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2007年11月 アーカイブ

2007年11月01日

2007年11月1日 (木)

パリ休場(諸聖人の日)

08:50 (日) 10/27までの対外及び対内証券売買契約等の状況
09:30 (豪) 9月貿易収支
09:30 (豪) 9月小売売上高 
16:15 (香港) 9月小売売上高-価格 
17:30 (スイス) 10月SVME購買部協会景気指数
21:30 (米) 9月個人所得 
21:30 (米) 9月個人支出 
21:30 (米) 9月PCEデフレーター 
21:30 (米) 9月PCEコア・デフレーター 
21:30 (米) 10/28までの週の新規失業保険申請件数
23:00 (米) 10月ISM製造業景況指数
23:00 (米) 9月中古住宅販売保留

2007年11月02日

2007年11月2日 (金)

08:50 (日) 10月マネタリーベース 
15:45 (スイス) 10月消費者物価指数 
20:00 (加) 10月失業率
20:00 (加) 10月雇用ネット変化
21:30 (米) 10月失業率
21:30 (米) 10月非農業部門雇用者数
23:00 (米) 9月製造業受注指数

2007年11月05日

2007年11月5日 (月)

08:50 (日) 日銀金融政策決定会合議事要旨(9月18・19日分)
18:30 (英) 9月鉱工業生産
18:30 (英) 9月製造業生産高
24:00 (米) 10月ISM非製造業景況指数

2007年11月06日

2007年11月6日 (火)

14:00 (日) 9月景気動向調査・速報
19:00 (ユーロ圏) 9月生産者物価指数
19:00 (ユーロ圏) 9月小売売上高
20:00 (独) 9月製造業受注
22:30 (加) 9月住宅建設許可
24:00 (加) 10月Ivey購買部協会指数

2007年11月07日

2007年11月7日 (水)

07:30 (豪) RBAキャッシュターゲット
09:30 (豪) 第3四半期住宅価格指数
20:00 (独) 9月鉱工業生産
22:30 (米) 第3四半期非農業部門労働生産性
22:30 (米) 第3四半期単位労働費用
24:00 (米) 9月卸売在庫
29:00 (米) 9月消費者信用残高

2007年11月08日

2007年11月8日 (木)

06:45 (NZ) 第3四半期失業率
08:50 (日) 11/3までの対外及び対内証券売買契約等の状況
08:50 (日) 9月機械受注
08:50 (日) 10月マネーサプライM2+CD
09:30 (豪) 10月新規雇用者数
09:30 (豪) 10月失業率
15:45 (スイス) 10月失業率
16:00 (日) 10月景気ウォッチャ調査
16:00 (独) 9月貿易収支
16:00 (独) 9月経常収支
16:45 (仏) 9月財政収支
21:00 (英) BOE政策金利発表
21:45 (ユーロ圏) 欧州中銀金融政策発表
22:15 (加) 10月住宅着工件数
22:30 (米) 11/4までの週の新規失業保険申請件数
22:30 (加) 9月新築住宅価格指数
24:30 (英) 9月景気動向調査

2 江戸幕府の支配統制 長期支配体制の確立

「関ヶ原の合戦」に勝利して天下の覇者となった徳川家康は、1603年に征夷大将軍となり、長期支配体制の確立をめざした。徳川家康は中央政権を握ると、朝廷や公家への圧力、大名統制、身分制度の徹底、多様な人材の登用、江戸の整備など次々に大きな改革を手がけていった。家康・秀忠・家光三代のほぼ50年間に、徳川家が全国支配の体制を固めあげ、いわゆる徳川三百年の太平の基盤を築いていったのである。


徳川幕府は、大名・徳川家を対象とした武家諸法度、天皇家や公家の行動を制約する禁中並公家諸法度、仏教教団や僧侶を統制する諸宗寺院法度と、相次いで基本的法度を発布し、政策を実施した。これらの原案はすべて徳川家康が考えたもので、家康は合戦における知将としてのみならず、政治家としても卓越した頭脳を発揮したのである。諸大名、朝廷と公家、寺院と僧侶を江戸幕府の支配下に置いて思うままにコントロールする。これは徳川家康が登場するまで、どの戦国大名も成し得なかった偉業である。


注目すべき点は、徳川幕府が軍事力でそれを達成したのではないことだ。幕府の直轄軍は3万以下だったとされている。関ヶ原の戦いで家康が率いる東軍に参加したのは約10万。東軍に参加した諸大名が率いる軍隊のほうが徳川直轄軍よりも多かったということだ。幕府が成立した後も、幕府の軍事力はとてもコンパクトであったようだ。


江戸時代の大名には、譜代大名と外様大名の分類があった。譜代大名は、豊臣政権のもとで家康が関東地方に移封された際に主要な武将に領地を与え、大名格を与えて徳川家を支えさせたことに由来する。関ヶ原の合戦以前から徳川氏に従い、取り立てられた大名である。外様大名は、関ヶ原の合戦直前、あるいは以降に支配体制に組み込まれた大名である。統制しなければならないのは、もちろん外様大名である。


関ヶ原の合戦を終えた家康は、西軍の諸大名の所領の処分を徹底的に行った。宇喜多秀家の所領、備前岡山57万石が没収されたように、西軍に属した大名は、家をつぶされたり、領地を没収されたりした。家康は没収した土地を再分配した。まず、自己の直轄領を増し、戦功のあった大名に加増し、領地を大幅に移動した。井伊氏や本多氏ら徳川譜代の家臣は、これを機に独立の大名として扱われるようになった。


コンパクトな軍隊しか持たない徳川幕府が、全国支配体制を確立するためには、加賀藩の前田家、薩摩藩の島津家、長州藩の毛利家、土佐藩の山内家、米沢藩の上杉家、肥後藩の細川家、仙台藩の伊達家など、石高の大きな外様大名をいかに支配するかが重要である。そこで大名統制のために「武家諸法度」を発令したのである。大名を縛る法律である。


2代将軍・徳川秀忠の名で出された最初の武家諸法度には、1.大名は領地と江戸に交互に勤めること 2.新しい城づくりは禁止 3.謀反を企てることの禁止 4.大名は幕府の許可なく勝手に結婚してはいけない 5.勝手に関所を設けてはいけない 6.500石積み以上の船を所有してはいけない-などが記されていた。参勤交代を発布したのは、3代将軍・家光である。


徳川幕府は、大名に領地を与え、各領地での独立採算の権利と領地の管理職を与えた一方で、巧みな法律によって支配したのである。大きな軍隊を持たない江戸幕府が「小さな政府」として機能したひとつの理由は、外様大名を上手にコントロールする制度をつくったからである。大名は藩の知事であり、社長でもあるが、すべてが徳川グループに所属するということである。外様大名は、かつては独立した企業のオーナーであったが、「関ヶ原の合戦」を契機に徳川グループに吸収され、そのグループ規定に従わざるを得なくなったということである。そしてその徳川グループは、当初は家康という突出した創業オーナーのマンパワーによるところが大きかったが、やがて個人から組織へと変貌を遂げるのである。


By Master K/益田 慶

FXライフ 11 ユーロの歴史と欧州の通貨 ユーロ参加基準

1994年1月、経済通貨統合(EMU)が第2段階に入り、欧州通貨機構(EMI)が設立された。1995年12月に、1999年1月1日にユーロを導入することを決定。同年、ベルギー、フランス、ドイツ、ルクセンブルク、オランダ、ポルトガル、スペインとの間で、ヨーロッパ各国において共通の出入国管理政策及び国境システムを可能にする取り決めである「シェンゲン協定」が発効。オーストリア、デンマーク、フィンランド、スウェーデン、EU非加盟国のノルウェーとアイスランドがこれに加わり、EUの創設は現実性を帯びてくる。


ユーロ参加に当たっての基準は以下のものである。
●インフレ率:過去1年間で最も安定した3ヶ国より、1.5%上回っていないこと。
●長期金利;過去1年間で最も安定した3ヶ国より 2.0% 以上上回っていないこと。
●財政:単年度財政赤字GDP比 3.0%以内 政府債務残高GDP比 6.0%以内
●為替:過去2年間、為替相場メカニズムの通常変動幅の中で取引され、切り下げが行われていないこと。


1998年5月、欧州連合理事会は11ヵ国でのユーロ切り替えを決め、詳細と交換レートを設定した。同年6月、欧州中央銀行(ECB)が発足、12月に欧州連合理事会の会合が開かれ、12月31日における確定交換レートを設定した。1999年1月から、欧州連合(EU)15ヵ国のうち、 12ヵ国でEU統一通貨ユーロが導入された。12ヵ国のうち、ギリシャを除く11ヵ国は、ユーロが導入された1999年1月時点で基準を満たしていた。また、参加希望が強かったギリシャも基準を達成し、2000年6月に 2001年からの参加が承認された。このようにユーロの導入自体は予定通りに実施されたが、正式な通貨となるのにさらに数年の時間がかかった。


ちなみに、イギリスが当時ユーロ導入を拒否した理由はいくつかある。当時のサッチャー首相は「通貨統合は国家主権を侵害する」としてユーロに絶対反対の立場を示した。近年では、製造業を中心に産業界から早期参加を求める意見が強いが、国民はポンドへの愛着が強い。


欧州中央銀行制度(ユーロシステム)について述べておこう。これは欧州中央銀行(ECB)とEU加盟国の中央銀行によって構成される。総裁や副総裁、理事(4人)から成る理事会、これに各国の中央銀行総裁を加えた政策委員会、理事を除いた一般委員会があり、ユーロ参加国全体の金融政策の決定、実行、ユーロ不参加国との政策協調を担っている。


イギリス同様、ユーロ導入に対して世論の反対が大きい国がある。デンマークだ。通貨は、デンマーク・クローネ (DK、DNK)。2000年9月に行われたユーロ参加の是非を問う国民投票で、反対が 53.1%と賛成 46.9%を上回って否決された。ユーロの流通後、国民のユーロ参加への姿勢は総じて前向きに変化してきたが、2003年9月のスウェーデンにおける国民投票でのユーロ参加否決や、ドイツ・フランスによる安定成長協定の不遵守、さらにはドイツ・フランス主導で進む欧州統合そのものに不信感があるとされている。次回国民投票実施時期は未定だ。


但し、ユーロ導入の準備段階である欧州為替相場メカニズム(ERMⅡ)参加国として、自国通貨の対ユーロの変動幅を中心交換レートから上下2.25%内の変動に維持する政策をとっており、事実上、ユーロとの固定相場制を保持している。見方を変えれば、ユーロを導入しようとする国は、自国通貨とユーロとの為替相場を一定の許容変動幅で連動させなければならないのである。


ジェトロの調べでは、2007年のデンマーク経済は、金利上昇と世界経済の成長鈍化に伴い、内外需ともに減速することから2.2%の成長率を予想しているという。しかしデンマークは環境先進国として食料とエネルギーの国内自給をめざし、国民生活にやさしい環境・エネルギー政策を推進している点は見逃せない。風力発電、バイオガス、廃棄物エネルギーなどの自然エネルギー活用については注目したい。


By Master K/益田 慶

ヨーロッパの財閥と企業グループ 16 ロスチャイルド家の興亡 ロンドン分家

第二次世界大戦後、ロスチャイルド家はパリとロンドンの二つの分家だけになっていました。王政廃止やナチス・ドイツの侵攻と消滅、社会主義国の建設などヨーロッパは大きな変動を迎え、ロスチャイルドだけでなく、欧州の財閥のほとんどは権力の交代や価値観の変化に対応できず没落していったのです。反対に影響力を拡大していたったのがアメリカでした。国力だけでなく、経済力もしかりです。アメリカの財閥が世界に台頭する時代がやってきます。


戦後に残ったのがロンドンとフランスの分家であったのは、戦勝国であったことも影響しているでしょう。見方を変えれば、初代マイヤーの息子たちがヨーロッパの五大都市に散ばったことが、結果として一族の血統と富の保全につながったのです。これを“リスクヘッジ”あるいは“分散型投資”と呼ぶには、やや無理がありますが、ファミリーの分散は有意義な選択であったといえるでしょう。


それでは、第二次世界大戦後のロスチャイルド財閥の活動に目を向けていきましょう。今回はロンドン分家にスポットを当てます。


ロンドンにある「ロスチャイルド親子銀行」は戦時中から組織の転換を模索していました。パリの「ロスチャイルド兄弟銀行」も同様ですが、ロスチャイルド家が経営する金融業は、内外の公債発行や売買、投機を行なうボーダレスな銀行でした。一般の預貯金を扱う銀行とは業態が異なっていたのです。また、その経営は伝統的にロスチャイルド家の男性がパートナーとして選ばれる、家族経営の形態だったのです。こういう形態の会社は、パートナーが亡くなったときの税金が高額になるのがデメリットです。税制が厳しくなると、家族経営の銀行は大きな痛手を受けるのです。


ロスチャイルド家は戦後、組織の近代化を図り、持ち株会社を設立し、銀行もその子会社として法人化しました。こうしてロスチャイルド財閥の新たなスタートが切られます。しかし、かつて世界に君臨したイギリスは戦後、経済的な衰退に向かいます。それには植民地支配を続けてきたインドの独立、スエズ運河のエジプト国有化などが大きく影響しています。さらにアメリカの有力銀行がイギリスに進出してきたのです。


ロスチャイルドはもともと国家に依存しないボーダレスな財閥です。と同時にビジネスに利用できるのであれば、政府を大いに利用します。また、ロスチャイルド親子銀行のパートナーは代々、イングランド銀行の理事を兼任するなど、政府の金融政策に深くかかわってきました。政府との太いパイプから生まれたのが、カナダのニューファウンドランド開発でした。この事業がロスチャイルド財閥の復活のきっかけとなります。


1952年、当時のイギリス首相チャーチルは資源開発の要請のあったカナダ・ニューファウンドランド自治州の首相にロスチャイルド親子銀行の頭取を紹介しました。これが縁で開発会社ブリティッシュ・ニューファウンドランドを設立。同社にはロスチャイルド親子銀行やロスチャイルド財閥グループの非鉄金属会社リオ・ティントなどが出資しました。同社は発電用ダムの開発、ウラニウムなどの地下資源開発、木材資源の利用など大規模開発を総合的に進めます。


ロスチャイルド家は、傘下の企業群の経営に財政面からかかわり続けます。これらが現在、ロスチャイルド財閥グループと呼ばれる系列会社です。たとえば化学分野ではイギリス最大の多国籍企業に成長した化学薬品メーカーICI(インペリアルケミカル)、石油化学分野ではロイヤル・ダッチ・シェル、前世紀から同家が深くかかわってきたダイヤモンド産業のデ・ビアス、兵器産業のヴィッカース、保険会社サン・アライアンス、紅茶のリプトンなどです。


ロンドン・ロスチャイルド家はさらに新たな事業を展開します。青年時代に二ューヨークのモルガン・スタンレー銀行で金融実務を学んだジェイコブ・ロスチャイルドが1963年、ロスチャイルド親子銀行に入行、新たな事業に進出していきます。


By Master K/益田 慶

小栗上野介が駆け抜けた時代 16 小栗上野介の事業と政策 横須賀製鉄所

今週から数週に分けて小栗上野介が行ったすべての事業、政策を紹介します。
遣米使節の監査役として渡米し、「史上最初の為替レート交渉」を成功させた上野介。帰国後、彼が外国奉行、勘定奉行などのポジションで活躍したのはわずか7年間でした。現在なら外務大臣と経済産業大臣といったところでしょうか。


 上野介はその7年間に新たな政策を打ち出し、多くの事業を推し進めました。そのうちのひとつが横須賀製鉄所の創設です。日本が1956年にイギリスを抜いて世界一の造船国(現在は韓国に次いで第2位)になったのは、上野介の英断があったからでしょう。


 上野介が製鉄所建設を推し進めた理由は、合衆国の工業化を視察してショックを受けたこと、ロシア軍艦の侵犯なので屈辱感を味わっていたことなどが挙げられるでしょう。小栗は日本の造船工業の幼稚さに落胆し、勝海舟が提案する軍艦購入ではなく、自力建設の路線を選びます。つまり、先進国からの技術導入を訴えたのです。それでは、上野介はどの国から技術を学ぼうとしたのでしょうか。


 江戸時代末期、世界最強の海軍を持っていたのはイギリスでした。薩長と戦ったイギリスの戦力を幕府は恐れていました。もちろんイギリスが行った、隣国である清国への武力による侵略行為は幕府の耳にも届いていました。イギリスと組むのは危険だと上野介は察したようです。


アメリカは遣米使節の派遣以来、友好国でしたが、当時のアメリカは南北戦争の真っ最中。断念せざるを得ませんでした。ロシアはイギリスと争うように露骨にアジア侵略戦略を進めていたので最も警戒すべき国でした。歴史的にも日本と親しかったオランダには一時期の勢いはなく、幕府が長崎在住のオランダ人技師に打診したところ、やんわりと断られたようです。


 残るのはフランスでした。手始めに幕府は所有艦の修理をフランス人技師に委託します。技術水準が高く、価格も安く、誠実な対応に幕府は好感を抱きます。諸外国を比較検討した結果、上野介は技術提携先の国にフランスを選びます。


 一方フランス公使ロッシュは、当時三度目の勘定奉行に就任していた小栗に具体案を提案します。当時のフランスはヨーロッパ全土に蔓延した蚕病によって養蚕業が壊滅状態だったので、フランスの輸出品である絹織物が危機的状況を迎えていました。フランスは日本の上質の絹がどうしても必要だったのです。そこで公使ロッシュとしても勘定奉行と深い関係を築いておく必要があったのです。


 次の課題は工場立地です。横浜、横須賀、長崎製鉄所の拡大、長崎製鉄所の神戸移転案、江戸湾内石川島、駿河湾内戸田などいくつかの候補地と案が挙がります。実地測量の結果、横須賀が選ばれました。建設の正式決定は1864年でした。


 横須賀製鉄所は「製鉄所」という名称ですが、製鉄、造機、造船を含めた総合的な大工場です。小栗は横須賀に本格的な大工場をつくる前に、中規模の工場を横浜に建設します。この横浜製鉄所が今日の石川島播磨重工業の前身のひとつです。


 建設計画では、期間は4年、総工費240万ドル(現在の240億円以上)。アジア最大の大工場であり、世界でも最大級です。これが日本の近代造船業の夜明けでした。この計画が発表されると、内外から小栗に対する批判、妨害が繰り返されました。イギリス公使パークスが上野介の計画を非難すると、薩長からも反対の声があがります。江戸城内でも上野介の政策を批判する声は鳴りやみませんでした。
 1965年、横須賀製鉄所の鍬入れ式が行われます。しかし完成を待たずに幕府は倒れ、明治政府が誕生。上野介は殺害され、事業は明治新政府が引き継ぎます。

横須賀製鉄所の経営に近代的なマネジメントの手法を導入したのも上野介でした。次週はこのマネジメントに着目してみましょう。

By Master K/益田 慶

2007年11月09日

2007年11月9日 (金)

13:30 (日) 9月鉱工業生産・確報
13:30 (日) 9月設備稼働率・確報
16:45 (仏) 9月鉱工業生産
16:45 (仏) 9月製造業生産指数
16:45 (仏) 9月貿易収支
18:30 (英) 9月商品貿易収支
22:30 (米) 9月貿易収支
22:30 (米) 10月輸入物価指数
22:30 (加) 9月国際商品貿易
24:00 (米) 11月ミシガン大消費者信頼感指数・速報値

2007年11月10日

小栗上野介が駆け抜けた時代 17 小栗上野介の事業と政策 近代的マネジメント導入

徳川幕府の大いなる遺産、横須賀製鉄所の経営に近代的なマネジメントの手法を導入した上野介。彼を「日本における近代マネジメントシステム導入の父」と呼ぶ経営学者もいるほどです。今週は上野介が横須賀製鉄所の経営にあたって実施したマネジメントに着目してみましょう。


上野介は、組織、職務分掌、雇用規則、残業手当、社内教育、簿記、流通機構の整備などの近代的マネジメントを取り入れました。これはアメリカで実地に見聞した経験に基づいたものをベースに造船所建設の協力国であるフランスのアドバイスもあり、実現できたものでしょう。


下記に上野介が横須賀製鉄所の運営のために導入、採用した経営手法を具体的に紹介します。
(1) ライン部門のほかにスタッフ部門を設け、「部長」「課長」などの名称を採用し、近代的な経営組織の原型となる命令系統を明確化。
(2) 江戸幕府の伝統的組織形態の「交替制」を一部廃止し、責任と権限の明確な区別を促す「専任制」の実現。
(3) 採用と作業のためのシステムを確立し、これを明文化、共通化し、徹底した。雇用システムでは、作業時間、休日制、昇進・昇給制度、臨時工制度を導入し確立。またユニフォームを制定した。
(4) 給与、賃金の制度を仕事の内容に応じて決定する「実力主義」「能力主義」を導入。具体的には奨励給システムを導入し、能力のある者は監督者、管理者に抜擢。
(5) 複式簿記による近代的な会計システムの採用。
(6) 売上げを原価と利潤に分解し、利益の意味を明確にした。
(7) 企業教育、経営教育の必要性を説き、そのための学校を設立した。日本最初の企業内教育を実践する工業高等教育機関「横須賀製鉄所学舎」の開設。同校では、技師生徒にはエンジニアリング、頭目生徒には図学などを教え、農村の青少年から「職工生徒」を募集、入学させた。
(8) 流通と価格政策の整備。石炭の流通機構が一部の組織に独占されていたため改善を提案。「石炭会所」を設立し、採掘地、船積地間の輸送費、船積み荷役料、海上運送費、石炭会所事務所費の合計5~10%の利益を加算して、合理的に価格を決定すべきと主張。


