小栗上野介が駆け抜けた時代 16 小栗上野介の事業と政策 横須賀製鉄所
今週から数週に分けて小栗上野介が行ったすべての事業、政策を紹介します。
遣米使節の監査役として渡米し、「史上最初の為替レート交渉」を成功させた上野介。帰国後、彼が外国奉行、勘定奉行などのポジションで活躍したのはわずか7年間でした。現在なら外務大臣と経済産業大臣といったところでしょうか。
上野介はその7年間に新たな政策を打ち出し、多くの事業を推し進めました。そのうちのひとつが横須賀製鉄所の創設です。日本が1956年にイギリスを抜いて世界一の造船国(現在は韓国に次いで第2位)になったのは、上野介の英断があったからでしょう。
上野介が製鉄所建設を推し進めた理由は、合衆国の工業化を視察してショックを受けたこと、ロシア軍艦の侵犯なので屈辱感を味わっていたことなどが挙げられるでしょう。小栗は日本の造船工業の幼稚さに落胆し、勝海舟が提案する軍艦購入ではなく、自力建設の路線を選びます。つまり、先進国からの技術導入を訴えたのです。それでは、上野介はどの国から技術を学ぼうとしたのでしょうか。
江戸時代末期、世界最強の海軍を持っていたのはイギリスでした。薩長と戦ったイギリスの戦力を幕府は恐れていました。もちろんイギリスが行った、隣国である清国への武力による侵略行為は幕府の耳にも届いていました。イギリスと組むのは危険だと上野介は察したようです。
アメリカは遣米使節の派遣以来、友好国でしたが、当時のアメリカは南北戦争の真っ最中。断念せざるを得ませんでした。ロシアはイギリスと争うように露骨にアジア侵略戦略を進めていたので最も警戒すべき国でした。歴史的にも日本と親しかったオランダには一時期の勢いはなく、幕府が長崎在住のオランダ人技師に打診したところ、やんわりと断られたようです。
残るのはフランスでした。手始めに幕府は所有艦の修理をフランス人技師に委託します。技術水準が高く、価格も安く、誠実な対応に幕府は好感を抱きます。諸外国を比較検討した結果、上野介は技術提携先の国にフランスを選びます。
一方フランス公使ロッシュは、当時三度目の勘定奉行に就任していた小栗に具体案を提案します。当時のフランスはヨーロッパ全土に蔓延した蚕病によって養蚕業が壊滅状態だったので、フランスの輸出品である絹織物が危機的状況を迎えていました。フランスは日本の上質の絹がどうしても必要だったのです。そこで公使ロッシュとしても勘定奉行と深い関係を築いておく必要があったのです。
次の課題は工場立地です。横浜、横須賀、長崎製鉄所の拡大、長崎製鉄所の神戸移転案、江戸湾内石川島、駿河湾内戸田などいくつかの候補地と案が挙がります。実地測量の結果、横須賀が選ばれました。建設の正式決定は1864年でした。
横須賀製鉄所は「製鉄所」という名称ですが、製鉄、造機、造船を含めた総合的な大工場です。小栗は横須賀に本格的な大工場をつくる前に、中規模の工場を横浜に建設します。この横浜製鉄所が今日の石川島播磨重工業の前身のひとつです。
建設計画では、期間は4年、総工費240万ドル(現在の240億円以上)。アジア最大の大工場であり、世界でも最大級です。これが日本の近代造船業の夜明けでした。この計画が発表されると、内外から小栗に対する批判、妨害が繰り返されました。イギリス公使パークスが上野介の計画を非難すると、薩長からも反対の声があがります。江戸城内でも上野介の政策を批判する声は鳴りやみませんでした。
1965年、横須賀製鉄所の鍬入れ式が行われます。しかし完成を待たずに幕府は倒れ、明治政府が誕生。上野介は殺害され、事業は明治新政府が引き継ぎます。
横須賀製鉄所の経営に近代的なマネジメントの手法を導入したのも上野介でした。次週はこのマネジメントに着目してみましょう。
By Master K/益田 慶