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小栗上野介が駆け抜けた時代 19 小栗上野介の事業と政策 コンパニー

「日本初の株式会社」あるいは「株式会社の原型」と呼ばれる「兵庫商社」の設立にあたり、上野介が提示したのが「コンペニー」(カンパニー)という言葉です。日本史上初めて公式文書に「コンペニー」という外来語が登場したのです。当時「コンパニー」という単語は、「株式会社」を指すのではなく「貿易と金融を行う会社」を指していたようです。


同じ時代に坂本龍馬が結成した「海援隊」は慶応1867年3年4月の設立。同年末に設立された兵庫商社より早かったため、正確には海援隊が「日本最初のカンパニー(貿易と金融を行う組織)」で、兵庫商社が「日本最初の株式会社(複数の民間人からの出資を受け資金運用をする組織)」ということになるのかもれしれません。


1867年(慶応3)年5月、江戸幕府は兵庫開港の勅許を得、同年12月に開港が実現します。しかし実際の貿易港となったのは「兵庫津」=兵庫の港ではなく、その東側の神戸村の海岸でした。幕府は勅許を得る以前から開港準備として居留地の造成を進めていましたが、その当時からすでに居留地は神戸に設けられることが決定していたようです。


 さて、幕府は上野介の計画にもとづき、1867年(慶応3年)6月、関西の代表的な商人20名を京都に集合させました。彼らは出資者であると同時に役員となりました。頭取には「鴻池(こうのいけ)屋」の山中善右衛門、「加島屋」の広岡久右衛門、長田作兵衛が就任します。今日でいうところの、会長、社長といった肩書きでしょう。


もともと酒造業と海運業で財を成した鴻池家は、江戸時代には「両替商」に進出し、金銭売買、貸付、手形振出、預金などを取扱い、今日の銀行のような役割を果たしていました。加島屋も両替商として君臨した豪商です。のちに三井家や住友家も役員に加わります。


兵庫商社は、20人の大富豪だけに貿易利益を独占させないようにするために、「武士、町人、百姓の差別なく出資できる」とされ、最終的には100人規模の出資者が集まりました。まさに株式会社の原型がここにあります。


商社の事務所は大坂・中之島におかれ、「商社会所」と呼ばれました。慶応4年の兵庫開港後、当面の業務は、開港準備金の調達と出資金に見合った金札の発行でした。開港準備金として集まったのが1万両強、金札発行も発行計画百万両に対して、実際は1万両のみと運用が軌道に乗らないうちに、大政奉還、幕府崩壊となってしまったため事業が中止。残念ながら幕府が消滅したことにより兵庫商社の運営は約半年間のみとなりましたが、兵庫商社設立には大きな意義がありました。一部の歴史家は兵庫商社を「貿易利潤の幕府による独占の機関」として非難しましたが、「貿易や生産を幕府が支配するのか、外国商館が主導権を握るのか」という二元論しか持たなかった日本に、株式会社が自由に貿易を運営する方法を導いたのは上野介なのではないでしょうか。

 
余談ですが、兵庫商社設立の同じ年、土佐藩が欧米の商人たちから船舶や武器弾薬の類を輸入する窓口にしていた長崎土佐商会の主任に土佐出身の岩崎弥太郎が就任しています。岩崎は同郷の坂本龍馬が設立した海援隊の経理を担当していた縁で職を得、艦船や武器弾薬の英国人ブローカーであるグラバーとも懇意になります。グラバー商会はロイズ保険、香港上海銀行などの代理店も営んでいました。いずれもロスチャイルド財閥グループです。三菱グループは当初ロスチャイルド財閥と組んでいたことがわかります。その6年後、岩崎弥太郎は九十九商会(後の三菱商会)を設立します。


現在連載中の『ヨーロッパの財閥と企業グループ』(毎週月曜配信)の内容とも深くリンクする部分なので、注目してください。「西南の役」をきっかけに岩崎弥太郎はロックフェラー家と接近、反対に三井財閥は大番頭の渋沢栄一がロスチャイルド財閥と親密になっていきます。以降、ロスチャイルド財閥の系列となる三井グループ、ロックフェラー財閥の系列となる三菱グループという図式ができあがっていくのです。


By Master K/益田 慶