以上はおそらく“日本初”の経営マネジメントと呼んでもさしつかえないでしょう。
注目すべき点はいくつもあります。たとえば「原価(コスト)」という概念はそれまでの日本の経営にはなかったものです。イギリスの先駆的な製鉄、造船工場で原価計算が始まったのが1870年代とされているので、1860年代末に売上げを原価と利潤に分解し、利益の意味を明確にしたことは画期的な仕事といえるでしょう。


さらに興味深いのは、上野介が流通の再構築、価格政策の実施を促す際に、原価に利潤を加算する方法を提案していることです。のちに世界の商法の原則となる、原価に利潤を加算する「コスト・プラス・コントラクト」(原価加算契約)の導入は、極めて現代的な方法といえるでしょう。


斬新なのは能力主義、実力主義の採用です。横須賀製鉄所の雇用システムを見ると、日本的経営を紹介する際に用いられる「日本企業は歴史的に年功序列、終身雇用を特質としてきた」というキャッチフレーズが正しくないことがわかります。上野介自身がそうであったように、何度も職を解かれながらも実力で職位を奪い返していく、幕末から明治の日本人像は、戦後のサラリーマン像とは大きく異なります。社会制度や価値観が大きく変わった当時は、実力主義、能力主義が重んじられた時代であったようです。


横須賀製鉄所の運営を見る限り、労働稼働率はすこぶる高かったことでしょう。個人事業者がプロジェクトごとに参画する時代であったからこそ、奨励給システムや企業内教育制度が熟練工を確保するために必要な制度であったことがわかります。横須賀に出現した日本資本主義の最初の近代工場は、上野介の手腕によって新たな試みがなされた実践の場であったようです。


By Master K/益田 慶

2007年11月11日

ヨーロッパの財閥と企業グループ 17 ロスチャイルド家の興亡 ジェイコブ・ロスチャイルド

ロンドン・ロスチャイルド家のジェイコブ・ロスチャイルドは、1980年以後のファイブ・アローズ証券会長職、J・ロスチャイルド・ホールディングス社長、RITキャピタル・パートナーズ会長として辣腕をふるい、ジョージ・ソロスらの金価格操作やヨーロッパ各国の企業買収、CIAレポートなどに暗躍した人物として知られています。


ジェイコブは、まず子会社としてロスチャイルド投資信託銀行を設立します。これは外部から資金を導入することによってロスチャイルド親子銀行を強大にし、イギリス内外の一般銀行に負けないようにするための方策でした。ロスチャイルド財閥は、企業のM&Aを積極的に行うようになり、業績も上昇します。ジェイコブはロスチャイルド家の本流であるロスチャイルド親子銀行を飛び出し、子会社であったロスチャイルド投資信託(RIT)を1980年に独立させるやいなや、大胆な投資活動に乗り出します。


美術品オークション会社サザビーへの投資、投資信託銀行ノーザンの株の取得など吸収合併を繰り返し、事業規模を拡大していきます。1983年にはアメリカ・ウォール街に進出して二ューヨーク・マーチャント銀行の株50%を取得、同年末にはチャーターハウス銀行グループと合併して、チャーターハウス・J・ロスチャイルド銀行を設立します。ロスチャイルド投資信託(RIT)は、ロスチャイルド親子銀行から独立した4年間で資本金を4倍にします。


ジェイコブの真価は、それまでに買収した企業の株を数年間のうちに切り売り、一時期だけ事業規模を縮小したことにあります。買収した時より高価で売れ、ジェイコブは1990年から始まるヨーロッパの不景気を見越していたかのように売り抜けに成功します。ヨーロッパ、特にイギリスは冷静の終焉と時を同じくして不況に陥ったのです。


反対に株の販売でゆとりのある資金を得たジェイコブは、90年代に入ると、投資管理会社RITキャピタル・パートナーズ、ベンチャー投資会社セント・ジェイムズ・プレイス・キャピタルズを設立。また、ウォール街の投資銀行との合併で設立した子会社J・ロスチャイルド・ウォルフェンソン投資会社でマーケットを拡大し、ソ連の崩壊によって自由市場が誕生するのを見届けると、1992年にロシア・アメリカ投資銀行の設立にこぎつけます。ジェイコブの躍進はまだまだ続きます。1994年には、ロスチャイルド・アセット・マネジメント投資会社を設立。これは世界中のバイオ関連会社の中から将来有望な会社を探し出し、先行投資するものです。


ジェイコブは世界を視野に入れて巨額の資本を動かす投機家として活躍します。第二次世界大戦後、ロスチャイルド財閥が加速度的に国際金融業界に君臨するようになった背景には、ジェイコブの辣腕が活かされたことは確かです。


ロンドン・ロスチャイルド家とともに、戦後生き残ったもうひとつのロスチャイルド家、パリ家の復興にも目を向けてみましょう。当時の当主ギー・ロスチャイルドは、ナチスに抵抗してパリを逃れていました。戦時中はド・ゴール(当時フランス軍将軍)の密使を務めたともいわれています。パリのロスチャイルド兄弟銀行は、ナチスに協力したヴィシー政権によって没収されていた証券類を取り戻し、事業を再開します。パリ分家の企業群は、その富の源泉となっていた電力やガスなどを国有化され、大きな痛手を受けていました。


一族が保有するロイヤル・ダッチ・シェルは1947年に増資を行い、ロンドン分家と半々で出資している金属鉱山会社リオ・ティントも再興します。ギーは1949年に父の死後、パリ・ロスチャイルド兄弟銀行の資本金の半分を握って頭取就任。パリの主要事業のひとつであった鉄道部門は1937年に国有化されていましたが、傘下の企業は一族の所有のまま残っており、増資を行って挽回していきます。


By Master K/益田 慶

小栗上野介が駆け抜けた時代 18 小栗上野介の事業と政策 日本初の株式会社兵庫商社

 上野介が成し得た偉業として忘れてはいけないのが、「日本初の株式会社」あるいは「株式会社の原型」と呼ばれる「兵庫商社」の設立です。1867年(慶応3年)4月、勘定奉行の小栗上野介は幕府に対し、兵庫開港に際して「コンペニー」設立の必要性を提案します。財政、通商、産業政策面での上野介の能力を幕閣がすでに認めていたために、上野介の提案は承認されました。


 兵庫商社設立に至るまでには伏線があります。上野介が横須賀製鉄所の建設に没頭している間に政治情勢は一変していきます。“富国強兵”に資金を投下すべきだと考えていた上野介の考えに反して第二次長州征伐が発令されます。そして元号は元治から慶応へと変わります。


 そこへ思いがけない事件が発生します。慶応元年、英米仏蘭4ヵ国の軍艦9隻が突如、大坂湾に進入、兵庫開港を要求してきたのです。1860年に結ばれた「修好通商条約」で決められた開港期限はその後、ロンドン条約(1862年)によって延期が承認されていました。しかし、尊皇攘夷の動きに便乗し、幕府にゆさぶりをかけてきたのです。英米仏蘭4ヵ国の軍艦の大坂湾への進入を仕掛けたのは、イギリス公使パークスでしたが、その背後には西郷隆盛がいました。


 最終的には天皇の決断で「修好通商条約」勅許が決定し、兵庫開港はまた延期されました。上野介は早いうちに開港の日が来ると考え、「兵庫商社」の構想を思い立ったのです。ここには横浜開港の大きな教訓が活かされます。


 1859年に開港した横浜では、生糸や茶、海産物など輸出額が増えていたにもかからわらず、その利潤は外国商館に独占されていました。商業取引に必要な知識や手続き、さらに語学力の不足などによって外国商館に取引利益を奪われていたのです。加えて関税自主権がないことも商業取引において非常な不利益が日本側に与えられていました。資本力がなく、貿易の経験のない日本人商人は外国人商人に手玉に取られていたわけです。上野介はこの事態に日本経済の危機を感じ取っていたのです。


 そこで上野介が建議書として幕府に提出したの日本人による「貿易商社」の設立だったのです。建議書の概要は「横浜や長崎のような開港の仕方では、開港ごとに莫大な損出を招く。また西洋各国だけが利益を得るのは開港の意図に反する。それは商人らの組合の法を設けず、商人が自分の利益だけを追求しているからである」という分析から始まります。そして「そういう現状だからこそ、ひとつは貿易の発達のために、もうひとつは財政の利益を確保するために、大坂の商人たちで貿易商社を組織し、大資本をもって外国人商人と競争することが望ましい」と展開します。


 上野介のロジカルな思考が垣間見える建議書です。続いて上野介は具体的な運営方法と利益構造を示します。


「組織に加わる商人たちから百万両の出資をしてもらう。幕府はその商社に3年を期限として、百両の金札(金貨と交換できる紙幣)発行権を許可し、幕府はそれを兵庫開港の資金に充てる。3年後には兵庫開港によって生じる税金が百万両に達するであろうから、これを元手に幕府は商社へ新たに百万両の紙幣を発行する。幕府は商社の売上から税金を徴収し、その資金で軍備を整え、ガス灯や郵便局を建設し、鉄道も敷いていきたい」


 商社の売上が増えれば、公共事業を展開するために必要な資金も調達できるという上野介の経済学は、資本主義の構造を見事に表わしています。のちにケインズは「政府が公共事業を主導することで一般企業の仕事が増え、失業率も低下する」と唱えますが、上野介は「一般企業が利益をあげることで、国が公共事業に充てる資金も生まれる。だから会社が必要」と考えたのです。今日でいうところの「小さな政府」を標榜していたのかもしれません。次週は上野介が「兵庫商社」設立のために推進した計画を具体的に紹介します。

By Master K/益田 慶

小栗上野介が駆け抜けた時代 19 小栗上野介の事業と政策 コンパニー

「日本初の株式会社」あるいは「株式会社の原型」と呼ばれる「兵庫商社」の設立にあたり、上野介が提示したのが「コンペニー」(カンパニー)という言葉です。日本史上初めて公式文書に「コンペニー」という外来語が登場したのです。当時「コンパニー」という単語は、「株式会社」を指すのではなく「貿易と金融を行う会社」を指していたようです。


同じ時代に坂本龍馬が結成した「海援隊」は慶応1867年3年4月の設立。同年末に設立された兵庫商社より早かったため、正確には海援隊が「日本最初のカンパニー(貿易と金融を行う組織)」で、兵庫商社が「日本最初の株式会社(複数の民間人からの出資を受け資金運用をする組織)」ということになるのかもれしれません。


1867年(慶応3)年5月、江戸幕府は兵庫開港の勅許を得、同年12月に開港が実現します。しかし実際の貿易港となったのは「兵庫津」=兵庫の港ではなく、その東側の神戸村の海岸でした。幕府は勅許を得る以前から開港準備として居留地の造成を進めていましたが、その当時からすでに居留地は神戸に設けられることが決定していたようです。


 さて、幕府は上野介の計画にもとづき、1867年(慶応3年)6月、関西の代表的な商人20名を京都に集合させました。彼らは出資者であると同時に役員となりました。頭取には「鴻池(こうのいけ)屋」の山中善右衛門、「加島屋」の広岡久右衛門、長田作兵衛が就任します。今日でいうところの、会長、社長といった肩書きでしょう。


もともと酒造業と海運業で財を成した鴻池家は、江戸時代には「両替商」に進出し、金銭売買、貸付、手形振出、預金などを取扱い、今日の銀行のような役割を果たしていました。加島屋も両替商として君臨した豪商です。のちに三井家や住友家も役員に加わります。


兵庫商社は、20人の大富豪だけに貿易利益を独占させないようにするために、「武士、町人、百姓の差別なく出資できる」とされ、最終的には100人規模の出資者が集まりました。まさに株式会社の原型がここにあります。


商社の事務所は大坂・中之島におかれ、「商社会所」と呼ばれました。慶応4年の兵庫開港後、当面の業務は、開港準備金の調達と出資金に見合った金札の発行でした。開港準備金として集まったのが1万両強、金札発行も発行計画百万両に対して、実際は1万両のみと運用が軌道に乗らないうちに、大政奉還、幕府崩壊となってしまったため事業が中止。残念ながら幕府が消滅したことにより兵庫商社の運営は約半年間のみとなりましたが、兵庫商社設立には大きな意義がありました。一部の歴史家は兵庫商社を「貿易利潤の幕府による独占の機関」として非難しましたが、「貿易や生産を幕府が支配するのか、外国商館が主導権を握るのか」という二元論しか持たなかった日本に、株式会社が自由に貿易を運営する方法を導いたのは上野介なのではないでしょうか。

 
余談ですが、兵庫商社設立の同じ年、土佐藩が欧米の商人たちから船舶や武器弾薬の類を輸入する窓口にしていた長崎土佐商会の主任に土佐出身の岩崎弥太郎が就任しています。岩崎は同郷の坂本龍馬が設立した海援隊の経理を担当していた縁で職を得、艦船や武器弾薬の英国人ブローカーであるグラバーとも懇意になります。グラバー商会はロイズ保険、香港上海銀行などの代理店も営んでいました。いずれもロスチャイルド財閥グループです。三菱グループは当初ロスチャイルド財閥と組んでいたことがわかります。その6年後、岩崎弥太郎は九十九商会(後の三菱商会)を設立します。


現在連載中の『ヨーロッパの財閥と企業グループ』(毎週月曜配信)の内容とも深くリンクする部分なので、注目してください。「西南の役」をきっかけに岩崎弥太郎はロックフェラー家と接近、反対に三井財閥は大番頭の渋沢栄一がロスチャイルド財閥と親密になっていきます。以降、ロスチャイルド財閥の系列となる三井グループ、ロックフェラー財閥の系列となる三菱グループという図式ができあがっていくのです。


By Master K/益田 慶

2007年11月12日

2007年11月12日(月)

トロント休場(リメンブランスデーの振替え)
米国休場(ベテランズデーの振替え)

日銀金融政策決定会合(~13日)

08:50 (日) 10月企業物価指数
08:50 (日) 9月経常収支
08:50 (日) 9月貿易収支
14:00 (日) 10月消費者態度指数
18:30 (英) 10月生産者物価指数

2007年11月13日

ヨーロッパの財閥と企業グループ 18 ロスチャイルド家の興亡 パリ・ロスチャイルド家

ロスチャイルド財閥の歴史は、やっと現代に入ります。国有化によって不採算部門を整理したパリ・ロスチャイルド家は1984年、銀行業を再開します。まず、一族の持ち株会社パリ・オルレアンを基盤にPO銀行を設立します。パリ・オルレアンはパリ・ロスチャイルド家が「鉄道王」と呼ばれた時代の遺産です。1857年、フランス政府は6大私鉄による一地域一会社の経営体制を確立しました。6大私鉄とは、パリを中心に放射線状に六つの方向に路線を伸ばす鉄道会社のことです。


(1) 西部西鉄道(パリ-シェルブール・ナントおよび大西洋諸港) 
(2) パリ・オルレアン鉄道(パリ-オルレアン) 
(3) 北部鉄道(パリ-リールおよび英仏海峡諸港とベルギー国境) 
(4) 東部鉄道(パリ-アルザス・ロレーヌおよびドイツ国境) 
(5) パリ・リヨン・地中海(PLM)鉄道(パリ-リヨン-地中海およびスイス・イタリア国境) 
(6)南部鉄道(パリ-ボルドー・ツールーズおよびスペイン国境)
以上の6社でした。やがて国有化される私鉄のうち、(2)と(3)をロスチャイルド家が経営していたのです。


1986年の総選挙で保守連合が社会党を破ってシラク保守内閣が誕生した際に、伝統あるロスチャイルドの名前が復活し、PO銀行はロスチャイルド会社銀行となります。頭取は第二次世界大戦を生き抜いたパリ家の当主ギーの息子ダヴィッドです。彼は現在、ロスチャイルド財閥の長として君臨しています。
パリ・ロスチャイルド家はアメリカに本格的に進出していきます。ロンドン・ロスチャイルド父子銀行の出先会社として経営していたニューコート証券に代えて、ロンドン、パリ両家の出資によってロスチャイルド北米会社を設立します。


長い歴史を築いてきたロスチャイルド家には、この時代に変わり者も登場します。かつてロスチャイルド兄弟銀行の共同経営者として参画していたパリ家のモーリスです。彼は独断でロスチャイルド家の名前を使って金を集め、不動産会社に投資したことが発覚し、従兄弟たちから非難され、共同経営から退きました。以降、スイスのジュネーブを拠点に数多くの事業に投資し成功。また跡継ぎのいない伯父や叔母からの莫大な遺産もあって財を築いていきます。


第二次世界大戦中はナチス・ドイツの手を逃れて海外へ避難。アメリカに亡命中、戦争に乗じて価格高騰が見込まれる金属や鉱山株に大胆な相場を張って莫大な資産を築いたといわれています。投資や相場に働く動物的な勘は、一族の血が成せる技でしょうか。モーリスの死後、スイスの不動産や南アフリカ、カナダの鉱山株などの遺産は一人息子のエドモン・ルドルフに贈られました。


このエドモンが成功させたのが、滞在型リゾート産業の「地中海クラブ」です。彼は誕生して間もない地中海クラブの株35%を購入。するとバカンスの長期化の時代が到来し、爆発的な人気を呼びました。
エドモンドはワイン産業にも参入します。そして1968年、スイスに銀行を設立したのを皮切りに金融業界にも参入します。1984年にはイギリス政府から営業許可を取得し、ロンドンに証券会社を設立、さらにイタリアのいくつかの銀行株を取得し、現在のロスチャイルド財閥の新たな金融ネットワークを形成していきます。

エドモンは1997年に他界し、その息子ベンジャマンはロスチャイルド家の数えきれぬ遺産を受け継ぎました。ナポレオン三世が愛人のために建てたパリのシャンゼリゼの大邸宅に住み、デビアス重役のほか、ロスチャイルド財閥の持ち株会社である北部会社、世界一の観光会社である地中海クラブ、イスラエル・ジェネラル銀行、フランスのスーパーなど数多くの大会社で重役を兼ね、フランスの長者番付の常連となります。ジュネーブのベンジャマン&エドモン・ロスチャイルド銀行会長のほか、チューリッヒのロスチャイルド銀行重役もつとめています。


By Master K/益田 慶

2007年11月13日(火)

日銀金融政策決定会合(12日~発表)     

08:50 (日) 第3四半期GDP・一次速報
15:00 (日) 11月金融経済月報・基本的見解
16:45 (仏) 10月消費者物価指数
18:30 (英) 10月消費者物価指数
18:30 (英) 10月小売物価指小売物価指数
19:00 (独) 11月ZEW景況感調査
19:00 (ユーロ圏) 11月ZEW景況感調査
19:00 (ユーロ圏) 9月鉱工業生産・季調済
28:00 (米) 10月月次財政収支
29:00 (米) 9月中古住宅販売保留

2007年11月14日

FXライフ 12 ユーロの歴史と欧州の通貨 ユーロ導入

1999年1月、EU加盟国のうち11カ国(ベルギー、ドイツ、スペイン、フランス、アイルランド、イタリア、ルクセンブルグ、オランダ、オーストリア、ポルトガル、フィンランド)でユーロ導入。一般流通の直前の段階に突入した。これに伴い、欧州中央銀行理事会が通貨統合への参加国通貨の対ユーロおよび相互の交換レートを永久的に固定。ユーロによる単一通貨政策を策定・実施し、ユーロでの外国為替オペレーションがスタート。ユーロ自体が通貨となり、それに伴って、ユーロ導入前に用いられていた公式の通貨バスケットが消滅。ユーロ導入の法的枠組みを設定する理事会規則が発効される。続いて加盟国は新規の国債をユーロ建てで発行。同時に欧州中央銀行制度が、固定交換レートにより平価で通貨交換を開始。欧州中央銀行制度と加盟国当局は、銀行および金融部門における切り替えを監視し、経済全体の切り替えに向けた準備を支援した。


2000年、欧州委員会はギリシャをユーロ圏に加えることを決定。2001年1月、ギリシャがユーロ導入開始。そしてようやく2002年1月1日、1,330億ユーロ相当のユーロ紙幣が流通し始めたのである。と同時に加盟国はユーロ硬貨の市中への流通を開始し、各国通貨の硬貨の回収を始めた。


ユーロは導入済みの全12カ国において通貨が発行され、2月28日には完全に単一の通貨となった。10年以上の準備期間を経て、欧州連合の加盟国中12カ国が2002年3月1日、自国の通貨を永久に放棄し、新しい単一通貨「ユーロ」を採用したのである。同年には2,420億ユーロ相当の紙幣が、2005年末には5,650億ユーロ相当のユーロ紙幣と160億6,400万ユーロ相当のユーロ硬貨が流通。この切り替えで影響を受けた人々の数は3億人以上。このような切り替え作業が、これほどの大規模で行われたのは史上初めてだ。


