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小栗上野介が駆け抜けた時代 28 江戸時代の貨幣制度 銀高金安

幕末の改鋳は、大いなる矛盾をはらんでいました。幕府が開港を迎えるにあたって新鋳した安政二朱銀は従来の秤量貨幣とは異なり、額面が記載された表記貨幣でした。それまで流通していた天保一分銀の重量が8.6グラムであったのに対し、新しく登場した安政二朱銀の重量は13.5グラム。その貨幣価値は、金貨である二朱金と等価とされ、したがって1/8両、また1/2分に相当しました。ちなみに当時の洋銀(メキシコ・ドル)の重量は26.8グラム、含有純銀量は24.1グラムでした。


江戸時代末期、国内の金銀の相対比価は1対5でした。これに対して国際相場は1対13~16。海外の相場から大きく乖離し、「銀高金安」が進んでいたということです。もともと江戸時代の金相場は物価と相反する動きをしてきました。すなわち、物価上昇期には金相場が下落(銀高)が起こり、反対に物価下降期には金相場が上昇(銀安)が生じていたのです。


しかし1850年以降には物価が加速度的に上昇しました。幕末になると、開港によって銀貨が「同種同量の原則」に基づき、素材価値は低いが重量のある洋銀と両替されることになりました。


ここで洋銀→一分銀→小判→洋銀という裁定(利ザヤ取り)取引によって、相当量の金貨(小判)が海外へ流出する事態が発生しました。利益に敏感な米英の貿易商人や金融業者たちはもちろんのこと、各国の大使や公使までもが小判を買いあさりました。幕府は金貨の流出を防ぐために再び金貨を改鋳し、品質を落し、さらにインフレを助長したのです。現在なら内閣の閣僚は「即刻退陣」というところでしょう。


「幕末の改鋳が江戸幕府を滅ぼした」と分析する経済学者は、改鋳により金貨の海外流出が進み、国内の通貨の価値を下落させ、物価高騰が起こり、経済混乱を招いたことで、討幕の動きが活発になったと指摘しています。

江戸幕府が発行した最後の小判となった「万延小判」は、それまでの3分の1の大きさになり、純金量も慶長小判の約1/8しかありませんでした。下記にその推移を記します。


●慶長小判の金の含有量 15.351グラム
●元文小判の金の含有量 8.45グラム
●文政小判の金の含有量 7.28グラム
●天保小判の金の含有量 6.39グラム
●安政小判の金の含有量 5.13グラム
●万延小判の金の含有量 1.824グラム
(万延小判からすれば、慶長小判の金の使用料は約8.4倍。幕末には、同じ金の量で8倍もの枚数の小判を発行していたということです)


ものを売る側にしてみれば、「万延小判で1両だ」と言われても納得できず、「大きさが3分の1なので3両(小判3枚)でないと売らない」「純金量が少ないので、万延小判には天保小判や安政小判ほどの価値はない」ということになります。すると必然的に物価は上がります。つまりインフレです。


通貨の価値が下がった要因は、改鋳だけではありません。貿易の開始も物価の急騰をもたらしたのです。1859年から1866年にかけての物価の伸びは、米価換算で10倍。たとえば生糸一包みは、200ドルから800ドルと4倍も高騰しています。封建的な経済を続けてきた国がいきなり自由貿易をすると、どうなるかという見本のようです。貿易開始から幕府滅亡までは10年もかかっていないという事実から、当時の日本が貿易に疎く、先進国のカモになったという見方もできます。


当時の記録をひもといてみると、最初は儲かっていた外国との貿易も、1866年を境に赤字になってゆきます。外国人商人の手練手管に日本人商人は歯が立たなくなったのでしょう。さらに欧州の列強は兵庫の開港が遅れた代償として、改税約書を押し付けてきました。また、攘夷運動が下火にならないのは、天皇が通商条約の勅許を出さなかったからだとして、兵庫に軍艦9隻を並べて圧力をかけてきます。


By Master K/益田 慶