小栗上野介が駆け抜けた時代 18 小栗上野介の事業と政策 日本初の株式会社兵庫商社

 上野介が成し得た偉業として忘れてはいけないのが、「日本初の株式会社」あるいは「株式会社の原型」と呼ばれる「兵庫商社」の設立です。1867年(慶応3年)4月、勘定奉行の小栗上野介は幕府に対し、兵庫開港に際して「コンペニー」設立の必要性を提案します。財政、通商、産業政策面での上野介の能力を幕閣がすでに認めていたために、上野介の提案は承認されました。


 兵庫商社設立に至るまでには伏線があります。上野介が横須賀製鉄所の建設に没頭している間に政治情勢は一変していきます。“富国強兵”に資金を投下すべきだと考えていた上野介の考えに反して第二次長州征伐が発令されます。そして元号は元治から慶応へと変わります。


 そこへ思いがけない事件が発生します。慶応元年、英米仏蘭4ヵ国の軍艦9隻が突如、大坂湾に進入、兵庫開港を要求してきたのです。1860年に結ばれた「修好通商条約」で決められた開港期限はその後、ロンドン条約(1862年)によって延期が承認されていました。しかし、尊皇攘夷の動きに便乗し、幕府にゆさぶりをかけてきたのです。英米仏蘭4ヵ国の軍艦の大坂湾への進入を仕掛けたのは、イギリス公使パークスでしたが、その背後には西郷隆盛がいました。


 最終的には天皇の決断で「修好通商条約」勅許が決定し、兵庫開港はまた延期されました。上野介は早いうちに開港の日が来ると考え、「兵庫商社」の構想を思い立ったのです。ここには横浜開港の大きな教訓が活かされます。


 1859年に開港した横浜では、生糸や茶、海産物など輸出額が増えていたにもかからわらず、その利潤は外国商館に独占されていました。商業取引に必要な知識や手続き、さらに語学力の不足などによって外国商館に取引利益を奪われていたのです。加えて関税自主権がないことも商業取引において非常な不利益が日本側に与えられていました。資本力がなく、貿易の経験のない日本人商人は外国人商人に手玉に取られていたわけです。上野介はこの事態に日本経済の危機を感じ取っていたのです。


 そこで上野介が建議書として幕府に提出したの日本人による「貿易商社」の設立だったのです。建議書の概要は「横浜や長崎のような開港の仕方では、開港ごとに莫大な損出を招く。また西洋各国だけが利益を得るのは開港の意図に反する。それは商人らの組合の法を設けず、商人が自分の利益だけを追求しているからである」という分析から始まります。そして「そういう現状だからこそ、ひとつは貿易の発達のために、もうひとつは財政の利益を確保するために、大坂の商人たちで貿易商社を組織し、大資本をもって外国人商人と競争することが望ましい」と展開します。


 上野介のロジカルな思考が垣間見える建議書です。続いて上野介は具体的な運営方法と利益構造を示します。


「組織に加わる商人たちから百万両の出資をしてもらう。幕府はその商社に3年を期限として、百両の金札(金貨と交換できる紙幣)発行権を許可し、幕府はそれを兵庫開港の資金に充てる。3年後には兵庫開港によって生じる税金が百万両に達するであろうから、これを元手に幕府は商社へ新たに百万両の紙幣を発行する。幕府は商社の売上から税金を徴収し、その資金で軍備を整え、ガス灯や郵便局を建設し、鉄道も敷いていきたい」


 商社の売上が増えれば、公共事業を展開するために必要な資金も調達できるという上野介の経済学は、資本主義の構造を見事に表わしています。のちにケインズは「政府が公共事業を主導することで一般企業の仕事が増え、失業率も低下する」と唱えますが、上野介は「一般企業が利益をあげることで、国が公共事業に充てる資金も生まれる。だから会社が必要」と考えたのです。今日でいうところの「小さな政府」を標榜していたのかもしれません。次週は上野介が「兵庫商社」設立のために推進した計画を具体的に紹介します。

By Master K/益田 慶