2004年5月に加盟した新規加盟国10カ国のうちエストニア、リトアニアおよびスロヴェニアがユーロ導入の準備段階である欧州為替相場メカニズム(ERMⅡ) に参加。欧州委員会は、2007年1月からスロヴェニアがユーロを導入することを提案し決定。こうしてスロヴェニアが13番目のユーロ参加国となる。
本年1月、スロヴェニアがユーロを導入し、現在、次の13カ国でユーロは導入されている。ベルギー、ドイツ、ギリシャ、スペイン、フランス、アイルランド、イタリア、ルクセンブルグ、オランダ、オーストリア、ポルトガル、フィンランド、スロヴェニア。EU各国の財務相は2007年7月、キプロスとマルタが2008年1月1日からユーロを導入するために必要な公式文書に合意。また現在、ラトビア、キプロスおよびマルタが欧州為替相場メカニズム(ERMⅡ)に加盟している。


EU加盟を申請中のトルコは、2005年1月1日より、従来のトルコ・リラ(TL)から、新トル・コリラ(YTL)に改定された。YTLとは、Yeni Turk Lirasiの略で、Yeniとは「新しい」という意味。今までの通貨から6桁消去され、端数としては新クルシュ(Ykr)という単位が用いられるようになった。100Ykr=1YTLである。実質的なデノミを実施したトルコの経済成長率は2005年度が7.4%、2006年度が6.1%と推移してきた。経済危機からV字回復した2002年以降の5年間の成長率は、これで年平均7%を超えた。2006年の成長を牽引したのは、前年比17.4%増となった民間投資である。大型ショッピングセンターの建設で外資も参入した。しかし今年上半期は、その反動か、民間消費が冷え込み、上半期全体では5.3%と、政府目標の5.0%(年間)を上回っているものの、市場では07年通年では目標にわずかに達しないとの予測が出ている。


貿易は慢性的な赤字だが、観光収入や海外からの多額の送金によって経営収支のバランスはとれている。石油や天然ガスのパイプラインの建設が完成し、EU加盟が決定すれば、トルコは大いに注目すべき国になるだろう。


By Master K/益田 慶

2007年11月14日(水)

06:45 (NZ) 第3四半期生産者物価
16:00 (独) 第3四半期GDP・速報
16:45 (仏) 第3四半期GDP・速報
16:45 (仏) 9月経常収支
18:00 (南ア) 9月実質小売売上高
18:30 (英) 10月失業保険申請件数
18:30 (英) 10月失業率
19:00 (ユーロ圏) 第3四半期GDP・速報
19:30 (英) BOE四半期インフレレポート
22:30 (加) 10月景気先行指数
22:30 (米) 10月生産者物価指数
22:30 (米) 10月小売売上高
24:00 (米) 9月企業在庫

小栗上野介が駆け抜けた時代 20 小栗上野介の事業と政策 経済政策

上野介は横須賀製鉄所の建設、兵庫商社の設立、ガス灯や鉄道建設構想のほかにも、日本の近代化のために多くの事業を興し、あるいは計画しました。今回は主に経済政策を紹介します。


 1865年(慶応元年)、上野介は「諸色会所」設置計画という建議書を幕府に提出しています。「諸色」とは現在でいうところの「物価」を表わす言葉。つまり、「諸色会所」とは物価調整のための商人の組織です。現在で最も近い団体を探すなら、商工会議所ということができるでしょう。


商工会議所制度の誕生は、明治維新後、日本の経済社会が資本主義制度に移行していく過程と一致しています。時代の要請に基づいたものといえるでしょう。明治政府は、長い鎖国政策により欧米諸国に立ち遅れた国力を増進強化すべく、富国強兵、殖産興業、文明開化を国策の中心に掲げており、特に外国貿易振興のための商工業者の機関を必要としていました。これは、まさに上野介が描いた兵庫商社の目的と同じです。


 一方で、「日本には商工業の世論を結集する代表機関がなく、世論を論拠とした明治政府の主張は虚構にすぎない」との反駁を諸外国から強く受けたことも発端となり、伊藤博文、大隈重信が渋沢栄一に商工業者の世論機関の設立を働きかけました。日本で最初の商工会議所となる東京商法会議所が設立されたのは明治11年。初代会頭は、渋沢栄一でした。

 
上野介はさかのぼる1861年(文久元年)に「国益会所」の設立という構想を幕閣に建議しています。これは外国との貿易で日本が損をしないようなしくみをつくる組織です。これがのちに「兵庫商社」へと発展します。


上野介には「国益会所」構想以外に「日仏組合法」というモチーフもありました。これは日本の商社「商業・航海大会社」を設立し、その代表をパリに駐在させ、フランスの商社「フランス輸出入会社」の代表が横浜に駐在し、相場に応じて物資の売買を行うという構想です。建議書には「商社の設立資金は、それぞれの国の商人から出資させる」という資金調達の方法まで記されていました。「国が貿易の青写真をつくるから、あとは民間で進めるべし」という方法は、まるで「民間でできることは民間に」という政策のようです。

これらは上野介の発想が、いかに時代を先取りしていたのかがわかる構想です。


上野介が掲げたもうひとつの大きなビジョンに、中央銀行設立の計画がありました。これは遣米使節としてアメリカを見聞した上野介らしい発想でした。モチーフはアメリカの「ナショナル・バンク」です。ご存知のように江戸幕府としての実現はなりませんでしたが、上野介の中央銀行構想は、1873年に三井組が主導して開業した、第一国立銀行という名で実現します。ただし、国立銀行といっても国営ではなく「国立銀行条例」に基づき設立された私立の銀行で、発行する銀行券は金貨との交換を義務づけられていました。


それにしても上野介の構想を引き継いだのが、上野介と親しかった三井家の三野村利左衛門であり、やがて三井家に入り込んでいく渋沢栄一であったことは何かの縁でしょうか。
三井が新政府に食い込んでいけたのは、資金のなかった新政府に三井が献金したことがきっかけになっています。当時の三井組の大番頭、三野村利左衛門はそれまで上野介とのコネクションを通じて幕府と深くつながってきました。明治政府の献金命令を受けても、鴻池家や加島屋などの豪商の多くは応じませんでしたが、すぐに調達を申し入れた三井組は優遇されました。上野介の助言があったのかもしれません。


1874年、三井組、小野組、島田組の“為替方三家”に対し、明治政府は官金取扱高の1/3の抵当差し出しを命じています。小野、島田は運用資金の回収に失敗し破産。生き残った三井組が、「御為替方」として新政府からの御用を務めることになったわけです。三井は井上馨や渋沢栄一に接近し、明治政府の資金を無利子で運用し、利益獲得に成功。のちに三井単独での銀行設立を目指すのです。幕末に上野介と深く関係した三井家が最初に銀行を設立したことには、何か明確なラインが見えるようです。


By Master K/益田 慶

2007年11月15日

ヨーロッパの財閥と企業グループ 19 ロスチャイルド家の興亡 フランクフルト・ロスチャイルド銀行

1989年、ほぼ90年ぶりにフランクフルト・ロスチャイルド銀行が開業します。そしてかつてのフランクフルトのロスチャイルド邸の敷地に隣接して、ユーロ圏の通貨・金融政策を担う中央銀行である欧州中央銀行(ECB)が建ったことは、あまり知られていませんが、特別なつながりがあるように感じるのは私だけでしょうか。

「国際金融資本の黒幕」とも呼ばれる一群のひとつに挙げられるロスチャイルド財閥は、1998年におけるヨーロッパ企業のM&Aの仲介実績で世界第5位にランクされ、その金額は677億ドルに達しました。しかし、この数字は投資銀行を社名で細分化して、直接ロスチャイルドの名で動かされた部分だけを示しているので、ロスチャイルド財閥の資本や一族とかかわるプレイヤーが動かしたM&Aの仲介事業を総合すると、群を抜いて世界一位でしょう。


たとえばユダヤ系投資銀行であるゴールドマン・サックス、ソロモン、ウォーバーグ・ディロン・リードなど、創業時期からロスチャイルド家の資金で事業を展開し、縁戚関係を持っている企業のトップ・プレイヤーの大部分がスチャイルド財閥の息のかかった人間だと考えると、ロスチャイルド財閥グループのM&Aの仲介実績は世界第一でしょう。


日本国内に目を向けて見れば、ロスチャイルド財閥は、1999年に三井物産と共同で、リストラクチャリングを必要とする企業を対象とした買収ファンド(100億円規模)を設定し、出資・買収を模索しはじめます。2001年には英ロスチャイルドグループの企業買収ファンドが、大阪証券取引所二部上場の通信販売大手ニッセンに出資し、筆頭株主になりました。当時の新聞には「月内(4月)にも買収ファンドがニッセンの第三者割当増資を受けて発行済み株式数の10%前後を取得し、ニッセンの経営テコ入れに乗り出す」と記されています。


2002年には、三井物産が繊維部門に投資専門の部署として投資事業室を新設し、アパレルへの投資体制を整え、「ハナエモリ」ブランドの再建に乗り出しましたが、これは英ロスチャイルドグループなどが出資したファンドと三井物が新会社を設立し、高級既製服(プレタ)事業と商標権を買収したことで実現したものでした。森英恵が率いる「ハナエモリ」はブランドに傷がつくの避けるため、清算ではなく民事再生法の適用を申請し、プレタポルテ部門を三井物産とロスチャイルドグループへ売却することを選んだのでしょう。


三井物産、住友商事、三井住友銀行が世界的な視野で見れば「ロスチャイルド系」と呼ばれていることを知らないのは、日本人ビジネスマンだけだと揶揄されているようですが、そうするとロスチャイルド財閥の最大のライバルであるロックフェラー財団グループが日本にどのような系列会社を有しているのか気になるところです。


現在、連載中の「小栗上野介が駆け抜けた時代」(毎週木曜配信)でもふれますが、ロックフェラー家は「西南の役」(明治10年)をきっかけに三菱グループの創始者、岩崎弥太郎と手を組みます。岩崎はその前に、ロスチャイルド系の長崎グラバー商会の資産と事業を引き継いでいますが、ロスチャイルド財閥と深くかかわることはなく、ロックフェラー財閥との蜜月を続けていきます。


同じ頃、三井グループの大番頭となった渋沢栄一はロスチャイルド財閥と懇意になります。渋沢は幕末に幕府使節団に加わって御用商人としてフランスに渡りました。この時に近代の銀行業、金融業を学んだのがロスチャイルド財閥グループだったので、渋沢は個人のネットワークをビジネスに活かしたということがいえるでしょう。


その後、渋沢は明治政府に迎えられ、大蔵官僚となり、やがて第一国立銀行を設立します。この第一国立銀行と三井銀行が合体して、やがて日銀が誕生するわけです。現在でも「日銀にはロスチャイルド財閥の資本が入っている」とまことしやかに言われるのは、「渋沢-三井-ロスチャイルド財閥」という関係が明確だからです。


By Master K/益田 慶

2007年11月15日(木)

06:45 (NZ) 9月小売売上高指数
08:50 (日) 11/10までの対外及び対内証券売買契約等の状況
08:50 (日) 9月第3次産業活動指数
16:00 (独) 10月消費者物価指数・確報
18:00 (ユーロ圏) ECB月例報告
18:30 (英) 10月小売売上高指数
19:00 (ユーロ圏) 10月消費者物価指数
22:30 (加) 9月製造業出荷
22:30 (米) 11/11までの週の新規失業保険申請件数
22:30 (米) 10月消費者物価指数
22:30 (米) 11月ニューヨーク連銀製造業景気指数
26:00 (米) 11月フィラデルフィア連銀景況指数

小栗上野介が駆け抜けた時代 21 小栗上野介の事業と政策 郡県制度

上野介は幕府の役人としては、驚くほど革新的な政治を目指していたようです。民間商社が主体となる自由貿易の実現などは、日本の経済史を50年も前に先取りしたかのような驚くべき構想です。
さて、今回は上野介が建議書を提出したと言われている、幕藩体制に代わる「郡県制度」と幕府の新財源となった税制、鉱山開発などにふれましょう。


 上野介は、機能していない幕藩体制を廃止し、郡県制に移行し、ゆくゆくは大統領制を敷くという大きな構想を持っていたようです。つまり、中央集権国家を築き、最終的には国のリーダーを投票によって選出するという方法です。これは南北戦争を戦ったアメリカの制度を学んでいたから浮かんだ発想でしょう。近代国家の統一に反対する長州藩は武力で統一し、幕府の手によって近代国家への脱皮を図るべきだというビジョンがあったのでしょう。


ちなみに廃藩置県が実施されたのは明治4年。中央集権を進めるために大きな障害になる大名領(藩)を廃止し、中央から府知事が派遣されます。上野介の構想とはやや異なる結果かもしれませんが、モチーフは上野介の「郡県制度」にあるようです。


 上野介の進歩性はこれだけではありません。住宅税や営業税、消費税など現代から考えても驚くほど進歩的な税制を考案し、その調査に乗り出したのです。そのひとつが「酒類その他の嗜好品に課税し、富家より変則的所得税を徴収」するというものです。現在でいうなら、酒税、タバコ税、所得税です。これは幕府の新財源とも呼べるでしょう。また、同時に日本最初の政府による統一兌換紙幣(本位貨幣たる金貨や銀貨と交換ができる紙幣)を発行し、あえて外債を募ったのも彼の英断でした。


その一方で上野介は、幕府の行政改革にも着手しています。職制を改革し、人員を削減しながら、「役人俸給表」を作成して給与体系を合理化したのです。これを官僚的・権力的な改革とするか、近代的・合理的な改革とするかは判断が分かれるところですが、働きもしないのに高給をもらい続ける役人の数を少なくすることや、公務員の給与を見直す動きは、現在にも通じるところがあります。上野介からすれば、ほとんどの役人が給料分の働きをしていないように見えたのでしょう。


 ともあれ、前述した改革は幕藩体制では実現できない、資本主義経済下での政策であることは確かです。

 
 上野介が着手した事業の中でこれまで大きく扱われなかった鉱山開発についても紹介しておきましょう。上野介は1864年、中小坂(現群馬県)に溶鉱炉を建造する建議を提出しています。横須賀製鉄所の建議書提出と同じ年に、上野介は鉱山開発にも目を向けていたのです。
アメリカを視察した際に「町が鉄でできている。日本のそれは木でできている」ともらしたと言われています。日本の近代化には「鉄」が不可欠であることを痛感していたのでしょう。造船業だけでなく、製鉄業も近代国家には欠かせない要因のひとつです。


こうして江戸時代に鉄鉱石を原料とする近代的製鉄が行われた中小坂製鉄所は、良質な磁鉄鉱と周囲から得られる豊富な木炭を燃料として、明治期に入ると本格的な操業が行われました。経営を担ったのは、明治政府の財政問題を担当し、のちに第4第東京府知事となった由利公正でした。彼はイギリス人技師を雇って高炉、蒸気機関、熱風炉などを完成、スウェーデン人技師の技術指導で、トロッコによる水平移動により高炉炉頂へ運ぶ方式が取られたと記されています。


このように上野介が道を拓いた改革、事業は数え切れません。偉大なる業績、先見性、行動力は当時の幕臣では屈指です。もっと評価されてもよいと考えるのは、私だけではないでしょう。
次週からは、上野介が格闘した、江戸時代の貨幣制度のあらましをお送りします。


By Master K/益田 慶

小栗上野介が駆け抜けた時代 22 江戸時代の貨幣制度 貨幣政策

小栗上野介が駆け抜けた時代は、経済史の側面から見れば、貨幣制度が確立した時代といえるでしょう。乱世が続いたことで長く統一貨幣経済の育たなかった日本が歴史上初めて自前の通貨制度をもった時代、それが江戸時代なのです。先行する時代に「天正大判・小判」などの試みがありましたが、全国的規模で貨幣経済の基本を確立したのは、徳川幕府開府後の慶長年間以降になります。だからこそ、上野介がドルとの「交換レート」交渉に臨むことになるわけですが、この貨幣制度はとても複雑にできていました。


そもそも強力な統一政権による自前の貨幣制度の確立は、全国の金銀鉱山を独占した徳川幕府の成立によって初めて成し遂げられたと言ってよいでしょう。17世紀初頭に発見された佐渡金山や発掘技術、鋳造技術の進歩がこの幕府の貨幣政策を強力に後押しすることになりました。まるで19世紀半ばアメリカのゴールドラッシュのように、大きな金銀鉱山の発見が、国の経済の転機になったのです。
幕府は、金、銀、銭の三貨の鋳造をそれぞれ金座、銀座、銭座と呼ばれる場所で行いました。経営は幕府直轄でなく、民間による一種の請負い業務であったようです。ちなみに金座は現在の日本銀行の所在地に設けられ、当初の銀座は現在の京橋にありました。銀座は町名として残ったわけです。


 徳川幕府は、貨幣の発行権の独占と貨幣の様式の統一を進めました。これまで誰も手をつけてこなかった経済政策に着手したわけです。江戸時代の貨幣制度の特徴は「三貨制度」です。三貨制度とは、金、銀、銅(銭)の三種の異なる貨幣からなるものです。金貨の単位には、両、分(ぶ)、朱の単位があり、銀貨には、匁(もんめ)、貫、分、銭貨には貫、文といったお金の単位が存在しました。


金貨は小判1枚の1両を基準とし、1両は4分、1分は4朱といった4進法の単位で表わし、銀貨は重さがそのまま貨幣としての価値となり、銅(銭)は1個が1文(もん)、1000文が1貫文といった具合に、それぞれ独自のルールで運用されていくのです。つまり同じお金なのに個別の体系を持っていたということです。そこで貨幣を交換する際に「相場」が必要となったのです。


相場が必要になった理由は、ほかにもあります。江戸幕府の直轄地においては、金、銀貨が支払手段として広く流通していましたが、それ以外の地域においては、「藩札」という藩政府が発行した地域通貨のような紙幣が一般交換手段として利用されていたのです。


そもそも貨幣が通用する理由とは、受け取った人がその貨幣をその貨幣の価値だけ使えると思っているからです。たとえば、すべての人が「1万円札」を1万円分の価値のある紙だと思い込んでいるから物やサービスとの交換が成立するわけです。国内のある地域では1万円札が使えなかったり、その1万円札が8000円の価値しかなかったりすれば、貨幣の存在意味が問われます。このような事態に陥ることを回避しなければ、国内の経済は成り立ちません。


さらに金貨1両あたりの相場は時代によって異なりました。また、地域ごとに金銀貨の流通範囲が違っていたので、異なる貨幣間の交換が必須となりました。それぞれの交換比率は毎日相場が立って変化しましたが、大まかに金1両=銀50~60匁、幕末には80匁、金1両=銭4000文~6000文、幕末には10000文という具合でした。


相場は上下を繰り返しながら幕末に向けて金が値上がりする傾向でした。これらの実際の交換業務を行ったのが、三井家などの「両替商」です。「両替商」とは、「両」(金貨)を他の貨幣に「替える」ことに由来するのです。現在でも海外に行けば、空港や銀行などで円を現地のお金に「両替」しますが、この言葉は江戸時代の生まれたものだったのです。工業や商業などの産業が発展した江戸時代には、三貨の変動相場による収入は莫大なものであったことが想像できます。


By Master K/益田 慶

2007年11月16日

2007年11月16日(金)

08:50 (日) 日銀金融政策決定会合議事要旨(10月10・11日分)
14:00 (日) 9月景気動向調査・改訂値
16:45 (仏) 第3四半期非農業部門雇用者
17:15 (スイス) 9月実質小売売上高
17:15 (香港) 第3四半期GDP
19:00 (ユーロ圏) 9月貿易収支
23:00 (米) 9月対米証券投資
23:15 (米) 10月鉱工業生産
23:15 (米) 10月設備稼働率

小栗上野介が駆け抜けた時代 23 江戸時代の貨幣制度 手形取引と先物取引

江戸時代の貨幣制度が、金・銀・銅(銭)の三種類からなる「三貨制度」であったことは前回説明しましたが、では、江戸時代の人たちは実際にはどのようにこれら三貨を使い分けていたのでしょうか。その説明の前に貨幣特徴が生まれた順番と特徴を詳しく記しておきましょう。


天下の実権を握った徳川家康が最初に手がけたのが、1601年(慶長6年)に鋳造された、慶長小判をはじめとする「慶長金銀貨」です。

 金貨は、甲州武田氏が鋳造した甲州金貨の価値尺度を踏襲のうえ、「両」を基本単位とする計数貨幣として発行されました。慶長金貨は、恩賞、儀礼等の特殊な用途に利用される大判(拾両)、一般的な交換手段として発行された小判(1両)、および一分金(4分の1両)の3種類から成っていました。金貨にも種類があるとは、なんとも面倒くさいことです。このうち、大判については額面金額ではなく、金の含有量を基準として流通し、実際には7.5両前後で取引されていたようです。


一方、銀貨は当時の流通実態を踏まえて、重量を基準として価値が示される“秤量貨幣”として、丁銀(ちょうぎん)と豆板銀(まめいたぎん)が鋳造されました。丁銀はナマコ形と呼ばれるやや不揃いな棒状の銀塊で、重量は不定ですが、おおよそ43匁 (約161.25g)前後。額面は記載されておらず、重量によって貨幣価値が決まりました。銀貨は主に当時の大坂を中心とした西日本で使われました。
一方の豆板銀は、形状は小粒の銀塊で、重量は不定ですが、1匁(約3.75g)から10匁(37.5g)程度。それ自体を利用するほか、丁銀の補助貨幣的な役割を持ちました。


