小栗上野介が駆け抜けた時代 25 江戸時代の貨幣制度 藩札
江戸時代に全国統一的な貨幣制度が確立したとはいうものの、金貨・銀貨が支払い手段として使われたのは、実質的には江戸や大坂、京都といった徳川幕府の直轄地においてのみでした。
それ以外の地域では何が利用されていたのかといえば、「藩札」(はんさつ)と呼ばれる地域通貨です。藩札とは江戸中期以降、領内で正貨(金・銀・銅貨)を流通させる代わりに領民に使用させた紙幣のことです。和紙に木版刷りが基本で、すかしや着色紙などの偽造防止などを取り入れたものもありました。明治4年の廃藩置県時には244藩もあり、諸藩の約8割が藩札を発行していました。江戸時代の日本は複数の「藩」から成る合衆国で、州法や州税と同じように藩だけの通貨が流通していたということになります。
藩札が生まれた背景には、大量の金貨・銀貨が海外流失した一方で、各藩の経済が発展し、貨幣の需要が増大したことが挙げられます。地方での貨幣不足が経済問題に発展することを危惧して各藩が藩札を発行したのです。つまり藩札には自領内の貨幣の不足を補い、通貨量を調整する機能が託されていたのです。しかし実質的には、藩札発行で得られる実通貨の納庫を目論み、これによって藩の財政難の解消をする目的があったようです。
藩札の発行には以下のような基本的なルールがありました。
(1) 領内における正貨の流通禁止、個人間での正貨と藩札の交換の禁止
(2) 藩士の給与は藩札で支給する
(3) 年貢など藩への支払いは藩札で行う
それでは商人が江戸や大坂で入手した正貨を持ち帰ると、どのような事態になったのでしょうか。藩は藩札の交換場所を設けて、正貨と引き換えに藩札を交付したのです。反対に領民がお伊勢参りや行商のため領外に出る際は、藩札と交換して正貨を渡しました。これは正貨を紛失したり、磨耗したりするのを防ぐためであったようです。
実際には藩札は、藩の財政をまかなうために正貨を大きく上回る額が発行されたようです。多くの藩では、藩札の乱発からその信用力を大きく損ない、藩札の価値が急落しました。表書きの金銀などの兌換保証が前提ですが、実際のところ、藩にそれだけの正貨が用意できなかったところがほとんどだったのです。反対に領民の藩札に対する理解が高い藩では、藩札は円滑に流通していました。たとえば「赤穂浪士」「忠臣蔵」で名高い赤穂藩(現在の兵庫県の一部)。浅野内匠頭が藩主になった時代に初めて発行された赤穂藩札は、信用力が極めて高く、藩内はもとより、江戸でも藩邸を出入りする商人の間で流通したといいます。塩田収入による経済力と、大石内蔵助を中心とする藩の通貨管理政策が順調だったのでしょう。
ちなみに浅野内匠頭が吉良上野介を刀傷した直後、出入りの商人たちはが「藩札引き換えをご検討のこと」と記した書状を出したとされています。藩が取り潰しされれば藩札はただの紙切れになるからです。それを受けた大石内蔵助は、一夜にして藩札の六分返し(額面の6割相当の正貨の払い戻し)を決断したとされています。
貨幣ではなく物品との兌換を明示した藩札もありました。最も有名なのが、米札(こめふだ)です。彦根藩の場合、藩札の額面にたとえば「納米弐升 此代壱匁預」と記され、米と銀との引き替えが行われていたために「米札」と称されていました。この米札は、経済的に窮乏する彦根藩士を救済することを目的に幕府から許可を得たものです。彦根藩は幕府の許可を得て、藩内での幕府発行貨幣の流通を禁止し、米札だけを通用させるという「皆米札」(みなこめふだ)政策を実施しました。これにともない皆米札奉行が新設され、領内には米札の引替所が置かれたようです。
このように江戸時代の貨幣制度は、江戸と大坂・京都、各藩によってそれぞれ異なる形態を持っていたのです。
By Master K/益田 慶