小栗上野介が駆け抜けた時代 26 江戸時代の貨幣制度 貨幣の改鋳
江戸時代には、幾度となく貨幣の改鋳が行われました。改鋳とは、金貨や銀貨の重量や金・銀の含有量を変更することです。改鋳の度に金座などの貨幣鋳造機関や両替商など商人を主体とする機関が、政府部門と民間部門との仲立ちとなって新旧貨幣の交換業務に携わりました。
改鋳は幕藩体制を経済的に支える米の価格を調整するために行われましたが、経済の拡大にともなう通貨の流通不足と幕府財政の悪化、金銀相場の内外格差を是正する目的もありました。
改鋳が行われた時代と回数は以下のようになっています。元禄・宝永・正徳・享保・元文(金貨のみ)・明和(銀貨のみ)・文政・天保・嘉永(銀貨のみ)・安政・万延(金貨のみ)の計11回(ただし、一方のみの改鋳もあるので、実際には金貨・銀貨ともにそれぞれ9回)。
このため、江戸幕府最初の金貨である「慶長小判」の時には現在の単位に換算して重さ約17.8g、金含有率84.3%あったものが、最後の「万延小判」に至っては重さ約3.3g、金含有率56.8%と辛うじて金貨の体裁を維持しているに過ぎない水準にまで低下しています。
改鋳の歴史は、幕府が貨幣制度を改定し、確立していく過程でもあります。興味深いのは、たとえば貨幣大系の中心に据えられた金貨は「一両」という額面の価値を与えられていたにもかかわらず、改鋳によって品位が変更したことと、額面は一定であっても金の純分量が異なったことです。後者については、秤量貨幣の矛盾点といえるでしょう。鋳造された時期によって金や銀の含有量が異なるのであれば、貨幣の価値も時期によって異なってしかるべきだと考えがちですが、「一両」の額面価値は同じでした。ただし、実質価値が異なった場合には、新旧貨幣は「増歩(ましぶ)」というプレミアムを付加して交換されたようです。
江戸幕府による最初の改鋳が行われたのは1695年。慶長金銀貨に比べて質を落とした金銀貨が発行され、貨幣流通量の増大が図られました。しかし、物価上昇が激しくなったため、再び改鋳が行われ、質の高い正徳・享保小判が発行されました。もっとも正徳・享保の改鋳では、小判の品位が引き上げられた一方で、「旧小判2枚が新小判1枚」とされたことから貨幣量が急激に減少し、経済活動が停滞したといわれています。
荻生狙徠の提言を受け、徳川吉宗によって行われた元文改鋳(1736年)は、貨幣量の適正化を目的として行われました。この時には質を落とした元文小判が発行されました。金貨は品位・量目ともに、享保小判の75%(貨幣の単位純量としては56%)、銀貨の品位は、享保丁銀の57.5%に切り下げられました。これが「元文小判」と呼ばれるものです。新旧貨の交換の際につけられる「増歩」は、金貨100両につき65両、銀10貫目につき5貫目でした。旧小判1両=新小判1.65両というプレミアムがついたのです。
八代将軍吉宗は、徳川幕府中興の祖として名高く、「享保の改革」を通じて、五代将軍綱吉の放漫財政や災害の発生などにより危機的状況に瀕していた幕府財政を見事に立て直した政治家としても知られています。享保7年(1722年)、町人請負方式による新田開発を解禁のうえ年貢米の増収を図ったり、米価の調整に腐心したりしたことで名高いですが、財政立て直しに最も寄与したのは、国内産業の振興策ではなく、「元文改鋳」という金融面からのリフレ政策でした。
吉宗は当初、倹約による財政緊縮を重視したため、幕府はもとより諸大名も財政支出の削減という強力なデフレ政策を実行しました。その結果、江戸の経済は深刻な打撃を受け、街は火が消えたようになったといわれています。物価も下落傾向をたどりました。とりわけ米価の下落が著しかったようです。年貢米の売却で生計を立てていた武士階級の場合、米価安は直ちに所得の低下を意味したため、米価の独歩安は彼らの生活を圧迫しました。そこで、改鋳が決断されたわけです。
By Master K/益田 慶