この間、徳川幕府では、公鋳貨の安定的供給のため、全国に散在する金銀銅などの主要鉱山のほとんどを直轄領として掌中に納めたほか、金座・銀座を通じて流通金銀の回収を図るなど、貨幣素材の確保に努めました。


 一方、小額貨幣である銭貨の統一作業は遅れ、1636年(寛永13年)になってやっと「寛永通宝」と称される銅一文銭の鋳造が始まりました。幕府は寛永通宝の鋳造・発行とともに、古銭(渡来銭・私鋳銭)の回収に努めました。その後、寛永通宝は、銭座の増設などを媒介として大量に鋳造されたこともあって、やがてほぼ全国に浸透し、1670年(寛文10年)には寛永通宝以外の銭貨の通用が禁止されました。余談ですが、この間、寛永通宝との交換により回収された古銭のほとんどは、現物のまま、あるいは北宋銭に鋳直されて東アジア諸国へ輸出されたとされています。

 そして1608年(慶長13年)、金1両=銀50匁=銭4貫文(4000文)という金銀銭貸間の交換比率が公定されたのです。しかし、実際の交換比率は市場実勢、つまり相場によって決められ、日々変動していました。


こうした貨幣が流通した江戸時代の人々がどのような使いをしたのかというと「値の高いものは金貨(銀貨)で支払い、安いものは銭貨で支払う」としていたようです。


たとえば2両の買い物をしたとしましょう。銭で支払うとなるとこれはもう大変な作業です。12000文もの寛永通宝が必要になるからです。12000文もの寛永通宝を払う方は重くて運びにくいし、受け取る方は数えるのが面倒です。反対にそば屋に行って16文のそばを食い、1両を出しておつりをもらう、ということも考えにくいものです。5984文のおつりをそば屋が用意しているとは思えないからです。ですから、江戸時代には基本的に売り手側の値段表示が銭なら銭で払い、金なら金で払うというのが普通だったようです。


興味深いのは、大量の貨幣を運ぶのを避けるため、手形取引が発達したことです。1620年頃から世界に先駆けて、大坂の堂島で先物取引が始まったという記録も残っています。次回は天下の台所、大坂で使われた手形について説明しましょう。


By Master K/益田 慶

2007年11月18日

ヨーロッパの財閥と企業グループ 20 ロスチャイルド家の興亡 ロスチャイルド財閥の勢力範囲

ロスチャイルド財閥の勢力範囲は、まずヨーロッパ、ついでアメリカ、アジア、アフリカ、オーストラリアに広がり、戦争と革命、経済恐慌などあらゆる動乱のたびごとに膨張して現在に至ります。ロスチャイルド家は近代から現代に至るビジネス史上、最も成功したファミリーであることは事実です。さて、ロスチャイルド家の興亡を紹介する章は、過去から現在に向かって進み、やっと現代に至りました。今回は近年の話題からピックアップしてお届けします。


野村ファンドネット証券株式会社は、2001年より新たに「ファイブアローズ・ヨーロッパ・ブランド・ファンド」の取扱いを開始しました。このファイブアローズ・ヨーロッパ・ブランド・ファンドは、ロスチャイルド投信投資顧問株式会社が運用する追加型株式投資信託であり、国際株式型(欧州型)に分類される商品です。「ファイブアローズ」とは、もちろんロスチャイルド家の家紋となっている5つの矢のことです。


2005年2月、野村証券がM&Aビジネスにおいてロスチャイルド・グループと提携することを発表しました。野村証券は「これにより両社は、野村證券の日本における広範な顧客基盤とロスチャイルドの欧州におけるM&Aビジネスの主導的な地位を基礎として、日欧間のアドバイザリー業務の強化を図ってまいります」という公式コメントを発表しました。野村グループはロスチャイルド・グループのみならず、ロックフェラー系の三菱グループとも親しい関係にあるようです。

2005年にロスチャイルド・グループは、香港のジャーディン・マセソン・ホールディングスとの関係を生かし、世界で最も急速に伸びている合併・買収(M&A)市場であるアジアでのシェア拡大を本格的にスタートさせました。ロスチャイルドが目指すのは、アジアでのプライベート・バンキングと投資銀行業務の拡大です。フランスと英国の投資銀行業務を統括するのは、ディビッド・ロスチャイルド。現在のロスチャイルド家の総帥です。


一方2006年2月には、スイスの金融大手バンク・プリヴェ・エドモン・ドゥ・ロスチャイルド・ヨーロッパ(以下、BPERE)と日興コーディアル証券が、ファミリーオフィス・サービスの提供を専業とする合弁会社を設立すると発表しました。これは日本の裕福な層に向けたプライベート・バンキングです。合弁会社の名前は、LCFエドモン・ドゥ・ロスチャイルド・日興コーディアル株式会社。資産運用を兼ねた美術品や宝飾品の収集、海外旅行のアレンジまで顧客の要望に応えるとしています。


BPERE会長のベンジャミン・ロスチャイルドは「潜在的な成長力が大きい日本市場に、日興コーディアル証券という強力なパートナーを得て、本格的に参入できることを非常に嬉しく思っています」とコメントしています。ベンジャミンはロスチャイルド・パリ家の分家ながら、ヨーロッパで銀行・金融業、ワイン関連業、観光事業などを営む大富豪です。


日興コーディアルグループは、シティバンクを擁するシティグループと深く関係していますが、このシティグループが吸収した「ソロモン・ブラザーズ」はロスチャイルド・グループの一員でした。日興コーディアルグループもロスチャイルド系ということがいえるでしょう。


このようにロスチャイルド財閥は、日本でも多くのビジネスを展開しています。特に金融業界にはロスチャイルドの名前を冠した企業だけでなく、「ロスチャイルド系」と呼ばれるグループが進出しています。それらの存在を知っておくことは、投資をするうえで重要な知識となるでしょう。さて、次週からは、ロスチャイルド財閥関連企業を紹介していきます。そこには現在のヨーロッパの財閥や企業グループの影が色濃く表われています。


By Master K/益田 慶

小栗上野介が駆け抜けた時代 24 江戸時代の貨幣制度 信用制度

今回は江戸時代に大坂で発達した決算手段、銀目(ぎんめ)手形を紹介します。江戸時代は、全国統一的な貨幣制度がはじめて確立した時期として知られていますが、同時に藩札や江戸・大坂間を中心とした隔地間為替など“信用制度”も大きな発達をみた時期でもありました。


江戸時代の大坂は、全国各地から諸物産が集まる拠点で、集積した物資は問屋、仲買の手によって売買され、各地に送られました。大坂での取引は、一般に「江戸の金遣い(金建て)、大坂の銀遣い(銀建て)」といわれるように、秤量貨幣である銀貨(丁銀・豆板銀)を使って決済されていました。その取引のほとんどは、通帳に基づき信用で売買された後、商品ごとに定められた期日に代金が支払われました。この際に決済手段として利用されたのが銀目手形です。秤量貨幣の場合、重量が大きく、商人間の大口取引には不便であったことが、銀目手形が生まれた理由だとされています。


 銀目手形の流通は、金銀貨幣の交換や預金・為替を取り扱っていた両替商を核として発達した信用制度により支えられていました。両替商が銀目手形を引き受け、決済や資金融資を行っていたのです。


銀目手形は形態的に2つのタイプに分けられます。両替商が預金者に対して発行した預り証(または銀貨の保管証)としての「預り手形」と、預金者が両替商に対して預金を引き当てに振り出した「振り手形」の2種類です。


預り手形は、両替商が預金者に発行した「預金証書」あるいは「銀貨の保管証」であり、現代の「預金小切手」に相当します。これらは両替商が正貨との引き替えで発行した自己宛の預金小切手であり、支払人である両替商の高い信用力に基づき支払手段として広く受け入れられていました。預り手形は第三者への譲渡が容認されていたことから“事実上の貨幣”として流通していたようです。


一方の振り手形は、今日の「小切手」に相当します。券面の右下に「何某殿へ」という受取人を示す名前が示されます。たとえば九右衛門さんが両替商の徳兵衛さん宛に発行した「正金五百両」の振り手形の手形受取人に吉兵衛さんの記名があれば、名義人(吉兵衛さん)がこの振手形を徳兵衛に持参することができ、正金五百両を受け取ることができたのです。振出人の九右衛門の「金銀取渡通」に相当の残高がなければ「不渡手形」になりました。


振り手形の日付は、振出人の資金繰りなどの都合によって先日付で振り出されることもあったようです。これを「延(のべ)手形」と呼び、受取人は満期日当日に両替商に預け入れ、現金化を図るのが一般的だったようです。大坂では両替商同士の資金決済にも銀目手形が用いられていました。


こうして調べていくと、大坂の両替商は、手形交換所や振替銀行に匹敵する資金決済システムを構築していたということが見えてきます。それは完全なピラミッド構造を成していました。三井や鴻池屋など大手の両替商が、幕府の政策に従って傘下の両替商を統轄していたのです。家格の異なる両替商との取引は、すべて親両替と称される系列のなかのひとつ上に位置する両替商を経由して行われたのです。


金・銀・銭の交換は変動相場制によるものだったため、商人や両替商は多額の為替差益を手にしていました。たとえば江戸では銀相場が安い時(金高銀安)に大坂に商品の注文をするのが有利、逆に大坂では金相場が軟調な時(金安銀高)に江戸に販売すれば利益が多くなりました。


銀目手形が廃止されたのは、慶応4年(1868年)でした。近代国家にはなくてはならない「通貨統一」という政策が決行され、「円」が誕生したわけですが、関西で通用していた銀の通貨としての役割が廃止されたので、大坂の商人は、銀目の手形を持って両替屋に押しかけ、両替商の経営が破綻したといわれています。これが銀の暴落を招き、関西経済に大きな打撃を与えてしまいました。
 次週は金貨、銀貨、銀目手形以外の貨幣「藩札」を紹介しましょう。


By Master K/益田 慶

2007年11月19日

2007年11月19日 FX検定 きょうの問題 地政学的リスク トルコ★イラク問題

現在、トルコとイラクの間で起こっている問題の原因となっている民族は(     )人である。


正解 クルド


クルド人は国土を持たない世界最大の民族といわれている。
人口は推定2000万~3000万人で、アラブ、ペルシャ、トルコに次ぐ中東で4番目の大規模な民族である。分布はトルコ、イラク、イランにまたがる地域である。イラク国内のクルド人自治区の人口だけでも400万人といわれている。またトルコ国内には、推定約1500万人のクルド人が居住しており、これはトルコ人口の約25%に相当する。クルド人自治区は新イラク成立後、イラク国内でも最も安定した地域であったが、トルコの非合法武装組織クルド人労働者党(PKK)の拠点となるイラク・クルド人自治区内のゲリラに対するトルコへの越境攻撃の準備が進められていることから俄かに不安定化してきている。
国内にクルド人を抱える各国は、自国の安定のため、相互にクルド人の自決権を認めないことで利害を一致させているため、クルド人は常に孤立してきた経緯がある。その反面、政権からは常に利用され続けた悲劇の民族である。1984年にアブデュラー・オジャラン率いるクルド労働党は、トルコ政府から弾圧を受け、クルド人居住地区の4000もの街村は破壊され、300万人以上のクルド人が難民化したといわれる。トルコにおける人権問題の中心はクルド人問題である。(北キプロス問題もあり)
トルコのユーロ参加の最大の障害になっているのがこの人権問題である。

イスラム圏で唯一のNATO参加国であり、黒海と地中海を結ぶボスポラス海峡を国内に持つトルコ政情不安になった場合、ヨーロッパ、中東における大きな火種になる。クルド人はその居住エリアをイラン国内にも持っており、その複雑さゆえに問題解決の糸口が見えづらい。

民族闘争、宗教問題、石油利権などいくつもの問題が交錯する「クルド人問題」は、地政学的リスクとして常に注目しておくべき地域紛争である。

2007年11月19日(月)

17:15 (香港) 10月失業率
22:30 (加) 9月卸売売上高

2 旧財閥系の百年企業 三菱財閥・日本郵船

創業から百年以上続いている「百年企業」を紹介するにあたり、最初にピックアップすべきは、旧財閥系企業グループであろう。太平洋戦争まで日本経済を牽引し、戦後に実施された財閥解体後は企業グループに移行し、現在もなお日本経済の中核を成す巨大グループばかりである。


旧三菱財閥、現三菱グループの源流は、1885年に創業した百年企業の「日本郵船」である。三菱財閥の創始者である岩崎弥太郎は、明治政府の支援を受けた政商でもあった。1875年、明治政府は国有会社であった日本郵便蒸気船会社の経営を三菱商会に吸収させ、郵便汽船三菱会社が誕生する。そして岩崎弥太郎が他界した1885年、同社と三井系の国策会社である共同運輸会社が合併し、「日本郵船会舎」が設立。政府は両社のダンピング合戦による海運業の衰退を危惧して合併を促し、三菱と三井は対等合併とされたが、一説によれば政府は三菱に巨額な補助金を与えたといわれている。


当時のライバルは、米国の船会社パシフィック・メール社と英国系の船会社ペニュシュラル・オリエンタル社であった。明治政府はアメリカやイギリスの名門海運会社に握られていた航海自主権を奪取することを目指していた。香港、上海、横浜に航路を開いた外国船に対抗し、岩崎はマスコミを利用して愛国心をあおり、運賃を引き下げる一方で、政府に支援を求め、国家を挙げての闘いの体制を作った。と同時に大胆なリストラを行って経費を節減し、運賃引き下げに対抗できる経営基盤を築こうとしたのである。やがて日本の海運をほぼ独占した三菱は、為替業務、海上保険、倉庫業など業態の多角化に乗り出す。日本郵船と契約すれば、為替、海上保険、製品の管理まで関連したビジネスでの独占体制を築けるのである。日本郵船が三菱グループの源流と呼ばれるのは、こういった背景があったからだ。


岩崎弥太郎の死後、三菱の総帥となったのは、実弟の弥之助である。弥之助は三菱の事業を「海から陸へ」と拡大し、それまで副業としていた炭鉱、鉱山、銀行、造船、地所などの発展に力をそそぎ、そのための新組織として三菱社を創設する。いわばこれが後の財閥形成の基になった会社である。弥之助は1881年に弥太郎が買収した高島炭鉱と1884年に政府より借り受けた工部省長崎造船局官営長崎造船局を長崎造船所と命名し、これらを中核として、事業の再興を図った。この年に本格的に開始した造船事業は、のちに三菱造船株式会社に引き継がれ、大きく成長する。
同時に1885年に第百十九国立銀行の買収による銀行業務への本格展開をし、1887年に「三菱倉庫」を設立した。よってこの三菱倉庫も三菱グループの百年企業のひとつである。


1893年に商法が施行され、三菱社は三菱合資会社へと改組。同時に弥太郎の長男・久弥が三菱合資の三代目社長に就任。総務、銀行、営業、炭坑、鉱山、地所の各部を設置して分権体制を敷き、長崎造船所の拡張と神戸、下関造船所の新設、麒麟麦酒(現キリンホールディングス)の設立など、事業がいっそう拡大された。ちなみに三菱グループの宴会では、「キリンビール」が銘柄指定されることは慣例である。


「三菱御三家」の三菱商事(1918年創業)、三菱重工(三菱重工業としては1934年創業)、東京三菱UFJ銀行(三菱銀行としての創業は1919年)がどれも百年企業ではないことを考えると、三菱グループが意外に歴史が浅いことがわかるだろう。三井、住友が三百年以上の歴史を持つ旧家なのに対して、三菱は明治の動乱期に台頭した岩崎弥太郎のマンパワーとそれに続く兄弟、息子たちが短期間で基盤を築いた一大グループなのである。


では、次週は、三菱より歴史のある三井、住友系の百年企業を見ていこう。


By Master K/益田 慶

小栗上野介が駆け抜けた時代 25 江戸時代の貨幣制度 藩札

江戸時代に全国統一的な貨幣制度が確立したとはいうものの、金貨・銀貨が支払い手段として使われたのは、実質的には江戸や大坂、京都といった徳川幕府の直轄地においてのみでした。

それ以外の地域では何が利用されていたのかといえば、「藩札」(はんさつ)と呼ばれる地域通貨です。藩札とは江戸中期以降、領内で正貨(金・銀・銅貨)を流通させる代わりに領民に使用させた紙幣のことです。和紙に木版刷りが基本で、すかしや着色紙などの偽造防止などを取り入れたものもありました。明治4年の廃藩置県時には244藩もあり、諸藩の約8割が藩札を発行していました。江戸時代の日本は複数の「藩」から成る合衆国で、州法や州税と同じように藩だけの通貨が流通していたということになります。


藩札が生まれた背景には、大量の金貨・銀貨が海外流失した一方で、各藩の経済が発展し、貨幣の需要が増大したことが挙げられます。地方での貨幣不足が経済問題に発展することを危惧して各藩が藩札を発行したのです。つまり藩札には自領内の貨幣の不足を補い、通貨量を調整する機能が託されていたのです。しかし実質的には、藩札発行で得られる実通貨の納庫を目論み、これによって藩の財政難の解消をする目的があったようです。

藩札の発行には以下のような基本的なルールがありました。
(1) 領内における正貨の流通禁止、個人間での正貨と藩札の交換の禁止
(2) 藩士の給与は藩札で支給する
(3) 年貢など藩への支払いは藩札で行う


それでは商人が江戸や大坂で入手した正貨を持ち帰ると、どのような事態になったのでしょうか。藩は藩札の交換場所を設けて、正貨と引き換えに藩札を交付したのです。反対に領民がお伊勢参りや行商のため領外に出る際は、藩札と交換して正貨を渡しました。これは正貨を紛失したり、磨耗したりするのを防ぐためであったようです。


実際には藩札は、藩の財政をまかなうために正貨を大きく上回る額が発行されたようです。多くの藩では、藩札の乱発からその信用力を大きく損ない、藩札の価値が急落しました。表書きの金銀などの兌換保証が前提ですが、実際のところ、藩にそれだけの正貨が用意できなかったところがほとんどだったのです。反対に領民の藩札に対する理解が高い藩では、藩札は円滑に流通していました。たとえば「赤穂浪士」「忠臣蔵」で名高い赤穂藩(現在の兵庫県の一部)。浅野内匠頭が藩主になった時代に初めて発行された赤穂藩札は、信用力が極めて高く、藩内はもとより、江戸でも藩邸を出入りする商人の間で流通したといいます。塩田収入による経済力と、大石内蔵助を中心とする藩の通貨管理政策が順調だったのでしょう。


ちなみに浅野内匠頭が吉良上野介を刀傷した直後、出入りの商人たちはが「藩札引き換えをご検討のこと」と記した書状を出したとされています。藩が取り潰しされれば藩札はただの紙切れになるからです。それを受けた大石内蔵助は、一夜にして藩札の六分返し(額面の6割相当の正貨の払い戻し)を決断したとされています。


貨幣ではなく物品との兌換を明示した藩札もありました。最も有名なのが、米札(こめふだ)です。彦根藩の場合、藩札の額面にたとえば「納米弐升 此代壱匁預」と記され、米と銀との引き替えが行われていたために「米札」と称されていました。この米札は、経済的に窮乏する彦根藩士を救済することを目的に幕府から許可を得たものです。彦根藩は幕府の許可を得て、藩内での幕府発行貨幣の流通を禁止し、米札だけを通用させるという「皆米札」(みなこめふだ)政策を実施しました。これにともない皆米札奉行が新設され、領内には米札の引替所が置かれたようです。
このように江戸時代の貨幣制度は、江戸と大坂・京都、各藩によってそれぞれ異なる形態を持っていたのです。


By Master K/益田 慶

2007年11月20日

ヨーロッパの財閥と企業グループ 21 ロスチャイルド関連企業の研究 ロイヤル・ダッチ・シェル

ロスチャイルド財閥が直接関係する企業の数は、正確にはつかめていません。世界中にネットワークが張りめぐらされ、資本の流れが明確ではないからです。しかし、歴史的な経緯から「ロスチャイルド系」と呼ばれる有名な企業があります。


ロスチャイルド財閥の石油利権ビジネスを代表するのが、イギリス=オランダ連合とでもいうべき「ロイヤル・ダッチ・シェル」です。もともとロイヤル・ダッチ社とシェル社は別会社でした。ロスチャイルド家は革命前のロシアにバクー油田の利権を持っており、シェル社の極東部門に石油を供給していました。その後しばらくの間、極東アジアにおいては、ロイヤル・ダッチ社とシェル社はライバル関係にありました。


しかし、ここに米ロックフェラー財閥のスタンダード石油(現エクソン)という強烈な敵が出現します。そこで、ロスチャイルド財閥が仲介して、ロイヤル・ダッチ社とシェル杜に反スタンダード石油の同盟を組ませたのです。ここにロックフェラー財閥のエクソン対ロスチャイルド財閥のロイヤル・ダッチ・シェルという図式ができあがります。


