2 江戸幕府の支配統制 長期支配体制の確立
「関ヶ原の合戦」に勝利して天下の覇者となった徳川家康は、1603年に征夷大将軍となり、長期支配体制の確立をめざした。徳川家康は中央政権を握ると、朝廷や公家への圧力、大名統制、身分制度の徹底、多様な人材の登用、江戸の整備など次々に大きな改革を手がけていった。家康・秀忠・家光三代のほぼ50年間に、徳川家が全国支配の体制を固めあげ、いわゆる徳川三百年の太平の基盤を築いていったのである。
徳川幕府は、大名・徳川家を対象とした武家諸法度、天皇家や公家の行動を制約する禁中並公家諸法度、仏教教団や僧侶を統制する諸宗寺院法度と、相次いで基本的法度を発布し、政策を実施した。これらの原案はすべて徳川家康が考えたもので、家康は合戦における知将としてのみならず、政治家としても卓越した頭脳を発揮したのである。諸大名、朝廷と公家、寺院と僧侶を江戸幕府の支配下に置いて思うままにコントロールする。これは徳川家康が登場するまで、どの戦国大名も成し得なかった偉業である。
注目すべき点は、徳川幕府が軍事力でそれを達成したのではないことだ。幕府の直轄軍は3万以下だったとされている。関ヶ原の戦いで家康が率いる東軍に参加したのは約10万。東軍に参加した諸大名が率いる軍隊のほうが徳川直轄軍よりも多かったということだ。幕府が成立した後も、幕府の軍事力はとてもコンパクトであったようだ。
江戸時代の大名には、譜代大名と外様大名の分類があった。譜代大名は、豊臣政権のもとで家康が関東地方に移封された際に主要な武将に領地を与え、大名格を与えて徳川家を支えさせたことに由来する。関ヶ原の合戦以前から徳川氏に従い、取り立てられた大名である。外様大名は、関ヶ原の合戦直前、あるいは以降に支配体制に組み込まれた大名である。統制しなければならないのは、もちろん外様大名である。
関ヶ原の合戦を終えた家康は、西軍の諸大名の所領の処分を徹底的に行った。宇喜多秀家の所領、備前岡山57万石が没収されたように、西軍に属した大名は、家をつぶされたり、領地を没収されたりした。家康は没収した土地を再分配した。まず、自己の直轄領を増し、戦功のあった大名に加増し、領地を大幅に移動した。井伊氏や本多氏ら徳川譜代の家臣は、これを機に独立の大名として扱われるようになった。
コンパクトな軍隊しか持たない徳川幕府が、全国支配体制を確立するためには、加賀藩の前田家、薩摩藩の島津家、長州藩の毛利家、土佐藩の山内家、米沢藩の上杉家、肥後藩の細川家、仙台藩の伊達家など、石高の大きな外様大名をいかに支配するかが重要である。そこで大名統制のために「武家諸法度」を発令したのである。大名を縛る法律である。
2代将軍・徳川秀忠の名で出された最初の武家諸法度には、1.大名は領地と江戸に交互に勤めること 2.新しい城づくりは禁止 3.謀反を企てることの禁止 4.大名は幕府の許可なく勝手に結婚してはいけない 5.勝手に関所を設けてはいけない 6.500石積み以上の船を所有してはいけない-などが記されていた。参勤交代を発布したのは、3代将軍・家光である。
徳川幕府は、大名に領地を与え、各領地での独立採算の権利と領地の管理職を与えた一方で、巧みな法律によって支配したのである。大きな軍隊を持たない江戸幕府が「小さな政府」として機能したひとつの理由は、外様大名を上手にコントロールする制度をつくったからである。大名は藩の知事であり、社長でもあるが、すべてが徳川グループに所属するということである。外様大名は、かつては独立した企業のオーナーであったが、「関ヶ原の合戦」を契機に徳川グループに吸収され、そのグループ規定に従わざるを得なくなったということである。そしてその徳川グループは、当初は家康という突出した創業オーナーのマンパワーによるところが大きかったが、やがて個人から組織へと変貌を遂げるのである。
By Master K/益田 慶