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小栗上野介が駆け抜けた時代 20 小栗上野介の事業と政策 経済政策

上野介は横須賀製鉄所の建設、兵庫商社の設立、ガス灯や鉄道建設構想のほかにも、日本の近代化のために多くの事業を興し、あるいは計画しました。今回は主に経済政策を紹介します。


 1865年(慶応元年)、上野介は「諸色会所」設置計画という建議書を幕府に提出しています。「諸色」とは現在でいうところの「物価」を表わす言葉。つまり、「諸色会所」とは物価調整のための商人の組織です。現在で最も近い団体を探すなら、商工会議所ということができるでしょう。


商工会議所制度の誕生は、明治維新後、日本の経済社会が資本主義制度に移行していく過程と一致しています。時代の要請に基づいたものといえるでしょう。明治政府は、長い鎖国政策により欧米諸国に立ち遅れた国力を増進強化すべく、富国強兵、殖産興業、文明開化を国策の中心に掲げており、特に外国貿易振興のための商工業者の機関を必要としていました。これは、まさに上野介が描いた兵庫商社の目的と同じです。


 一方で、「日本には商工業の世論を結集する代表機関がなく、世論を論拠とした明治政府の主張は虚構にすぎない」との反駁を諸外国から強く受けたことも発端となり、伊藤博文、大隈重信が渋沢栄一に商工業者の世論機関の設立を働きかけました。日本で最初の商工会議所となる東京商法会議所が設立されたのは明治11年。初代会頭は、渋沢栄一でした。

 
上野介はさかのぼる1861年(文久元年)に「国益会所」の設立という構想を幕閣に建議しています。これは外国との貿易で日本が損をしないようなしくみをつくる組織です。これがのちに「兵庫商社」へと発展します。


上野介には「国益会所」構想以外に「日仏組合法」というモチーフもありました。これは日本の商社「商業・航海大会社」を設立し、その代表をパリに駐在させ、フランスの商社「フランス輸出入会社」の代表が横浜に駐在し、相場に応じて物資の売買を行うという構想です。建議書には「商社の設立資金は、それぞれの国の商人から出資させる」という資金調達の方法まで記されていました。「国が貿易の青写真をつくるから、あとは民間で進めるべし」という方法は、まるで「民間でできることは民間に」という政策のようです。

これらは上野介の発想が、いかに時代を先取りしていたのかがわかる構想です。


上野介が掲げたもうひとつの大きなビジョンに、中央銀行設立の計画がありました。これは遣米使節としてアメリカを見聞した上野介らしい発想でした。モチーフはアメリカの「ナショナル・バンク」です。ご存知のように江戸幕府としての実現はなりませんでしたが、上野介の中央銀行構想は、1873年に三井組が主導して開業した、第一国立銀行という名で実現します。ただし、国立銀行といっても国営ではなく「国立銀行条例」に基づき設立された私立の銀行で、発行する銀行券は金貨との交換を義務づけられていました。


それにしても上野介の構想を引き継いだのが、上野介と親しかった三井家の三野村利左衛門であり、やがて三井家に入り込んでいく渋沢栄一であったことは何かの縁でしょうか。
三井が新政府に食い込んでいけたのは、資金のなかった新政府に三井が献金したことがきっかけになっています。当時の三井組の大番頭、三野村利左衛門はそれまで上野介とのコネクションを通じて幕府と深くつながってきました。明治政府の献金命令を受けても、鴻池家や加島屋などの豪商の多くは応じませんでしたが、すぐに調達を申し入れた三井組は優遇されました。上野介の助言があったのかもしれません。


1874年、三井組、小野組、島田組の“為替方三家”に対し、明治政府は官金取扱高の1/3の抵当差し出しを命じています。小野、島田は運用資金の回収に失敗し破産。生き残った三井組が、「御為替方」として新政府からの御用を務めることになったわけです。三井は井上馨や渋沢栄一に接近し、明治政府の資金を無利子で運用し、利益獲得に成功。のちに三井単独での銀行設立を目指すのです。幕末に上野介と深く関係した三井家が最初に銀行を設立したことには、何か明確なラインが見えるようです。


By Master K/益田 慶