そのとき設立されたアジア石油会社の株は、ロイヤル・ダッチ社、シェル社、そしてロスチャイルド財閥にそれぞれ3等分され、また取締役会の席も3社に2席ずつ配分されました。これが現在のロイヤル・ダッチ・シェル社の出発点です。同社をロスチャイルド財閥の一員と呼ぶゆえんはここにあります。世界の大メジャーのひとつである、イギリスの「ブリティッシュ・ペトロリアム」(英国石油:通称BP)は、ロイヤル・ダッチ・シェル社の子会社で、同社も当然ロスチャイルド系となります。


世界のゴールドを動かす、南アフリカのオッペンハイマー財閥は、ロスチャイルド家の支援を受けてスタートしました。オッペンハイマー財閥は、ロスチャイルドの代理人として南アフリカに派遣されたユダヤ人、アーネスト・オッペンハイマーが創始した財閥です。オッペンハイマー家の基幹事業が、南アフリカの総合鉱山資源会社アングロ・アメリカン社です。その兄弟会社が、世界のダイヤモンドを完全に支配すると言われるダイヤモンド・シンジゲートの「デ・ビアス」です。


南アフリカの金の6割以上に加え、ロシアの金の半分以上を支配しているとも言われるアングロ・アメリカン社。プラチナやウラニウムといった南アフリカの他の鉱物資源も独占下におく、超巨大企業になっているオッペンハイマー財閥は、独占で築き上げた莫大な富を元手にして、南アフリカの建設、流通、食品、マスコミという主要産業を握り、南アフリカの経済を完全に支配してきました。そのオッペンハイマーでさえ頭が上がらないのが、ロスチャイルド家なのです。また、世界有数の金鉱山会社アングロゴールド社(南アフリカ)もロスチャイルド系の巨大企業のひとつです。

ちなみに日本でアングロ・アメリカン社を後押ししているのが三井物産です。三井物産-ロスチャイルド-オッペンハイマーという図式が見えてきます。


ほかに欧州でロスチャイルド系では、オランダの総合家電メーカーのフィリップス社、食品・化粧品などの複合メーカーのユニリーバ社、世界140国に展開するフランス最大の総合科学・製薬メーカーのローマ・プーランなどが挙げられます。マスコミ業界では、イギリスのロイター通信は、ロスチャイルド家がヨーロッパ各国に張りめぐらせた情報網が土台となって生まれた通信社。イギリスのロイズ保険もロスチャイルドとともに成長した企業です。


世界に視野を広げていけば、タイムズ(新聞)、ザ・サン(新聞)、AP(通信社)、アメリカ3大ネットワーク(ABC、NBC、CBS)、ビッカース(兵器)、ダッソー(兵器)、アームストロング(兵器)、シュットーデル(兵器)、ミノルコ(金属)、ネッスル(コーヒー)、ブルックボンド(紅茶)、モンド・ニッケル、モンド社(アルカリ)、フランス銀行、イングランド銀行など数え切れません。そして欧州の財閥とも深くかかわっています。その詳細は次週お伝えします。


 
By Master K/益田 慶

2007年11月20日(火)

16:00 (独) 10月生産者物価指数
16:15 (スイス) 10月貿易収支
18:30 (英) 10月マネーサプライM4・速報
19:00 (ユーロ圏) 9月建設支出
21:00 (加) 10月消費者物価指数
22:30 (米) 10月住宅着工件数
22:30 (米) 10月建設許可件数
28:00 (米) FOMC議事録(10月30日、31日)

小栗上野介が駆け抜けた時代 26 江戸時代の貨幣制度 貨幣の改鋳

江戸時代には、幾度となく貨幣の改鋳が行われました。改鋳とは、金貨や銀貨の重量や金・銀の含有量を変更することです。改鋳の度に金座などの貨幣鋳造機関や両替商など商人を主体とする機関が、政府部門と民間部門との仲立ちとなって新旧貨幣の交換業務に携わりました。


改鋳は幕藩体制を経済的に支える米の価格を調整するために行われましたが、経済の拡大にともなう通貨の流通不足と幕府財政の悪化、金銀相場の内外格差を是正する目的もありました。


改鋳が行われた時代と回数は以下のようになっています。元禄・宝永・正徳・享保・元文(金貨のみ)・明和(銀貨のみ)・文政・天保・嘉永(銀貨のみ)・安政・万延(金貨のみ)の計11回(ただし、一方のみの改鋳もあるので、実際には金貨・銀貨ともにそれぞれ9回)。


このため、江戸幕府最初の金貨である「慶長小判」の時には現在の単位に換算して重さ約17.8g、金含有率84.3%あったものが、最後の「万延小判」に至っては重さ約3.3g、金含有率56.8%と辛うじて金貨の体裁を維持しているに過ぎない水準にまで低下しています。


改鋳の歴史は、幕府が貨幣制度を改定し、確立していく過程でもあります。興味深いのは、たとえば貨幣大系の中心に据えられた金貨は「一両」という額面の価値を与えられていたにもかかわらず、改鋳によって品位が変更したことと、額面は一定であっても金の純分量が異なったことです。後者については、秤量貨幣の矛盾点といえるでしょう。鋳造された時期によって金や銀の含有量が異なるのであれば、貨幣の価値も時期によって異なってしかるべきだと考えがちですが、「一両」の額面価値は同じでした。ただし、実質価値が異なった場合には、新旧貨幣は「増歩(ましぶ)」というプレミアムを付加して交換されたようです。


江戸幕府による最初の改鋳が行われたのは1695年。慶長金銀貨に比べて質を落とした金銀貨が発行され、貨幣流通量の増大が図られました。しかし、物価上昇が激しくなったため、再び改鋳が行われ、質の高い正徳・享保小判が発行されました。もっとも正徳・享保の改鋳では、小判の品位が引き上げられた一方で、「旧小判2枚が新小判1枚」とされたことから貨幣量が急激に減少し、経済活動が停滞したといわれています。


荻生狙徠の提言を受け、徳川吉宗によって行われた元文改鋳(1736年)は、貨幣量の適正化を目的として行われました。この時には質を落とした元文小判が発行されました。金貨は品位・量目ともに、享保小判の75%(貨幣の単位純量としては56%)、銀貨の品位は、享保丁銀の57.5%に切り下げられました。これが「元文小判」と呼ばれるものです。新旧貨の交換の際につけられる「増歩」は、金貨100両につき65両、銀10貫目につき5貫目でした。旧小判1両=新小判1.65両というプレミアムがついたのです。


八代将軍吉宗は、徳川幕府中興の祖として名高く、「享保の改革」を通じて、五代将軍綱吉の放漫財政や災害の発生などにより危機的状況に瀕していた幕府財政を見事に立て直した政治家としても知られています。享保7年(1722年)、町人請負方式による新田開発を解禁のうえ年貢米の増収を図ったり、米価の調整に腐心したりしたことで名高いですが、財政立て直しに最も寄与したのは、国内産業の振興策ではなく、「元文改鋳」という金融面からのリフレ政策でした。


吉宗は当初、倹約による財政緊縮を重視したため、幕府はもとより諸大名も財政支出の削減という強力なデフレ政策を実行しました。その結果、江戸の経済は深刻な打撃を受け、街は火が消えたようになったといわれています。物価も下落傾向をたどりました。とりわけ米価の下落が著しかったようです。年貢米の売却で生計を立てていた武士階級の場合、米価安は直ちに所得の低下を意味したため、米価の独歩安は彼らの生活を圧迫しました。そこで、改鋳が決断されたわけです。

By Master K/益田 慶

2007年11月21日

FXライフ 13 ユーロの歴史と欧州の通貨 欧州市場の変化

2007年10月現在、ユーロは13ヵ国で導入されている。ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、スペイン、ポルトガル、アイルランド、オーストリア、フィンランド、ギリシャ、スロベニアだ。さらに、2008年1月からキプロスおよびマルタで導入が予定されている。


それでは、統一通貨が導入された欧州市場は、どのように変化したのだろうか。そしてどんな問題点が浮上したのだろうか。それらを検証する前に、導入当初予想されたユーロ導入の効果をまとめておこう。


1.ユーロ圏では為替取引のコストがなくなる。
2.統一通貨を使うことでユーロ圏が巨大な金融・資本市場へと発展する。それによって市場の流動性が高まり、ユーロ建ての新しい金融商品の開発につながるなど、資金調達と投資の可能性も広がる。
3.価格の透明性が増し、消費者にとっては商品やサービスの価格の比較が容易になり、企業にとってはコストの比較が容易になる。
4.為替相場の不確実性がなくなり、企業にとっては資金調達コストが下がるので貿易と投資の増加につながる。


単一市場の確立は、同じ貨幣が使える市場が増加することであり、市場が拡大するということである。だから欧州経済は健全な基盤を築き、安定する。このように期待されていた。
しかし、経済構造の異なる国々に単一通貨が導入されれば、無数の問題が生じることは明白だ。メリットと同時に、通貨統合の維持には大きい犠牲が伴っていることも直視しなければいけない。
まず、労働力の柔軟な移動こそが統一通貨維持に不可欠な条件であるが、現在のユーロ圏諸国はこの条件をクリアできていない。資本の移動はかなり自由に行われているものの「自国民の仕事が奪われる」と危惧し、移民の受け入れを快く思っていない国が多いからだ。


もちろん企業は為替リスクの完全な回避や両替手数料の削減などさまざまなメリットを享受することになった。その一方で、マクロ経済の政策の実施に際してはいくつかの問題点が出てきている。そのひとつが、欧州中央銀行(ECB)が全体として金融政策を実施していくため、導入国固有の問題に対して各国が適切な金融政策を実施できなくなっていることだ。また物価安定以外は政策目標が不明瞭で、欧州中央銀行は金融市場に急激な変化が生じない限り、弾力的な金融政策をとらない傾向にあるため、物価の安定のための対応が遅れがちになっているとも指摘されている。一方、財政政策においては、ユーロ導入各国は「安定成長協定」を満たす必要性があるため、財政政策を各国の経済に合わせて実施することにも限界が出てくると分析されている。


さて、2004年にEUに加盟したハンガリーはかつて社会主義労働党が独裁した国だ。1989年、西側のオーストリアとの国境に設けられていた鉄条網「鉄のカーテン」を撤去し、国境を開放した際に西ドイツへの亡命を求める東ドイツ市民がハンガリーに殺到したことは冷戦終結の引き金にもなった。
ハンガリーの通貨単位はフォリント(Ft)だ。欧州通貨制度のERM Ⅱ(為替相場メカニズム)には参加していないが、現在ユーロに対して一定のレンジに収める為替政策を行っているので、ユーロ導入に向けた通貨政策を行う可能性は高い。


民主化以降、外国資本を受け入れて積極的に経済の開放を進めたハンガリーは、「旧東欧の優等生」と呼ばれるほど好調な経済成長を成し遂げた。ジェトロによれば、2006年は純輸出が拡大した一方で、政府の掲げている緊縮財政政策の実施により消費や設備投資などの内需が低迷し、実質GDP成長率は3.9%にとどまっている。気になるのは、物価上昇率も3.9%を示していることと、失業率が7.5%を示していることだ。インフレと失業率が増加し、国民の貧富の格差が増大していることは覚えておきたい。


By Master K/益田 慶

2007年11月21日(水)

08:50 (日) 10月通関ベース貿易収支
08:50 (日) 9月全産業活動指数
18:30 (英) BOE議事録
22:30 (米) 11/18までの週の新規失業保険申請件数
22:30 (加) 9月小売売上高
24:00 (米) 11月ミシガン大消費者信頼感指数・確報値
24:00 (米) 10月景気先行指数

小栗上野介が駆け抜けた時代 27 江戸時代の貨幣制度 元文の改鋳

先週に引き続き、改鋳の歴史を説明しましょう。「元文の改鋳」で貨幣の実質価値の差異を増歩(ましぶ)交換政策によって乗り切った吉宗は、徳川幕府が期待したとおり新金貨との交換が急速に進み、貨幣流通量は改鋳前との比較において約40%増大しました。この貨幣供給量の増加は物価の急上昇をもたらし、深刻なデフレ下にあった日本経済に恵みを与えたとされています。経済情勢も好転し、元文期に制定された金銀貨は、その後80年もの間、安定的に流通しました。


この一連の流れをメカニズムとして捉えるなら、次のような流れになります。


改鋳(含有純金量は減少)→増歩交換方式による新旧貨幣の交換→貨幣供給量の増大→物価の上昇。一方、幕府財政は、相対米価の上昇、年貢の増徴のほか、貨幣流通量増加の一部が改鋳差益として流入したこともあって大きく改善しました。この傾向は1760年代初頭まで続きました。このように元文の改鋳は、日本経済に好影響をもたらしたと積極的に評価される数少ない改鋳でした。

ところで、金座で新規に鋳造された貨幣(金貨)は、どのような流れで流通していったのでしょうか? 両替商が重要な機関として機能したのです。江戸の金座で鋳造された金貨が大坂市中に流通していくプロセスを説明しておきましょう。

江戸金座→大坂の三井組、鴻池屋が受け取る→系列メンバーの両替商に貨幣を割り当てる→両替所で新旧貨幣を交換→三井組、鴻池屋あてに旧貨を上納→幕府より三井組、鴻池屋あてに報酬→参加の両替商に報酬を分配。こういうプロセスとなります。


しかし、小栗上野介が活躍した幕末にかけては、財政窮乏を補うため質を落とした改鋳がたびたび行われ、慢性的なインフレを引き起こしました。「この改鋳が江戸幕府を経済的に崩壊させた」と説く研究家は少なくありません。江戸期最後の万延小判は大きさも極端に小さく、純金量も慶長小判の約1/8しかありませんでした。

幕末に行われた安政・万延の改鋳は、1854年に締結された「日米親和条約」、1858年に締結された「日米修好通商条約」(神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港と自由貿易の許可)によって、諸外国との貿易が開始されるようになって、日本の金がどんどん外国に流出していったことに対処するために実施されました。開港によって表面化した内外の金銀比価の乖離が引き金になったのです。


しかし、改鋳の結果、万延元年(1860年)以降、猛烈な勢いでインフレが進行する「ハイパーインフレ」が発生します。1859年の開港後、明治2年(1869年)までの間に名目貨幣量は5,300両から1億3,000万両へと急増しています。10年にわたり年率9%近い比率で増加した貨幣供給量が物価高騰をもたらしたのです。

小栗上野介が遣米使節団の監査としてアメリカへ旅立った安政7年1月(同年3月に万延に改元)、彼が持参した小判は「万延小判」でした。一行が出発した2日後、それまで流通していた天保小判1両の増価が布告されました。金銀含有量が多く、型も大きい天保小判1両は、新鋳の万延小判3両1分2朱とすることが発表されたのです。天保小判1両を持っていれば、それが3倍以上の価値になったのです。この情報を聞いたのが、のちに三井家の中興の祖となる三野村利左衛門でした。小栗家の出入り業者で小規模の両替商であった彼は、かき集められるだけ金をかき集めて天保小判を手に入れたといわれています。


一方、開港によって日本に訪れた欧米人は当時、一般に金貨を使用することはなく、もっぱら銀貨、それもメキシコドルを使用していました。当時の通貨条項は「同種同量の交換」でした。つまり、金貨は金貨と、銀貨は銀貨と同量交換されるというものです。開港場の両替所では、役人が一方の秤にドルを、一方の秤に銀貨を載せて重さを測ったのです。つまり、開港によって実質的な金銀本位体制が始まったのです。


By Master K/益田 慶

2007年11月22日

2007年11月22日(木)

米国休場(サンクスギビングデー)

08:50 (日) 11/17までの対外及び対内証券売買契約等の状況
16:00 (独) 第3四半期GDP・確報
16:00 (独) 第3四半期個人消費
17:15 (香港) 10月消費者物価指数
18:00 (ユーロ圏) 9月経常収支

3 江戸幕府の支配統制 幕藩体制

江戸幕府の支配体制は「幕藩体制」と呼ばれ、中央政府である幕府と地方政府である藩の二重支配になっていた。地方は将軍が任命・承認した大名が藩を形成し、支配していた。なお、将軍の直轄地(天領)では大名の代わりに代官を置いた。この幕府(将軍)が藩(大名)をコントロールする幕藩体制は、見事に「小さな政府」を築いている。


各大名は「武家諸法度」の遵守はあるものの、それぞれの領地においてある程度独立した統治機構を形成している。支配体制の基本となっているのは、米などを現物で納めさせて年貢とする石高制だ。江戸時代前期の年貢徴収は、田を視察して、その年の収穫量を見込んで毎年ごとに年貢率を決定する方法であった。


田畑や屋敷に至るまで、面積に石盛という一定の計数をかけて米の生産力に換算し、石単位で表示するこの制度は、わかりやすい「課税制度」といえる。そして石高は、そのまま大名や旗本の収入を表す点においては、徳川グループ各支社(藩)や家臣と呼ばれる徳川コンツェルン幹部の「売上高」「年商」「年収」とも読める。本部機能を持つ幕府は、徳川グループ各支社、幹部の「売上高」「年商」「年収」をチェックできるという合理的なしくみである。
また、一石は大人一人が一年に食べる米の量に相当することから、これを兵士たちに与える報酬とみなせば、石高×年貢率と同じだけの兵士を養えることになる。つまり石高は大名の「財力」だけではなく「兵力」をも意味していたのだ。


江戸に築かれた旗本の屋敷が質素であったのに対して、江戸初期に建てられた御三家(尾張、紀伊、水戸)および大名屋敷はいずれも豪華であった。これも石高があったからこそ。屋敷の豪華さで石高を誇ったのであろう。


さて、徳川幕府の象徴といえば江戸城だ。築城工事は、家康の将軍任命の翌年、1860年に着手された。手始めは、城の基礎となる石材を運ぶ船の建造である。その船の建造を負担したのは、島津忠恒(初代薩摩藩主)、浅野幸長(初代紀伊和歌山藩主)、黒田長政(初代筑前国福岡藩主)など有力な外様大名28名であったという記録が残っている。この船が伊豆から巨大な石を一度に数個ずつ積んで、月に二回、江戸との間を往復したという。いずれも諸大名に課せられたミッションであった。


また、その前段階の埋め立て工事も諸大名が担ったという。たとえば駿河台の神田山を崩した土で、日比谷の入江は埋められた。これらは徳川家に対する忠誠心を試すにも、家臣の労働力を使わずに城の基礎を築ける点でも、合理的な手法である。いわば「報酬を出さないアウトソーシング」である。
蛇足だが、江戸の町を拓くために埋立てられた土地には、新たな地名がつけられた。その部分の工事を担当した大名の国名をとって尾張町、加賀町、出雲町など名づけられたところもある。ちなみに、漆喰で塗り固められた城の壁の原料となった石灰は、江戸西部にある村に命じて石炭岩を焼かせて、馬で運ばせたものだが、この道が現在の青海街道である。


諸大名は自分の領地から農民を江戸に連れ出し、資金不足は家臣にも担ってもらい、また豪商から借金をしてでも整えなければいけなかった。それは軍役ともいえるだろう。領地を支給してもらっている、つまり石高をもらっている徳川家に対する奉公なのである。


江戸城の建設と並行して、1604年には近江の彦根城を、その近隣7カ国の大名に命じて築かせ、1612年には駿河城を、1615年には名古屋城の建設を命じるなど、大名への課役はすこぶる大きかったようだ。江戸幕府の支配統制の本質は、巧みに大名を操ることにあったようだ。それは幕藩体制が築いた縦社会そのものである。


By Master K/益田 慶

小栗上野介が駆け抜けた時代 28 江戸時代の貨幣制度 銀高金安

幕末の改鋳は、大いなる矛盾をはらんでいました。幕府が開港を迎えるにあたって新鋳した安政二朱銀は従来の秤量貨幣とは異なり、額面が記載された表記貨幣でした。それまで流通していた天保一分銀の重量が8.6グラムであったのに対し、新しく登場した安政二朱銀の重量は13.5グラム。その貨幣価値は、金貨である二朱金と等価とされ、したがって1/8両、また1/2分に相当しました。ちなみに当時の洋銀(メキシコ・ドル)の重量は26.8グラム、含有純銀量は24.1グラムでした。


江戸時代末期、国内の金銀の相対比価は1対5でした。これに対して国際相場は1対13~16。海外の相場から大きく乖離し、「銀高金安」が進んでいたということです。もともと江戸時代の金相場は物価と相反する動きをしてきました。すなわち、物価上昇期には金相場が下落(銀高)が起こり、反対に物価下降期には金相場が上昇(銀安)が生じていたのです。


しかし1850年以降には物価が加速度的に上昇しました。幕末になると、開港によって銀貨が「同種同量の原則」に基づき、素材価値は低いが重量のある洋銀と両替されることになりました。


ここで洋銀→一分銀→小判→洋銀という裁定(利ザヤ取り)取引によって、相当量の金貨(小判)が海外へ流出する事態が発生しました。利益に敏感な米英の貿易商人や金融業者たちはもちろんのこと、各国の大使や公使までもが小判を買いあさりました。幕府は金貨の流出を防ぐために再び金貨を改鋳し、品質を落し、さらにインフレを助長したのです。現在なら内閣の閣僚は「即刻退陣」というところでしょう。


