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小栗上野介が駆け抜けた時代 24 江戸時代の貨幣制度 信用制度

今回は江戸時代に大坂で発達した決算手段、銀目(ぎんめ)手形を紹介します。江戸時代は、全国統一的な貨幣制度がはじめて確立した時期として知られていますが、同時に藩札や江戸・大坂間を中心とした隔地間為替など“信用制度”も大きな発達をみた時期でもありました。


江戸時代の大坂は、全国各地から諸物産が集まる拠点で、集積した物資は問屋、仲買の手によって売買され、各地に送られました。大坂での取引は、一般に「江戸の金遣い(金建て)、大坂の銀遣い(銀建て)」といわれるように、秤量貨幣である銀貨(丁銀・豆板銀)を使って決済されていました。その取引のほとんどは、通帳に基づき信用で売買された後、商品ごとに定められた期日に代金が支払われました。この際に決済手段として利用されたのが銀目手形です。秤量貨幣の場合、重量が大きく、商人間の大口取引には不便であったことが、銀目手形が生まれた理由だとされています。


 銀目手形の流通は、金銀貨幣の交換や預金・為替を取り扱っていた両替商を核として発達した信用制度により支えられていました。両替商が銀目手形を引き受け、決済や資金融資を行っていたのです。


銀目手形は形態的に2つのタイプに分けられます。両替商が預金者に対して発行した預り証(または銀貨の保管証)としての「預り手形」と、預金者が両替商に対して預金を引き当てに振り出した「振り手形」の2種類です。


預り手形は、両替商が預金者に発行した「預金証書」あるいは「銀貨の保管証」であり、現代の「預金小切手」に相当します。これらは両替商が正貨との引き替えで発行した自己宛の預金小切手であり、支払人である両替商の高い信用力に基づき支払手段として広く受け入れられていました。預り手形は第三者への譲渡が容認されていたことから“事実上の貨幣”として流通していたようです。


一方の振り手形は、今日の「小切手」に相当します。券面の右下に「何某殿へ」という受取人を示す名前が示されます。たとえば九右衛門さんが両替商の徳兵衛さん宛に発行した「正金五百両」の振り手形の手形受取人に吉兵衛さんの記名があれば、名義人(吉兵衛さん)がこの振手形を徳兵衛に持参することができ、正金五百両を受け取ることができたのです。振出人の九右衛門の「金銀取渡通」に相当の残高がなければ「不渡手形」になりました。


振り手形の日付は、振出人の資金繰りなどの都合によって先日付で振り出されることもあったようです。これを「延(のべ)手形」と呼び、受取人は満期日当日に両替商に預け入れ、現金化を図るのが一般的だったようです。大坂では両替商同士の資金決済にも銀目手形が用いられていました。


こうして調べていくと、大坂の両替商は、手形交換所や振替銀行に匹敵する資金決済システムを構築していたということが見えてきます。それは完全なピラミッド構造を成していました。三井や鴻池屋など大手の両替商が、幕府の政策に従って傘下の両替商を統轄していたのです。家格の異なる両替商との取引は、すべて親両替と称される系列のなかのひとつ上に位置する両替商を経由して行われたのです。


金・銀・銭の交換は変動相場制によるものだったため、商人や両替商は多額の為替差益を手にしていました。たとえば江戸では銀相場が安い時(金高銀安)に大坂に商品の注文をするのが有利、逆に大坂では金相場が軟調な時(金安銀高)に江戸に販売すれば利益が多くなりました。


銀目手形が廃止されたのは、慶応4年(1868年)でした。近代国家にはなくてはならない「通貨統一」という政策が決行され、「円」が誕生したわけですが、関西で通用していた銀の通貨としての役割が廃止されたので、大坂の商人は、銀目の手形を持って両替屋に押しかけ、両替商の経営が破綻したといわれています。これが銀の暴落を招き、関西経済に大きな打撃を与えてしまいました。
 次週は金貨、銀貨、銀目手形以外の貨幣「藩札」を紹介しましょう。


By Master K/益田 慶