務を専門に行う「東京 為替会社」を誕生させ、東京貿易商社を「東京 通商会社」に改組し、貿易関係の業務を引き継ぎます。以降、「大阪 為替会社」「大阪 通商会社」といった具合に全国8都市にペアで設立されます。


前身となる東京貿易商社の設立は、三井組の大番頭に出世した三野村利左衛門の発案でしたが、小栗上野介が描いた「兵庫商社」の精神が受け継がれていることは明白です。業務内容も外国貿易のコントロール、貸付、預金、為替など兵庫商社の業務と似通っています。

通商会社は地方商社を通じて諸国物産の流通をコントロールします。全国から物産を集め、輸出するわけです。輸出によって得た利益は為替会社にプールし、「為替札」を発行します。この構想も上野介が描いた兵庫商社や「国益会所」と共通しています。


通商会社、為替会社はすぐに閉鎖されます。役員が「会社」運営についてよくわからなかったからです。三野村利左衛門は、共同出資の会社がうまく運営できないのなら、為替会社のかわりに三井組が単独でバンクを設立し、通商会社のかわりに貿易部門をつくればいいと考えました。この構想がのちに三井銀行、三井物産へと発展し、三井は日本屈指の財閥へと成長していくのです。


明治4年、利左衛門は「三井組バンク」の創立と紙幣発行の願書を明治政府に提出します。三井は幕末期、上野介の指揮のもと、紙幣発行を経験しています。利左衛門は、当時大蔵官僚であった渋沢栄一に「英語のバンクを何と訳すべきか?」と聞いたとされています。渋沢は「金行」か「銀行」か迷った末、「銀行」を選びました。利左衛門に銀行設立の内諾を与えたのは、当時大蔵大輔の職にあった井上馨でした。井上はのちに三井財閥の最高顧問になり“三井の大番頭”ともいわれる人物です。


三井による銀行設立の動きを察知した三井組のライバルも黙ってはいませんでした。「為替御三家」と呼ばれた三井、小野、島田のうち三井だけに銀行設立が認められたとあって、他の2社は巻き返しを図ります。小野組は、明治新政府の参与職外国事務掛となり、外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任した五代友厚を頼ります。五代は1869年に退官し、金銀分析所などを設立し、鉱山経営、紡績、製藍業などをはじめ実業家として道を歩んでいました。いわば大阪の実業家の大御所です。「三井が認められるなら小野組にも銀行設立の承認を」という五代の要求を、井上馨とその部下の渋沢栄一は無視できませんでした。


明治5年、三野村利左衛門は井上馨と渋沢栄一に呼び出されます。「三井が単独で銀行を始めるつもりなら、呉服業をやめなければいけない。呉服業を取るか、銀行を取るか、どちらかにしろ」と無理難題を押しつけたのです。明治に入ると、呉服店は時代の流れに添えなくなっていました。明治維新により、武家の得意先を失い、洋服も登場していました。利左衛門は呉服業をやめるべきだと考え、三井家同族を説得。こうして呉服業は分離され、「三井呉服店」となり、のちに「三井」の「三」と「越後屋」の「越」をとった「三越」が誕生するわけです。ここにも利左衛門の冴えた決断力が見受けられます。
明治5年、日本橋に高層西洋建築の建物が完成しました。三井はここで銀行をスタートさせようとしたのです。


By Master K/益田 慶