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小栗上野介が駆け抜けた時代 29 江戸時代の貨幣制度 トマス・グラバー

今回は貨幣制度から少し離れ、政治と経済が混乱する幕末に、むしろそれを利用してビジネスに挑んだ人々を紹介しましょう。

第二次長州征伐では、大軍で長州へ攻め入った幕府軍が敗退しましたが、長州軍の勝因は最新の西洋式兵器を所持していたからだとされています。西洋式兵器の大半は、薩摩藩が外国商人から購入し、船で密かに長州へ送ったものでした。外国商人とは、スコットランド生まれのトマス・グラバーです。「薩長の黒幕」とも「死の商人」とも呼ばれるグラバーは、中国を拠点にする英国のジャージン・マセソン商会の代理人(日本支社長)として長崎に訪れ、1861年に「グラバー商会」を開業しました。
ジャージン・マセソンといえば、香港に進出し、清国(中国)に阿片を売りつけ、阿片戦争を誘導し、イギリスが香港を取得する筋書きを書いた男です。マセソンを背後で操っていたのは、ロンドン・ロスチャイルド家です。同じ時代に、ひとつの国を乗っ取るような輩が世界にはいたわけですから、外交と財政に疎い幕府の閣僚は歯が立たないわけです。


グラバー商会へは、坂本龍馬、伊藤博文をはじめ、のちに三井財閥の最高顧問になった井上馨、のちに大坂商工会議所の初代会長になる“政商”五大友厚、のちに大阪府知事に就任する後藤象二郎、明治時代に外交官として活躍した寺島宗則、明治政府初代文部大臣の森有礼などが通っていました。こうして名前を挙げると、坂本龍馬と小栗上野介とは異なり、明治時代に政財界で活躍する多くの人物が通っていたことがわかります。


慶応3年(1867年)には、のちに「三菱商会」を立ち上げる岩崎彌太郎が土佐藩の開成館長崎出張所に赴任し、すぐさまグラバーとの商談に取りかかったという記録が残っています。貨幣制度が崩壊していた幕末においても、ビジネスマンの臭覚は敏感で、どこに商材があるのかを常にかぎまわっていたということでしょう。また、岩崎彌太郎と井上馨を結ぶラインも案外、グラバー商会にあったのかもしれません。


そのグラバーは貿易にとどまらず、日本での事業にも乗り出します。慶応4年(1868年)、肥前藩から経営を委託され、長崎の高島炭鉱にイギリス製の最新採炭機械を導入し、本格的な採掘を開始します。明治7年(1871年)、廃藩置県によって炭鉱はいったん官営となったのち後藤象二郎に払い下げられ、同14年(1881年)になって岩崎彌太郎が買収し、三菱の経営に移ります。また、薩摩藩と共同で長崎に日本初の洋式ドックを建設します。設備はすべてイギリスからの輸入でした。


さて、薩摩と長州とを握手させたのは、かの坂本龍馬だとされています。龍馬は長崎のグラバー商会の窓口としても活躍し、ビジネスマンとしての才覚もすぐれていたようです。薩長連合が誕生する1866年まで、薩摩藩は龍馬を介して洋式兵器は豊富に揃ったものの、食糧は不足していました。逆に長州藩では食糧は豊かにあったものの、近代兵器は揃っていませんでした。これでは幕府の長州征伐が決行されれば負けてしまいます。そこで龍馬が考えたのが、薩摩藩の武器と長州藩の食糧を交換させるという計画でした。龍馬はこの商談で大きな利益を得たとされています。


皮肉をこめていえば、幕末の混乱期に、大量の貨幣がグラバーなどの武器商人の手に渡ったということです。映画『ラスト・サムライ』にも武器商人の様子が描かれていますが、龍馬はグラバーを通じて利益をあげたということでしょう。巨額の資金がなければ、龍馬が貿易会社「海援隊」を組織し、自ら船を購入することなどできなかったでしょう。また、彼は紀州藩の軍艦との衝突事件(いろは丸沈没事件)では、紀州藩に賠償金を請求し、87000両という大金を手にするなど、巧みな交渉術も発揮しています。歴史小説やテレビドラマでは、坂本龍馬は日本の将来を案じたヒーローとして描かれていますが、そろそろ、したたかなビジネスの側面にも着目してほしいものです。