「幕末の改鋳が江戸幕府を滅ぼした」と分析する経済学者は、改鋳により金貨の海外流出が進み、国内の通貨の価値を下落させ、物価高騰が起こり、経済混乱を招いたことで、討幕の動きが活発になったと指摘しています。

江戸幕府が発行した最後の小判となった「万延小判」は、それまでの3分の1の大きさになり、純金量も慶長小判の約1/8しかありませんでした。下記にその推移を記します。


●慶長小判の金の含有量 15.351グラム
●元文小判の金の含有量 8.45グラム
●文政小判の金の含有量 7.28グラム
●天保小判の金の含有量 6.39グラム
●安政小判の金の含有量 5.13グラム
●万延小判の金の含有量 1.824グラム
(万延小判からすれば、慶長小判の金の使用料は約8.4倍。幕末には、同じ金の量で8倍もの枚数の小判を発行していたということです)


ものを売る側にしてみれば、「万延小判で1両だ」と言われても納得できず、「大きさが3分の1なので3両(小判3枚)でないと売らない」「純金量が少ないので、万延小判には天保小判や安政小判ほどの価値はない」ということになります。すると必然的に物価は上がります。つまりインフレです。


通貨の価値が下がった要因は、改鋳だけではありません。貿易の開始も物価の急騰をもたらしたのです。1859年から1866年にかけての物価の伸びは、米価換算で10倍。たとえば生糸一包みは、200ドルから800ドルと4倍も高騰しています。封建的な経済を続けてきた国がいきなり自由貿易をすると、どうなるかという見本のようです。貿易開始から幕府滅亡までは10年もかかっていないという事実から、当時の日本が貿易に疎く、先進国のカモになったという見方もできます。


当時の記録をひもといてみると、最初は儲かっていた外国との貿易も、1866年を境に赤字になってゆきます。外国人商人の手練手管に日本人商人は歯が立たなくなったのでしょう。さらに欧州の列強は兵庫の開港が遅れた代償として、改税約書を押し付けてきました。また、攘夷運動が下火にならないのは、天皇が通商条約の勅許を出さなかったからだとして、兵庫に軍艦9隻を並べて圧力をかけてきます。


By Master K/益田 慶

2007年11月23日

ヨーロッパの財閥と企業グループ 22 ロスチャイルド関連企業の研究 ロスチャイルド銀行

今回はロスチャイルド財閥が深くかかわる金融業界を中心にお送りします。ロスチャイルド財閥の核となる金融・投資事業の象徴が、「投資銀行ロスチャイルド」です。現在グループには2,000人の従業員が働き、33ヶ国に40のオフィスを有して全世界に展開しています。ロスチャイルドは欧州、とりわけイギリス、フランス、イタリアおよびドイツにおいて、投資銀行として主導的な地位を占めています。またアメリカおよび南米においても確固たる地位を築いています。ロスチャイルド銀行は、トムソンファイナンシャルの集計によると、公表案件における取引金額ベースで欧州のM&Aアドバイザリーランキングで1位となっています。


ユダヤ系投資銀行のうちロスチャイルド系として著名なのが、ゴールドマン・サックスです。従業員総数は約10,600名。世界のM&Aアドバイザリーランキング第1位(2005年度)に輝く世界金融のリーダー的存在です。ちなみにトップ3は、ゴールドマン・サックス、モルガン・スタンレー、JPモルガンです。


ゴールドマン・サックスはアメリカの金融グループとして認知されていますが、1869年にドイツ出身のマーカス・ゴールドマンが創業したユダヤ系企業。ロスチャイルド家とは婚姻関係でつながりが生まれました。ゴールドマン・サックスがアメリカ政界に及ぼす影響力は絶大です。古くは第二次世界大戦中、ルーズヴェルト大統領とトールマン大統領の顧問を務めたのが、当時のゴールドマン・サックス会長シドニー・ワインバーグでした。クリントン政権では当時のロバート・ルービン会長が大統領の参謀としてクリントンの資金集めに奔走し、経済担当大統領補佐官から財務長官になったことはよく知られています。
第2期ブッシュ政権の経済政策担当の大統領補佐官に就任したスティーブン・フリードマン(後に解任)もゴールドマン・サックスの共同会長を務めた人物でした。


同社は株式や通貨などの金融資産や不動産の売買、投資銀行業務、プライベート・バンキング、保険業務などを展開しています。日本では、ゴールドマン・サックス証券(東京・六本木ヒルズ)、ゴールドマン・サックス・アセット・マネジメント(東京・六本木ヒルズ)、ゴールドマン・サックス・リアリティ・ジャパン・リミテッド(東京・渋谷)など3つの会社から構成されています。ちなみにゴールドマン・サックスは三井住友ファイナンシャルグループと提携(ゴールドマン・サックスが三井住友に出資)しています。
ゴールドマン・サックスと一時期提携関係にあったリーマン・ブラザースもロスチャイルド系とされています。


さらに興味深いのは、ロスチャイルド財閥系子会社を抱える金融・証券会社の多さです。20世紀末に大規模に進められた買収・合併によって、保守系の金融機関はまるでロスチャイルド財閥と“親戚関係”を結んだかのように映ります。シティグループはロスチャイルド系のソロモン・ブラザーズを吸収、メリル・リンチはスミス・ニューコート(ロスチャイルド証券)と合併しました。


ロスチャイルド財閥の銀行として忘れてはならないのが、スイス・ユナイテッド銀行(UBS)とともに「スイス2大銀行」の1行と呼ばれるクレディ・スイス銀行です。ロスチャイルド家がスイスに設立した銀行で、ロスチャイルドグループの銀行家によって経営されてきました。


巨額の財産を築いた大富豪に対して「スイスのプライベートバンクの秘密口座に数億円を隠し持っている」といった噂話がささやかれますが、クレディ・スイス銀行がまさにそのプライベートバングです。永世中立国なので戦争が起こっても、ここに財産を預けておけば絶対安心というわけです。皮肉な言い方をすれば、不況や戦争が起こる度にこの銀行は太っていったということです。まるで誰かが意図して仕組んだかのような構造になっていることが気がかりです。


By Master K/益田 慶

2007年11月23日 FX検定 きょうの問題 エネルギー問題と穀物の高騰

トウモロコシ、大豆、小麦が高騰しています。
原油価格高騰とブッシュ大統領による政策変化、中東からの原油輸入を減らし、
燃料エタノールの推進する政策によりトウモトコシの生産が拡大しています。
現在、米国産トウモロコシの生産量のうち、燃料エタノール生産に充てられ
ている量は全米生産量のどれくらいの割合か。

A 約0.5%
B 約5%
C 約10%
D 約25%


正解 D 約25%


ブッシュ政権の環境に対する政策の変更が穀物高騰の原因になっている。地球温暖化防止の対策としてトウモロコシなどから製造されるバイオエタノールが注目されている。

バイオエタノールとは、トウモロコシ、サトウキビ、大豆油、バイオマスなど植物由来の原料を使って製造する燃料用アルコールのことである。

ブラジルではサトウキビの国際商品価格の低迷から、国策として燃料用アルコールの生産に注力してきた。

現在では、ブラジルで走る車の15%がエタノール車である。エタノール燃料はガソリン燃料に比べて安価であり、税制的優遇も加えられている。

ブラジルから始まった自動車燃料エタノール生産は、サトウキビ価格維持、サトウキビ農家の保護、原油輸入削減による貿易収支改善策が原因であった。

しかし、アメリカの場合は理由が異なるようである。京都議定書の発議当時は、アメリカのスタンスは地球環境保護よりも経済成長に主眼が置かれていた。イラク戦争の失敗で孤立化を深めたブッシュ政権は政策を転換した。


中東原油の輸入削減、地球温暖化防止策を名目に燃料エタノールを増産することにしたのだ。
しかし、アメリカでのバイオエタノール生産コストは安くない。

アメリカ政府がバイオエタノール生産業者に補助金を出し、さらに税制優遇策を取っているのである。

この措置がなければバイオエタノール価格はガソリンよりも高くなってしまい、これを使う消費者はいなくなってしまう。

このブッシュ政権の政策を背景に、ファンドがバイオエタノール製造会社に投資し、バイオエタノール製造工場が次々と建てられたのである。ファンドは、トウモロコシなど商品先物にも投資している。サブプライム問題にゆれる株式市場を避け、ファンド資金は国際商品市況に流れ込んだ。

また、近年のBRICsをはじめとした新興国の原油需要、さらに穀物需要に煽られて国際商品市況は高騰しているのである。

話をバイオエタノールに戻そう。

現在、アメリカではE85というブレンド燃料が販売されてる。エタノール85%、ガソリン15%の混合燃料である。価格は15%ほど安いので代替が進んでいる。

この価格も先に述べたようにバイオエタノール製造会社への補助金が前提になっている。

バイオエタノール製造会社はトウモロコシを高価で買い上げている。
今年のアメリカのトウモロコシ生産は豊作でした。にも拘らず高騰です。

原油価格、ガソリン価格高騰とともにバイオエタノール燃料の需要は拡大し、食料や飼料に回るものまでバイオエタノール原料に回ってしまう。

その結果、トウモロコシ価格はさらに高騰する。トウモロコシの生産地と小麦、大豆の生産地は重複しています。

生産農家は、穀物の先物価格を見ながら作付けを考えます。主要な生産地域は、中西部である。グレート・プレーンズ、プレーリーといわれるエリアである。

春から夏にかけて南部から作付けが始まる。トウモロコシの作付けは、大豆よりも1ヶ月から2ヶ月ほど早く、北部と南部でも作付け時期は異なってくる。

つまり、トウモロコシと大豆の生産量は一定の比率で保たれるように市況が調節機能を持っていたのである。

ところがこの需給バランスを崩してしまったのがバイオエタノール製造なのである。

アメリカ農家の2007年の収益は871億ドル(約10兆1000億円)と昨年の1.5倍になる見通しだ。

飼料となるトウモロコシの高騰で苦戦が予想された畜産農家も、世界的食料需要の増大で需給が逼迫し、牛乳や鶏肉の価格も上がっている。

大豆、小麦からトウモロコシへの転作により供給が減った小麦、大豆の価格も高騰した。これに拍車をかけるようにオーストラリアの干ばつである。


アメリカではバイオエタノール製造に大量の石油を消費している。そして移送のために石油を使って運搬している。
南米では、サトウキビ畑やトウモロコシ畑を作るために森林を伐採している。

このような観点から考えると、
バイオエタノールが地球温暖化防止に役立っているかどうかは疑問である。

さらには別の角度からの批判もある。

アメリカには、モンサント社という大手農薬会社がある。
この会社はラウンドアップという農薬を生産している。

この除草剤は、非選択性の薬剤ですべての植物を殺草する機能を持っている。
日本でも収穫後の処置に大量に使われている。

このラウンドアップの特許が2000年を前に切れたのである。
モンサント社は世界各地で特許紛争を繰り広げたが、失敗に終わった。

アメリカの穀物商社、種苗会社、農薬会社はユダヤ資本を背景に、ブッシュ
政権と強く結びついている。20世紀末、作物の遺伝子組み換え技術(GMO)は急速に発展した。
そこで害虫に強い遺伝子作物の開発とともにラウンドアップに耐性を持つ作物を開発しているというのだ。

ラウンドアップの特許切れにより同様の機能を持った農薬が大量に出回っている。園芸センターなどで売られているグリホセートという農薬は中国版のラウンドアップ、つまり模造品である。医薬品でいえばジェネリック医薬品である。

世界で大量生産される商品作物の大半はアメリカの穀物商社、種苗会社が供給している。彼らが供給する種苗にラウンドアップ耐性を持った作物が主流を占めるようになればどういうことになるか。生産地は各国でも種苗供給はアメリカ独占。これがアメリカの戦略である。

原油、穀物はこのように国際経済の中で複雑に絡まっている。

2007年11月23日(金)

勤労感謝の日(東京市場休場)

16:45 (仏) 10月消費者支出
18:30 (英) 第3四半期GDP・改定値
18:30 (英) 第3四半期個人消費

小栗上野介が駆け抜けた時代 29 江戸時代の貨幣制度 トマス・グラバー

今回は貨幣制度から少し離れ、政治と経済が混乱する幕末に、むしろそれを利用してビジネスに挑んだ人々を紹介しましょう。

第二次長州征伐では、大軍で長州へ攻め入った幕府軍が敗退しましたが、長州軍の勝因は最新の西洋式兵器を所持していたからだとされています。西洋式兵器の大半は、薩摩藩が外国商人から購入し、船で密かに長州へ送ったものでした。外国商人とは、スコットランド生まれのトマス・グラバーです。「薩長の黒幕」とも「死の商人」とも呼ばれるグラバーは、中国を拠点にする英国のジャージン・マセソン商会の代理人(日本支社長)として長崎に訪れ、1861年に「グラバー商会」を開業しました。
ジャージン・マセソンといえば、香港に進出し、清国(中国)に阿片を売りつけ、阿片戦争を誘導し、イギリスが香港を取得する筋書きを書いた男です。マセソンを背後で操っていたのは、ロンドン・ロスチャイルド家です。同じ時代に、ひとつの国を乗っ取るような輩が世界にはいたわけですから、外交と財政に疎い幕府の閣僚は歯が立たないわけです。


グラバー商会へは、坂本龍馬、伊藤博文をはじめ、のちに三井財閥の最高顧問になった井上馨、のちに大坂商工会議所の初代会長になる“政商”五大友厚、のちに大阪府知事に就任する後藤象二郎、明治時代に外交官として活躍した寺島宗則、明治政府初代文部大臣の森有礼などが通っていました。こうして名前を挙げると、坂本龍馬と小栗上野介とは異なり、明治時代に政財界で活躍する多くの人物が通っていたことがわかります。


慶応3年(1867年)には、のちに「三菱商会」を立ち上げる岩崎彌太郎が土佐藩の開成館長崎出張所に赴任し、すぐさまグラバーとの商談に取りかかったという記録が残っています。貨幣制度が崩壊していた幕末においても、ビジネスマンの臭覚は敏感で、どこに商材があるのかを常にかぎまわっていたということでしょう。また、岩崎彌太郎と井上馨を結ぶラインも案外、グラバー商会にあったのかもしれません。


そのグラバーは貿易にとどまらず、日本での事業にも乗り出します。慶応4年(1868年)、肥前藩から経営を委託され、長崎の高島炭鉱にイギリス製の最新採炭機械を導入し、本格的な採掘を開始します。明治7年(1871年)、廃藩置県によって炭鉱はいったん官営となったのち後藤象二郎に払い下げられ、同14年(1881年)になって岩崎彌太郎が買収し、三菱の経営に移ります。また、薩摩藩と共同で長崎に日本初の洋式ドックを建設します。設備はすべてイギリスからの輸入でした。


さて、薩摩と長州とを握手させたのは、かの坂本龍馬だとされています。龍馬は長崎のグラバー商会の窓口としても活躍し、ビジネスマンとしての才覚もすぐれていたようです。薩長連合が誕生する1866年まで、薩摩藩は龍馬を介して洋式兵器は豊富に揃ったものの、食糧は不足していました。逆に長州藩では食糧は豊かにあったものの、近代兵器は揃っていませんでした。これでは幕府の長州征伐が決行されれば負けてしまいます。そこで龍馬が考えたのが、薩摩藩の武器と長州藩の食糧を交換させるという計画でした。龍馬はこの商談で大きな利益を得たとされています。


皮肉をこめていえば、幕末の混乱期に、大量の貨幣がグラバーなどの武器商人の手に渡ったということです。映画『ラスト・サムライ』にも武器商人の様子が描かれていますが、龍馬はグラバーを通じて利益をあげたということでしょう。巨額の資金がなければ、龍馬が貿易会社「海援隊」を組織し、自ら船を購入することなどできなかったでしょう。また、彼は紀州藩の軍艦との衝突事件(いろは丸沈没事件)では、紀州藩に賠償金を請求し、87000両という大金を手にするなど、巧みな交渉術も発揮しています。歴史小説やテレビドラマでは、坂本龍馬は日本の将来を案じたヒーローとして描かれていますが、そろそろ、したたかなビジネスの側面にも着目してほしいものです。

2007年11月24日

小栗上野介が駆け抜けた時代 30 銀行設立と財閥の誕生 銀行設立と財閥

今週から小栗上野介が幕末に実行した金融政策がひとつのアイディアとなって銀行設立にまで発展する過程と、それと並行して財閥が誕生していく様子をつづっていきます。

上野介が勘定奉行を務めていた頃、のちに三井の中興の祖となる三野村利衛門が上野介の屋敷に出入りしていたことは以前紹介しましたが、上野介が両替商・三井組に百万両の御用金の内示をした際に三井の代理人として御用金免除を上野介に訴えたのが利衛門でした。知恵のまわる利衛門は、泣き落としではなく、ある構想を上野介に提案したのです。


それは江戸幕府が江戸町人に商品担保の市中貸出しを営むというものでした。現代風にいうならば「中小企業金融公庫」の設立です。その資金十万両を三井組が請け負うという構想です。上野介は開港によって登場した外国商館が商人に対して前貸し金融を営み、全国の生産地をコントロールしつつあることを苦々しく思っていたので、三井組がその金融業務を代行してくれることを好都合だと判断しました。商人への貸出しにあたっては、商品担保を設定するからリスクは少ないと見込んだのでしょう。

こうして上野介は新たな金融政策を実施したのです。「江戸市中荷物御引当御貸付金」というのが、この制度の名前です。上野介は三井組に「御貸付金」の取扱いを命じ、御用金を大幅に免除したのです。


インフレと外国商館に利益を吸収されていた江戸や横浜の商人は、この金融制度によって活力を取り戻したといわれています。市中の問屋が資金を得て活性化し、外国商館の生産地支配を防ぐのに役立ったようです。当時経済的に困窮していた三井組は新規事業の進出によって危機を脱し、江戸の経済は活況を帯びるという一石二鳥の政策でした。


「江戸市中荷物御引当御貸付金」を実施するために三井組は「三井御用所」を新設します。こうして三井組は両替商以外の事業に進出し、三野村利衛門は三井組に正式に採用され、「三井御用所」に勤務することになります。以降、上野介の財政政策を三野村利衛門が支え、三井組がその政策の中核を成すようになっていきます。


By Master K/益田 慶

2007年11月25日

ヨーロッパの財閥と企業グループ 23 ロスチャイルド関連企業の研究 J・P・モルガン商会

これまでにお伝えしたようにロスチャイルド財閥は、世界の石油市場、ダイヤ・鉱物市場、金融業界に強い影響力を及ぼしています。これは婚姻関係や業務提携、M&Aなどによって完成したものですが、世界に散ばるユダヤ人のネットワークが水面下で動いていることも見逃せません。アングロサクソン系プロテスタントをメインに据えたアメリカの保守本流にもユダヤ系の資金、あるいはロスチャイルドグループの支援が入り込んでいます。

 
2000年、米国のザ・チェース・マンハッタン・コーポレーション(以下チェース)と、米国のJ.P.モルガン・アンド・カンパニー・インコーポレーテッド(以下J.P.モルガン)が経営統合し、「JPモルガン・チェース」という米国では第3位の規模の金融会社が誕生しました。同社は二ューヨークに拠点を置き、投資銀行業務、企業及び資産家向けの金融サービスを行っています。


そもそもアメリカの名門家であるモルガンは、初代のジョン・ピアポント(J・P)・モルガンがロスチャイルド家の支援を受けて立ち上げた「J・P・モルガン商会」を起源としています。その後、事業は息子に継承され、鉄鋼会社の買収で業界を再編。のちに製紙、電気事業にも投資を行い、モルガン家は金融王として名を馳せます。


1892年に発明王エジソンに擦り寄って設立した企業が、ゼネラル・エレクトリック(GE)です。続いて鉄鋼王カーネギーを買収してUSスチール社(現USX)を設立し、数年後には全米の電話を独占するAT&Tの買収に成功、並行して“死の商人”デュポンと組んでゼネラル・モータースを支配します。


20世紀前半にアメリカ産業界・経済界を二分したロックフェラー財閥とモルガン財閥。そのモルガン財閥が、ロスチャイルド財閥の支援で巨大化したということは、大きな意味を持っています。モルガン家はあくまでもアメリカの保守本流であり、一族はユダヤ人ではありませんが、ユダヤ系資本によってアメリカの財閥に君臨でき、鉄道、電気、電話、自動車産業を支配したということです。つまり、ユダヤ系資本が、今日に至るアメリカの基幹産業の一部を構築したのです。


やがて商業銀行と投資銀行を分離する銀行法(グラス-スティーガル法)が1933年に成立、モルガンも分割されることになりました。1935年に同法が発効されると、5代目ハリー・モルガンは2人のパートナーと約25人の従業員とともにJPモルガンから独立し、投資銀行「モルガン・スタンレー」を設立し、今日に至ります。5代目モルガンは、ゼネラル・モータース(GM)、ゼネラル・エレクトリック(GE)など、アメリカを代表する巨大企業の重役として君臨しました。


モルガン家の近親者たちは、イギリスにも「J・P・モルガン商会」を立ち上げました。1900年にはロスチャイルド一族のエドワード・グレンフェルが経営者になり、「モルガン・グレンフェル」が誕生します。同社は投資業務で高成績をあげましたが、1998年にドイツ銀行に買収されます。このドイツ銀行は、「ドイツのほとんどの産業を支配する」といわれる大企業だとイメージしてください。ドイツ銀行は、モルガン・グレンフェルを買収するというスタイルを取りながら、実質はロスチャイルド-モルガン連合がコントロールする巨大な企業に変貌したということです。


