小栗上野介が駆け抜けた時代 23 江戸時代の貨幣制度 手形取引と先物取引
江戸時代の貨幣制度が、金・銀・銅(銭)の三種類からなる「三貨制度」であったことは前回説明しましたが、では、江戸時代の人たちは実際にはどのようにこれら三貨を使い分けていたのでしょうか。その説明の前に貨幣特徴が生まれた順番と特徴を詳しく記しておきましょう。
天下の実権を握った徳川家康が最初に手がけたのが、1601年(慶長6年)に鋳造された、慶長小判をはじめとする「慶長金銀貨」です。
金貨は、甲州武田氏が鋳造した甲州金貨の価値尺度を踏襲のうえ、「両」を基本単位とする計数貨幣として発行されました。慶長金貨は、恩賞、儀礼等の特殊な用途に利用される大判(拾両)、一般的な交換手段として発行された小判(1両)、および一分金(4分の1両)の3種類から成っていました。金貨にも種類があるとは、なんとも面倒くさいことです。このうち、大判については額面金額ではなく、金の含有量を基準として流通し、実際には7.5両前後で取引されていたようです。
一方、銀貨は当時の流通実態を踏まえて、重量を基準として価値が示される“秤量貨幣”として、丁銀(ちょうぎん)と豆板銀(まめいたぎん)が鋳造されました。丁銀はナマコ形と呼ばれるやや不揃いな棒状の銀塊で、重量は不定ですが、おおよそ43匁 (約161.25g)前後。額面は記載されておらず、重量によって貨幣価値が決まりました。銀貨は主に当時の大坂を中心とした西日本で使われました。
一方の豆板銀は、形状は小粒の銀塊で、重量は不定ですが、1匁(約3.75g)から10匁(37.5g)程度。それ自体を利用するほか、丁銀の補助貨幣的な役割を持ちました。
この間、徳川幕府では、公鋳貨の安定的供給のため、全国に散在する金銀銅などの主要鉱山のほとんどを直轄領として掌中に納めたほか、金座・銀座を通じて流通金銀の回収を図るなど、貨幣素材の確保に努めました。
一方、小額貨幣である銭貨の統一作業は遅れ、1636年(寛永13年)になってやっと「寛永通宝」と称される銅一文銭の鋳造が始まりました。幕府は寛永通宝の鋳造・発行とともに、古銭(渡来銭・私鋳銭)の回収に努めました。その後、寛永通宝は、銭座の増設などを媒介として大量に鋳造されたこともあって、やがてほぼ全国に浸透し、1670年(寛文10年)には寛永通宝以外の銭貨の通用が禁止されました。余談ですが、この間、寛永通宝との交換により回収された古銭のほとんどは、現物のまま、あるいは北宋銭に鋳直されて東アジア諸国へ輸出されたとされています。
そして1608年(慶長13年)、金1両=銀50匁=銭4貫文(4000文)という金銀銭貸間の交換比率が公定されたのです。しかし、実際の交換比率は市場実勢、つまり相場によって決められ、日々変動していました。
こうした貨幣が流通した江戸時代の人々がどのような使いをしたのかというと「値の高いものは金貨(銀貨)で支払い、安いものは銭貨で支払う」としていたようです。
たとえば2両の買い物をしたとしましょう。銭で支払うとなるとこれはもう大変な作業です。12000文もの寛永通宝が必要になるからです。12000文もの寛永通宝を払う方は重くて運びにくいし、受け取る方は数えるのが面倒です。反対にそば屋に行って16文のそばを食い、1両を出しておつりをもらう、ということも考えにくいものです。5984文のおつりをそば屋が用意しているとは思えないからです。ですから、江戸時代には基本的に売り手側の値段表示が銭なら銭で払い、金なら金で払うというのが普通だったようです。
興味深いのは、大量の貨幣を運ぶのを避けるため、手形取引が発達したことです。1620年頃から世界に先駆けて、大坂の堂島で先物取引が始まったという記録も残っています。次回は天下の台所、大坂で使われた手形について説明しましょう。
By Master K/益田 慶