こうして金融業界の再編成を見まわすと、シティグループもJ・P・モルガン・チェースもメリル・リンチもゴールドマン・サックスもドイツ銀行もクレディ・スイスも、すべてロスチャイルド銀行の息がかかった企業であることがわかります。

そしてオーストラリア出身のメディア王ルパート・マードック、メディア帝国「ニューズ・コーポレーション」もまたロスチャイルド財閥が資金面の大きな後ろ盾になっているという興味深い話は、次週お送りします。


By Master K/益田 慶

小栗上野介が駆け抜けた時代 31 銀行設立と財閥の誕生 三井組

新政府へ資金援助を続けた三井組は、大政奉還が実施された慶応3年(1867年)、金穀出納所御用となります。つまり、新政府の資金の窓口を担うようになったのです。利権はこれだけではありません。会計事務局為替方も担当したので、新政府の経理や為替政策も担ったということです。


三井組は明治2年(1869年)、大阪の豪商に呼びかけ、貿易と金融の両方を業務とする「東京貿易商社」を設立。そののち金融業務を専門に行う「東京 為替会社」を誕生させ、東京貿易商社を「東京 通商会社」に改組し、貿易関係の業務を引き継ぎます。以降、「大阪 為替会社」「大阪 通商会社」といった具合に全国8都市にペアで設立されます。


前身となる東京貿易商社の設立は、三井組の大番頭に出世した三野村利左衛門の発案でしたが、小栗上野介が描いた「兵庫商社」の精神が受け継がれていることは明白です。業務内容も外国貿易のコントロール、貸付、預金、為替など兵庫商社の業務と似通っています。

通商会社は地方商社を通じて諸国物産の流通をコントロールします。全国から物産を集め、輸出するわけです。輸出によって得た利益は為替会社にプールし、「為替札」を発行します。この構想も上野介が描いた兵庫商社や「国益会所」と共通しています。


通商会社、為替会社はすぐに閉鎖されます。役員が「会社」運営についてよくわからなかったからです。三野村利左衛門は、共同出資の会社がうまく運営できないのなら、為替会社のかわりに三井組が単独でバンクを設立し、通商会社のかわりに貿易部門をつくればいいと考えました。この構想がのちに三井銀行、三井物産へと発展し、三井は日本屈指の財閥へと成長していくのです。


明治4年、利左衛門は「三井組バンク」の創立と紙幣発行の願書を明治政府に提出します。三井は幕末期、上野介の指揮のもと、紙幣発行を経験しています。利左衛門は、当時大蔵官僚であった渋沢栄一に「英語のバンクを何と訳すべきか?」と聞いたとされています。渋沢は「金行」か「銀行」か迷った末、「銀行」を選びました。利左衛門に銀行設立の内諾を与えたのは、当時大蔵大輔の職にあった井上馨でした。井上はのちに三井財閥の最高顧問になり“三井の大番頭”ともいわれる人物です。


三井による銀行設立の動きを察知した三井組のライバルも黙ってはいませんでした。「為替御三家」と呼ばれた三井、小野、島田のうち三井だけに銀行設立が認められたとあって、他の2社は巻き返しを図ります。小野組は、明治新政府の参与職外国事務掛となり、外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任した五代友厚を頼ります。五代は1869年に退官し、金銀分析所などを設立し、鉱山経営、紡績、製藍業などをはじめ実業家として道を歩んでいました。いわば大阪の実業家の大御所です。「三井が認められるなら小野組にも銀行設立の承認を」という五代の要求を、井上馨とその部下の渋沢栄一は無視できませんでした。


明治5年、三野村利左衛門は井上馨と渋沢栄一に呼び出されます。「三井が単独で銀行を始めるつもりなら、呉服業をやめなければいけない。呉服業を取るか、銀行を取るか、どちらかにしろ」と無理難題を押しつけたのです。明治に入ると、呉服店は時代の流れに添えなくなっていました。明治維新により、武家の得意先を失い、洋服も登場していました。利左衛門は呉服業をやめるべきだと考え、三井家同族を説得。こうして呉服業は分離され、「三井呉服店」となり、のちに「三井」の「三」と「越後屋」の「越」をとった「三越」が誕生するわけです。ここにも利左衛門の冴えた決断力が見受けられます。
明治5年、日本橋に高層西洋建築の建物が完成しました。三井はここで銀行をスタートさせようとしたのです。


By Master K/益田 慶

2007年11月26日

2007年11月26日 FX検定 きょうの問題 オーストラリア総選挙 政権交代

2007年11月26日 オーストラリアで総選挙が行われた。
11年半に及ぶ長期政権を保守・国民連合のハワード政権が終焉することになった。
選挙に勝った労働党党首はだれか。

正解 ケビン・ラッド党首

オーストラリア労働党のケビン・ラッド党首は、イラクからの戦闘部隊撤収を公約として戦った。ラッド次期首相の下で、オーストラリアは来年半ばまでに、イラクとその周辺に駐留する部隊約1600人のうち戦闘部隊約600人を段階的に撤退させる見通しである。米国のイラク戦略に影響を及ぼす可能性もある。

イラク戦争を支持しブッシュ米大統領の「最後の盟友」として知られるハワード政権は11年半ぶりに政権を手渡すことになった。長期的景気拡大による経済運営は評価されるが、イラク派兵、地球温暖化防止政策や長期政権による国民の飽きが敗因と見られる。

ブッシュ大統領と同様に国内産業への影響などを理由に批准を拒否したハワード首相は国民に「No」を突きつけられた。

選挙では、下院(定数150)の全議席と上院(同76)の40議席を改選。
労働党は下院で過半数の78議席を獲得、保守連合は56議席にとどまった。

ラッド党首率いる労働党の公約は、
1 環境問題
2 情報技術教育
3 イラク撤退
などである。

ヨーロッパの財閥と企業グループ 24 ロスチャイルド関連企業の研究 メディア王ルパート・マードック

今回は、ロスチャイルド財閥の支援を受けて時代の寵児となった著名な人物を紹介しましょう。
オーストラリア出身のメディア王ルパート・マードックです。彼は世界に築いたメディア帝国「ニューズ・コーポレーション」に君臨する帝王です。


マードックは、戦後にイギリスに渡ってオックスフォード大学を卒業すると、オーストラリアに戻って小さな新聞社を受け継ぎました。1968年にはロンドンに進出し、大衆紙「サン」を買収して頭角を現わし、1976年にアメリカに進出。「二ューヨーク・タイムス」を買収し、二ューヨークでの発行部数をトップに押し上げました。1981年にはイギリスの老舗「タイムズ」を乗っ取り、1986年には映画配給会社「20世紀フォックス」を買収したのち、アメリカでのテレビネットワーク「FOXテレビジョン」を設立します。アメリカ3代放送と呼ばれたNBC、ABC、CBSの牙城に食い込み、遂に“メディア王”と呼ばれるようになります。

 
このマードックの最も重要な資金面の後ろ盾が、ロスチャイルド財閥なのです。マードックはキリスト教徒ですが、彼の母親はユダヤ人富豪の娘として生まれました。つまり、マードックはユダヤ人として生まれ、キリスト教に回教したのです。マードックの筆頭法律顧問は、アメリカ・ユダヤ人会議会長ハワード・スコードロンでした。さらにマードックの経済顧問を務めているのは、二ューヨークのロスチャイルド社を率いてきた人物です。要するに、マードックがアメリカ進出を果たす際にバツクアップしたのが、アメリカのユダヤ人ネットワークだったのです。


マードックは1987年にイギリスの経済紙「フィナンシャル・タイムス」の株を20%取得してイギリス財界とのパイプを太くし、高級紙「タイムス」も支配します。テレビでは「BスカイB」(ブリティッシュ・スカイ・ブロードキャスティング)の株を40%取得します。一方、アメリカでは2002年にFOXテレビジョンが、アメリカのケーブルテレビネットワークとしてCNNを抜いてトップに立ちました。そして2003年、マードック率いる「ニューズ・コーポレーション」は、アメリカ衛星テレビ最大手の「ディレクTV」を運営するヒューズ・エレクトロニクス株の34%を取得し、手中におさめました。


母国オーストラリア、大学時代を過ごしたイギリス、そして市民権を獲得したアメリカでマードックは、このように次から次にマスコミ企業を買収してきました。その資金がロスチャイルド財閥から提供されていきたということは、何を意味しているのでしょうか。これはロスチャイルドグループによるマスコミ支配なのかもしれません。


このほかにもロスチャイルド財閥は、英国「ロイター通信」と米国「ブルームバーク」にも強い影響力を持っています。金融情報サービス会社を支配することで、多くのメリットがあるからでしょう。
ちなみに「ブルームバーク」の創立者マイケル・R・ブルームバーグは、シティグループが買収した、ロスチャイルド系の「ソロモン・ブラザーズ証券」のジェネラル・パートナーでした。エクイティ・トレーディング部、セールス、システム開発部の統括を歴任、退社した後、1981年にブルームバーグを設立。2001年6月、ニューヨーク市市長に選出されました。


このようにロスチャイルドグループは、金融、石油、化学、マスコミなど各分野にネットワークを張りめぐらせ、今日に至っています。彼らが表舞台に出ることは少ないですが、その系列をたぐり寄せていけば、ユダヤ人ネットワークやM&A、企業提携などによってロスチャイルド財閥が深く絡んでいることが見えてきます。


さて、次週からは日本人になじみの薄い「ヨーロッパ財閥」を紹介していきます。どうぞご期待ください。


By Master K/益田 慶

FXライフ 14 ユーロの歴史と欧州の通貨 財政安定化・成長協定

EUが安定経済を確保し、維持していくためにはいろんな方策があるだろう。「アメリカの対立軸としてEUが確固たる地位を築くためには、憲法を軸として超国家的な意思統一をしていく必要がある」と語る経済学者がいる。その提言の裏には、「EUはドルのような確固たる地位を築いていない。超国家的な意思統一ができていない」という含みがある。


1999年の導入以降、為替相場でユーロは不安定な動きをしてきた。これはユーロ圏がマクロ経済政策や経済構造への国際的信頼を市場から得ていないことを意味している。ある経済学者は「ユーロが信認を高めるためには、フランスやドイツが協定を遵守すべく財政再建を進める必要がある」と説いている。


ここで示されている「協定」とは、欧州連合が、ユーロ参加国に一定の財政規律を義務付けている「財政安定化・成長協定」のことだ。ユーロ価値安定のため、EU加盟国が放漫財政に陥ることのないよう、極端な不況など例外的な場合を除き、財政赤字を国内総生産(GDP)の3%以下に抑えるよう義務づけた。3年連続で3%を超えた場合には制裁金を科すなど厳しい内容で、景気悪化時に財政出動しにくいなど硬直性を批判する声が高まり、見直し協議が本格化してきた。


欧州の先進国は2004年まで、ITバブル崩壊後の景気低迷によって各国とも経済が伸び悩み、景気下支えの減税などで財政赤字が拡大した。ドイツやフランスなど、景気低迷に伴って財政赤字が協定の定める上限を超える国が相次ぎ、協定が現実的でないという見方が広がった。ここにユーロの制度的な問題点があらわになったのである。


金融、為替に関しては、「欧州中央銀行が現政策に固執した結果、障害が生じている」という指摘もある。EU域内の各国政府が欧州中央銀行に政策を委ね、自国に応じた金融政策を放棄した結果、慢性的な失業率(フランス9%台、ドイツ10%台)に対する有効的な対策を打ち出せないでいるのだ。事情の異なる各国の多様な動向を踏まえて、適切な政策を柔軟に打ち出す以外、解決への処方箋はなさそうだ。


アメリカの「ドル覇権」への反発から、「ドルに対抗しようとする試み」としての欧州通貨統合を持ち上げようとする傾向には、少し距離を置いて冷静に見つめたほうが得策である。


さて、欧州には旧ソ連の圧力によって共産化したり、領土を分轄させられたりした国が多くある。本年EUに加盟したルーマニアもそのひとつだ。1989年、当時のチャウシェスクの独裁政権がルーマニア革命によって打倒され、民主化された。通貨はレイ(RON)。民主化直後は高いインフレの影響で国民は厳しい生活を強いられたが、2005年に消費者物価指数が10%を下回り、EU加盟を目指してレイは強さを発揮してきた。


2006年の実質GDP成長率は7.7%、2005年に続き建築業(15.2%)が大きく伸びた。消費者物価指数は6.6%(2004年11.9%、2005年 9%)、失業率は5.2%、インフレ率は4.87%を記録。経済指標は総じて好調を示している。


ルーマニアは2005年、1万レイ=1新レウのデノミを実施した。これはEU加盟の布石であった。ルーマニアの経済は民主化まではロシアに依存してきたが、その比重は下がり、現在は欧州に傾いている。主な輸出国はイタリア、ドイツ、フランス、トルコなどだ。日本から見れば地味な印象に映るかもしれないが、ルーマニアは確実に成長している。2000年に40%を超えていたインフレ率が1桁になったことで、2004年に欧州委員会から「機能する市場経済」というステータスを認められた。2014年のユーロ導入を目標としているので、このまま堅実な成長を続ければユーロ導入は問題ないだろう。


By Master K/益田 慶

2007年11月26日

06:45 (NZ) 10月貿易収支
17:15 (香港) 10月貿易収支

小栗上野介が駆け抜けた時代 32 銀行設立と財閥の誕生 三井組ハウス

明治5年6月、三井が銀行業務を行うための「三井組ハウス」が日本橋に完成しました。しかし、三井単独の銀行設立に「待った」がかかります。この建物を三井・小野の「共同銀行」に譲るべし、という井上馨、渋沢栄一の命が下ったのです。当時の井上は大蔵大輔(現大蔵大臣)、渋沢は大蔵官僚でした。三井の大番頭、三野村はこれを拒否し、駿河町にあった両替店を急遽、新築の「三井組ハウス」に移転させたのです。


すると井上、渋沢は三井が務めていた政府の為替方を廃止し、「預かっている官金を即納せよ」と迫り、「三井・小野組合銀行」に大蔵省為替御用を命じるよう辞令を交付しました。そして政府は「三井組ハウス」をこの銀行に譲渡するよう、三井に命じたのです。三井は政府の決定に逆らうことをあきらめ、苦々しい思いのまま受け入れました。「三井組ハウス」は建築費の2倍以上の価格で譲渡されました。


この銀行は同年11月、正式に「第一国立銀行」と命名されました。これが日本初の“商業銀行”です。同行は日本最初の株主公募広告を新聞に掲載しましたが、応じたのは59名のみでした。役員として、頭取の上に総監役として渋沢栄一が就任。2年後、渋沢は頭取に就任します。これが日本の“役人天下り”の第一号です。渋沢はその後、東京ガス、東京海上保険、王子製紙、帝国ホテル、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなどの企業の設立にかかわります。


一方、三井は幕藩時代からのライバル小野組を排除したいと願っていました。明治7年、そのチャンスが到来します。当時、大蔵卿(現在の大蔵大臣)であった大隈重信が、三井、小野、島田に預けている官金の担保を3分の1から一挙に全学に増額させようと画策します。三野村は井上馨からその情報を入手し、全力を挙げて担保を準備しました。そして大蔵省から正式に通達が布告されたとき、小野組、島田組はまったく対策ができませんでした。結果、小野組と島田組は倒産します。三井は小野組の負債の整理を引き受けます。


同年、三井両替店は「為替バンク三井組」に改組。「第一国立銀行」から手を引き、2年後の明治9年、日本初の“民間銀行”を設立します。これが「三井銀行」の誕生です。創立願を受理した当時の東京都知事は、かつての幕臣、大久保一翁です。


一方、明治5年に大蔵省を辞任した井上馨は明治7年、大蔵省の益田孝とともに貿易会社「先収社」を創業。その後、政界返り咲きに成功した井上は、先収社の利権を益田に譲渡します。当時、三井の三野村は社内に「三井国産方」を設立し、貿易を担当させていました。これに目をつけた三野村は先収社と三井国産方を合併させ、ここに「三井物産」が誕生します。初代社長・益田は三井家の「雇われ社長」ではあったものの、経営の実権を全面的に委任されました。


三井は明治中期に「三井銀行」「三井物産」とも明治政府の公的業務を返上し、民間取引に専念。政商を脱却し、財閥の道を歩むことになります。旧三井物産は当時の国民経済にとって最大の生産物だった米の国内の流通整備を推進、さらに日本の米を日本の船でヨーロッパに初めて輸出することに成功します。また綿糸紡績業を支え、イギリスから最新鋭の紡績機械を輸入、中国、インド、米国からは綿花を輸入し、日本綿紡躍進の陰の立役者となります。


益田はのちに官営三井炭鉱の払い下げ入札で三菱の岩崎弥太郎と争い、落札に成功します。旧三井物産が飛躍的な発展を遂げたのは、三井鉱山の石炭があったからとされています。石炭の市場を上海、香港、シンガポールなどに開拓したのです。こうして益田は、明治40年代に巨大な三井財閥を完成させるのです。別の角度から見れば、それは最大のライバル三菱との死闘の歴史ともいえます。

By Master K/益田 慶

2007年11月27日

2007年11月27日

08:50 (日) 10月企業向けサービス価格指数
16:45 (仏) 10月住宅着工許可
18:00 (独) 11月IFO景況指数
18:30 (南ア) 第3四半期GDP
24:00 (米) 11月消費者信頼感指数
24:00 (米) 11月リッチモンド連銀製造業指数

小栗上野介が駆け抜けた時代 33 銀行設立と財閥の誕生 郵便蒸気船会社

三井が「三井銀行」と「三井物産」を設立したのが明治9年。その3年前に岩崎弥太郎は「三菱商会」を設立しています。自身の家紋である「三階菱」から取り、トレードマークに菱形を採用します。こうして民間の汽船運輸業をスタートさせます。


彼の前にたちはだかったのが、半官半民の「郵便蒸気船会社」。三井の三野村利左衛門と渋沢栄一の合作の企業です。これは現在でいうところの大蔵省主税局長であった頃の渋沢が地方から租税を中央に集めるために汽船を必要としたことから始まっています。半官半民とは、会社設立の資金が三井の管轄する国庫金から捻出されていたからです。つまり、政府の運営でありながら、その半分は三井グループの運営ということです。


見方を変えれば、幕末に小栗上野介が提示した「自前で船を造ることで近代化を推し進められる」というビジョンを、三野村が受け継いだともいえるでしょう。資金力に恵まれた郵便蒸気船会社の登場によって、民間の弱小海運業社は倒産していきました。しかし、郵便蒸気船会社にも弱点がありました。郵便蒸気船会社は官の気風が抜けずに高慢な運営をしていたのです。汽船運輸業を始めた岩崎弥太郎は、そこに活路を見いだしました。


弥太郎は当時の権力者である大久保利通や大隈重信に積極的に接近しました。明治7年、江藤新平が明治政府に対する「佐賀の乱」を起こした際、大久保はこれを鎮圧するために必要な海上輸送の一部を三菱商会に依頼。同年の「台湾出兵」の際には、これに井上馨、渋沢栄一が反対したため、大久保は彼らと親密な関係にある「郵便蒸気船会社」を使わず、三菱商会の船を使ったのです。
つまり、「大久保利通-大隈重信-三菱商会」というラインと、「井上馨-渋沢栄一-三井グループ(郵便蒸気船会社)」というラインが激しく対立したわけです。


弥太郎が政商として活躍しはじめ、郵便蒸気船会社と三菱商会の立場は逆転します。やがて郵便蒸気船会社は解散。同社が所有していた船18隻は政府が買い取り、政府所有の13隻の船とあわせてほとんど無償で三菱商会に払い下げされ、さらに三菱商会に助成金まで交付したのです。三菱商会はこうして日本近海の航路を独占することになります。大久保利通が暗殺されたのちは、大隈重信が三菱商会を援護し、上海航路を開くことを弥太郎にすすめます。


三菱商会は半官半民であった「郵便蒸気船会社」の業務を引き継ぎ、吸収する形で社名を「郵便汽船三菱会社」と改め、外国船の運賃より値下げした運賃で打って出ます。政府の支援もあり、三菱は徹底したディスカウント戦略で海外の海運業者を退けていきます。


政界から天下りした渋沢栄一が「第一国立銀行」の頭取に専念していた頃、時代の風雲児・岩崎弥太郎は「台湾出兵」や明治10年の「西南の役」などの軍事輸送で巨額の富を得、三菱は三井に匹敵するほどの富豪にまで成長していきます。明治10年末の時点で、郵便汽船三菱会社の所有する汽船は61隻。当時の日本の汽船総トン数の73%を占めるまでに至りました。


弥太郎は汽船を中心とする為替業、海上保険業、倉庫業と事業範囲を広げていきます。三菱で荷為替を組んだ製品はすべて三菱の船で運び、三菱の船で運ぶ荷物はすべて三菱の保険をつけ、三菱の倉庫に納めるというビジネスです。荷為替料、保険料、運賃、倉庫料のすべてで儲けたわけです。


三菱が海運を独占したことで直接打撃を受けたのは、益田孝率いる三井物産でした。わずかな汽船しか所有しない三井物産は、嫌でも三菱の汽船を利用しなければいけませんでした。三井物産は三菱に対して莫大な運賃を支払っていましたが、値引き交渉をしても岩崎弥太郎は拒絶し続けました。

渋沢と益田は弥太郎に反撃を開始します。独占の排除を訴え、三菱を敵対する地方の船のオーナー、問屋、荷主などに声をかけ、一大海運会社を設立し、三菱に対抗しようという狙いです。こうしてライバルは激突したのです。


By Master K/益田 慶

2007年11月28日

ヨーロッパの財閥と企業グループ 25 欧州財閥の系譜 ベアリング家

今週から日本人になじみの薄い「ヨーロッパ財閥」を紹介していきます。最初はベアリング家です。ロスチャイルド家のライバルと目されていたイギリスのベアリング家を無視して欧州財閥の歴史は語れません。


ベアリング家は1717年、ドイツのブレーメンから英国に渡り、現在でいうところの「マーチャント・バンク」を開設します。長期の信用供与(融資)と商業支援のための融資などを行う金融業者です。1763年に「ベアリング商会」を創業し、ロスチャイルド家が台頭するまでロンドンの金融界を支配してきました。その子孫の数で言えば、ロスチャイルド家を凌駕するほど膨大で、イギリス貴族のタイトルを6つも保有する大家族です。


家族経営としてスタートし、世襲制を敷いているところはロスチャイルド財閥と同じです。ほかにウォーバーグ家やブラウン家なども、他国からイギリスへ渡って成功したマーチャント・バンクです。
欧州支配を夢見たフランスのナポレオンがイギリス・オランダ連合国に敗れ、フランスが戦後の荒廃から復興するための資金を調達したのが、ロスチャイルド家とベアリング商会でした。また、1839年にイングランド銀行を恐慌による危機を救ったのもベアリング商会でした。
ベアリング財閥の子孫たちは、華々しい経歴の持ち主ばかりです。ベアリング証券(ベアリングズ)は1995年2月、シンガポール現地法人のデリバティブ取引失敗のために倒産しましたが、ファミリーは金融・産業界で活躍しています。


1991年に他界したジョージ・ベアリングは43歳で史上最年少のイングランド銀行総裁となり、国際決済銀行(BIS)理事として全世界の金融機関を動かし、ロスチャイルドグループ傘下の石油会社ロイヤル・ダッチ・シェルで重役を務めた人物でした。ジョージの父ローランド・ベアリングは、ロスチャイルド家の資金でイギリスが買い取ったスエズ運河会社の総裁を務めた人物でした。


ベアリング財閥の御曹司たちの肩書きは、英国の石油メジャーBP社会長、アングロ・アメリカン重役、航空リース会社GPAグループ会長など枚挙にいとまがありません。ちなみに前国連事務総長のブトロス・ブトロス=ガリは、祖父の代からベアリング家に育てられてきた家系です。BP会長ジョン・F・ベアリングがガリを国連総長に推したというのは有名なエピソードです。


ベアリング財閥はロスチャイルド財閥同様、イギリス貴族やアメリカの財閥との婚姻関係を経てファミリーを拡大してきました。アメリカのハリマン社を創業したブラウン家は現在もイギリス貴族の称号を得ていますが、ベアリング財閥とは親戚関係にあります。


欧州の歴史のある財閥といえば、忘れてはいけないのが「ギネス財閥」です。アーサー・ギネスがギネスビールの大量生産に乗り出したのは1759年のことでした。「ギネスブック」や「ギネスビール」で名高いギネス家は、アイルランド生まれ。ギネス家も男爵の称号を持つ貴族で、この一家からイギリスの政治家が数名生まれています。


ギネス財閥の企業といえば、ギネスグループと米国のグランメトロポリタンの合弁会社として誕生した、英国に本社を構える総合食品会社「ディアジオ」が名高いですが、ギネス家は酒造業者の横顔を持つ総合貿易商社、不動産開発会社と位置づけたほうがよいでしょう。ギネス家はロスチャイルド財閥、ベアリング財閥と組んで、中国の貿易商社ジャーディン・マセソン(後にアジアの拠点を香港、シンガポールに移行)を後押しし、中国経済に深く食い込んでいます。ジャーディン・マセソンはアジアを基盤に活躍する世界有数の貿易商社で、「マンダリン・オリエンタルホテルグループ」の経営で知られています。


蛇足ですが、ロスチャイルド家にギネス一族の女性が嫁いだことで、両家は親戚関係になっています。自分たちの資産と名声を保っていくには、家族・親族で団結するのが古今東西の財閥の生き方なのかもしれません。


By Master K/益田 慶

2007年11月28日

08:50 (日) 10月大型小売店販売額・速報
08:50 (日) 10月小売業販売額・速報
16:10 (独) 12月GFK消費者信頼感調査
18:00 (ユーロ圏) 10月マネーサプライM3・季調済
18:30 (南ア) 10月消費者物価指数
19:30 (スイス) 11月KOF先行指数
22:30 (米) 10月耐久財受注
24:00 (米) 10月中古住宅販売件数
28:00 (米) 米地区連銀経済報告(ベージュブック)

世界資源戦争 1 はじめに

今週からスタートする「世界資源戦争」は、世界経済が化石燃料や金、ダイヤモンドのように経済的な価値の高い資源の奪い合い、資源を有する国の利権争い、資源の売買によって動いてきたこと、そして現在も動いていることを説明し、投資ライフの参考にしてもらうためのコラムである。金融や投資とは一見関係ないように見えるかもしれないが、各国が有する資源量や流通ルートによって相場が動いていることや、世界の企業グループや財閥の資金源が、石炭や石油、天然ガス、ダイヤモンドなどの利権から生まれ、その資金をもとに金融ビジネスが行われているケースは少なくない。つまり、資源と金融は深くむすびついているのである。


「資源」といった場合、知財や技術、ノウハウといった無形のものを比喩的に含めるケースや、森林、河川、湖など自然環境を「産業資源」「観光資源」などと呼ぶケースがあるが、このコラムでは、石炭、石油、天然ガスなどの化石燃料、チタン鉄鉱やウラン鉱石、ダイヤモンドといった鉱物、鉄に代表される金属、金に代表される希少金属、ウランのような核燃料などを対象とする。主に地中や海底に埋蔵されている地下資源で、特に人間に有益であるものの総称と定義しておく。


これらに共通するのは、いつかはなくなる消滅型資源であること、特定の目的のために加工されて使われることが挙げられる。また、生産地は地理的に偏りがあり、採掘や加工に専門技術や莫大な費用がかかるため、世界のすべての国がその資源の恩恵を享受しているということではない。特定の国や地域、企業が生産と販売を独占したり、価格決定権を有したりすることから、資源によって富める国や企業とそうではない国や企業の格差は、すこぶる大きい。


わかりやすい例が石油産出国だ。石油産出国の利権を守るために1960年に誕生したOPEC(オペック)は、国際石油資本(オイルメジャー)が産油国の了承なしに原油公示価格の引き下げを発表したことに不満を抱いたことから設立された石油輸出国機構だが、加盟国はイラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、カタール、リビア、アラブ首長国連邦などアラブ諸国に集中している。石油の埋蔵量、採掘量とも世界一とされる、OPECの盟主サウジアラビアは、石油の掘削と輸出が主な外貨獲得源(石油が外貨収入の約90%を占める)となっており、石油で獲得した外貨を世界各国で投資、運用しているのは周知のごとくだ。仮にサウジアラビアの王族に属する一人の王子がそのケタ違いの全資産を投資に注いだとしたら、世界経済はやはり大きな影響を受けるであろう。その王子の資産の源は石油の利権でしかないというのに、世界経済を水面下で動かすだけの資金を有しているのである。


産業革命以降に起こった多くの戦争の原因をひもといてみれば、宗教や民族の対立だけでなく、豊かな地下資源を有する国をなんとか支配したいとする国と、資源を渡してなるものかと抗う国の思惑から生まれたものが多いことに気づくだろう。人類は資源の保有をめぐって戦争にまで発展するのである。いや、実際の武力による戦争にまで発展しなくても、利権の独占や企業買収などは経済界を戦場とした資源戦争である。世界資源戦争が各地で、各国の間で、さらに各企業の間で繰り返されるのは、とりもなおさず資源が莫大な金になるからである。


「世界資源戦争」は、各国が有する資源を紹介しながら、その資源を商品化、産業化して資産を増やしてきた国や企業を取り上げていく。そこには石油シンジケートやダイヤモンドシンジケートといった闇の世界史も同時に横たわっている。各国の経済・金融支配者たちの横顔も見えてくるかもしれない。同時代的に展開している「世界資源戦争」の中身を知ることが投資ライフの参考になれば幸いである。


By Master K/益田 慶

小栗上野介が駆け抜けた時代 34 銀行設立と財閥の誕生 三菱商会

1873(明治6)年に岩崎弥太郎自身が社長となって“三菱”を名乗り、三菱商会、三菱蒸汽船会社、郵便汽船三菱会社と改名を重ねながら、活発な活動を展開していきました。明治7年頃から、日本の海運業は三菱に独占されたのです。


三菱を敵視する渋沢栄一と井上馨、三井物産の益田は、三菱の営業スタイルに反感を抱いている地方の船オーナー、問屋、荷主などに声をかけ、反三菱グループを設立しようと企てました。「一大海運会社を設立するから出資してほしい」と打診したのです。このときに誕生したのが「東京風帆船会社」です。しかし、岩崎は次の手を打ち、「三菱が全面協力するから、自分で物産会社を設立してはどうか」とすすめたのです。この誘いが巧みだったのか、三菱は明治15年頃まで海運業を独占しました。


しかし、時代の風は常に順風とは限りません。1882年、反三菱勢力の急先鋒、東京風帆船会社と北海道運輸会社、それに三菱系の越中風帆船会社の3社が合併して「共同運輸会社」が創立します。当時の金で資本金600万円という巨大企業で、260万円を政府が出資しました。そして郵便汽船三菱会社と同じ航路、同じ時間の就航をスタートされるのです。三菱は再度値下げ攻勢に出て、共同運輸を撤退させようと画策します。受ける共同運輸もさらなる値下げで対抗しました。競争は激化し、両者の争いはもはや政府が放置できないところまで達します。


1884年、岩崎弥太郎が他界します。1885(明治18)年には、共倒れと混乱を恐れた政府が両社の間に入り、郵便汽船三菱会社は反三菱派が後押しする政府保護の共同運輸会社と対等合併を強いられました。こうして誕生したのが「日本郵船会社」です。出資は共同600万円、三菱500万円と評価されました。表面的には三井が実権を握っているように見えますが、共同の株式は分散しており、なお岩崎に買い占められていました。従って重役は三菱系で占められました。これにより三菱は、中心事業であった海運業の独占状態から三井との合併会社となり、社員の多くが新会社の日本郵船会社に移籍しました。


この日本郵船が、日本の近代的株式会社のシンボル的存在となるのです。伊藤博文までが会議に参加したとされています。日本最初の定年制、日本最初のボーナス制、日本最初の退職金制度など、日本最初の会社制度が日本郵船から始まっています。これは小栗上野介が、横須賀製鉄所運営に用いようとした手法によく似ています。


さて、その後、三菱が事業を継続できたのは、生前、岩崎弥太郎が海運に代わる営業部門を確保していたことによるでしょう。先見の明があったということです。1873(明治6)年の吉岡鉱山や1881(明治14)年の高島炭砿の買収に始まる鉱業(三菱鉱業の前身、現・三菱マテリアル)、1884(明治17)年の官営長崎造船所(現・三菱重工業)を借り受けて進めた造船業などがそれです。これらの二つの事業は以後、三菱が推進する事業の中核となります。


1885(明治18)年に2代社長に就任した弥太郎の弟の弥之助は、三菱社を設立し、鉱業、造船を中心に会社の再興を図りました。やがて日本郵船も三菱に復帰し、1893(明治26)年に、弥之助は軌道に乗った三菱社を三菱合資会社に改組します。

なお、弥太郎の時代に東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)、明治生命保険(現・明治安田生命保険)、三菱為換店(現・三菱東京UFJ銀行)が設立されています。こうして三井を追いかけるように、三菱も財閥への道を歩いていったのです。

By Master K/益田 慶

2007年11月29日

2007年11月29日

06:45 (NZ) 10月住宅建設許可
08:50 (日) 11/24までの対外及び対内証券売買契約等の状況
08:50 (日) 10月鉱工業生産・速報
16:45 (仏) 11月消費者信頼感指数
17:55 (独) 11月失業者数
17:55 (独) 11月失業率
18:30 (英) 10月マネーサプライM4・確報
18:30 (英) 10月消費者信用残高
18:30 (南ア) 10月生産者物価指数
22:30 (米) 11/25までの週の新規失業保険申請件数
22:30 (米) 第3四半期GDP・改定値
22:30 (米) 第3四半期個人消費・改定値
22:30 (加) 10月鉱工業製品価格
24:00 (米) 10月新築住宅販売件数

4 江戸幕府の支配統制 江戸幕府の官僚統制

家康を征夷大将軍に据えた江戸幕府の官僚統制も、藩主をトップに置く各藩の支配統制も、封建的主従関係をベースにしている点では同じ構造である。


1590年、家康は秀吉の命令で、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国の領主から、北条氏の旧領である武蔵・伊豆・相模・上野・下野・上総・下総の7カ国に移封された。150万石から250万石への加増であったが、家康にとって縁の深い三河の土地を失い、まだ拓けていなかった関東に移されたことは辛酸をなめる思いであったことだろう。


関東に入った際、徳川氏の直轄領は江戸の周辺だけだった。しかし、その頃から家康は有力な家臣(上級家臣)を江戸から遠方の重要な支城に配置した。たとえば榊原康政(10万石)を上州館林に、井伊直政(12万石)を上州箕輪に、結城秀康(10万石)を下総結城に、本多忠勝(10万石)を上総大多喜に、大久保忠世(4万石)を相州小田原に配置した。彼らは謀反を企てないであろう支店長クラスであり、それぞれが軍隊を率いるリーダーであった。


一方、およそ100万の直轄地には、伊奈忠次や大久保長安などの有能な家臣を「代官」などに据え、統治していった。その代官クラスは、主に武田・今川・北条の旧臣を登用した。つまり、かつてはライバルグループにいた途中入社の優秀な人材を抜擢したのである。これに意気に感じた途中入社組は徳川コンツェルンに忠誠心を誓ったことだろう。


この統治の仕方は、家康独自の人材登用法の結晶である。家康は井伊や本多など、いわゆる「生え抜き」の武将によって強力な軍団を形成し、途中入社組のうち有能な行政官・財務官を側近に抱え、領国統治と財政を固めたのである。豊臣政権下で最大の領地をもつ徳川グループは最も強力な軍隊と豊かな行政・財政を築いていったのである。家康がやがて覇権を握った基礎は、こういった関東領地経営の成功があったからであろう。


さて、江戸幕府を開いた家康は1605年、将軍の職を三男・秀忠に譲り、その後は大御所と称せられるようになる。政治の実権は大御所が握り、中央政権の法的な主権者は将軍ということになる。家康は「政権の主権者は代々徳川の本家が世襲するのだ」という伝統を早くにつくりあげてしまったのである。個人の資質でなく、将軍という役職が権威を示し、また徳川家が絶対的な権力を握っていることを諸大名に知らしめるこの手法は、統治の仕方として卓越している。これは徳川家の側近も諸大名も将軍の代が替わっても自動的に徳川家に臣従するというシステムだ。借家なら定期的に契約更新手続きがあり、プロ野球選手なら定期的に球団との契約更新が行われるが、徳川家と家臣、諸大名の関係は半永久的に継続されるのである。これも「小さな政府」を築くうえで重要なファクターのひとつである。


江戸幕府設立初期に軍事・政治両面でキーマンとなったのは、酒井忠次、井伊直政、本多忠勝、榊原康政といった「四天王」である。これら側近にとって、徳川家は代々の主君。よって四天王の子供たちも徳川家に仕えることになる。たとえば本多忠勝の息子、忠政は伊勢桑名藩の第二代藩主となり、のちに播磨姫路藩の初代藩主、かの姫路城主となる。つまり、家臣たちも徳川家から与えられた領地の領主の地位を引き継いでいったのである。これは家の継続・繁栄のためにつくられた徳川家のシステムと相似している。


一方では、本多正信のように家康の側近として幕政を実際に主導する立場の者も登場する。家康から家光に至る徳川三代を描いた時代劇では、本多正信に代表される「吏僚派」と本多忠勝に代表される「武功派」の権力抗争がよく描かれるが、それはむしろ幕府に有能な人材が揃っていたことを物語っているといえよう。これは前述した家康の統治制が人材育成に大いに貢献したことを証明しているといえよう。家光によって大老に格上げされた土井利勝、酒井忠勝などが幕府の支配体制を確立していく。


By Master K/益田 慶

小栗上野介が駆け抜けた時代 35 銀行設立と財閥の誕生 三井と三菱

幕末に「兵庫商社」を設立した小栗上野介。その小栗から多くのことを学んだのが後に「三井の中興の祖」と呼ばれる三野村利左衛門です。彼は三井銀行の礎を築きました。三野村の死後、三井の後継人として活躍したのが渋沢栄一でした。第一国立銀行、東京株式取引所などを設立したのも渋沢です。
一方、幕末に活躍した坂本龍馬の海援隊の行動パターンを引きづいたのが、後に「三菱」を立ち上げる岩崎弥太郎でした。


三井はその出発点が呉服屋および両替商で、幕末、維新の転換期には、事業を金融および貿易という分野に絞り込み、一部の事業を切り捨てました。生産よりも商業コミッション、あるいは金融分野で利益をあげることが三井の事業の中心にあったということです。旧三井銀行の設立も、この流れの上にありました。


これに対して三菱は、海運事業からスタートし、造船、商事、銀行、地所などの事業へと枝分かれしていきました。海運業を母体としたことから、必然的に船舶の修理、建造を必要とし、機械工業と関連しながら重工業への道を切り開いていくことになります。このため軍需産業のウェイトが高くなり、いくつかの戦争で兵器を製造することになります。三菱は創業社長の岩崎弥太郎、2代目の弥之助 (弥太郎の弟)、3代目の久弥 (弥太郎の長男)、4代目の小弥太(弥之助の長男)まで、岩崎家が社長を務めました。これは他の財閥グループには見られないことです。世に言う「岩崎家」とは、岩崎弥太郎と2代目の久弥の2家系からなることがわかります。この両家が実権を握って企業の舵取りを続けた点が、三菱の特徴といえるでしょう。


2代目の久弥は1896年(明治26年)に、その経営手腕を買われ、第4代日本銀行総裁に就任しています。三菱為替店が三菱銀行に改組されたのは1919年です。ちなみにUFJ銀行を経て、東京三菱UFJ銀行へと合併されていく三和銀行と東海銀行は、当時まだ誕生していません。


1919年当時、すでに営業していた銀行は、
(1) 三井銀行(のちに太陽神戸三井銀行→三井住友銀行)
(2) 住友銀行(のちに大阪銀行→住友銀行→三井住友銀行)
(3) 横浜正金銀行(のちに東京銀行→東京三菱銀行→東京三菱UFJ銀行)
(4) 安田銀行(のちに富士銀行→みずほ銀行)
(5) 第一銀行(のちに第一勧業銀行→みずほ銀行)
(6) 大阪野村銀行(のちに大和銀行→りそな銀行)
(7)北海道拓殖銀行(1997年に破綻)


三菱は、銀行としては後発ながら、その後、東京銀行やUFJ銀行を吸収し、現在まで生き残っているということです。


さて、第二次世界大戦後の企業分割(財閥解体)で痛手を受けたのは、三井より三菱のほうが大きかったと想像できます。事実、三菱は激しく抵抗したが、三井は財閥内でむしろ三井本社の解体論が台頭していたとされています。


1946(昭和21)年9月、三菱本社は正式に解散し、三菱各社は戦後の混乱の中で、それぞれ独立した会社として苦難の道を歩み始めました。GHQの指令は、関係会社の社長や幹部の追放と解散に及び、三菱の商号や商標の使用も厳しく制限されました。戦後、三井本社、三井物産も同じく解体されました。三井、三菱、住友、安田の4財閥、これに富士産業を加えた5社が財閥解体の第1次指定になりました。


以降、多数の会社に分散した財閥系企業は、現在の企業グループへと形を変えて発展していくのです。


『小栗上野介が駆け抜けた時代』は、次週からは再び江戸時代に戻り、ゴールドラッシュに沸くアメリカ、当時世界の海を支配していたオランダやアジア侵略を図っていたイギリスなどの諸国の動向を追いながら、人物の交流や貿易などにスポットを当てて展開していきます。


By Master K/益田 慶

2007年11月30日

ヨーロッパの財閥と企業グループ 26 欧州財閥の系譜 ドイツ財閥

ヨーロッパの財閥には、流通・小売り事業で富を築きあげたファミリーが多くいます。今回はドイツを中心に紹介していきます。


世界最大の小売業、アメリカに本社を構えるウォールマート・ストアーズ社がドイツで苦戦している理由のひとつに、ドイツにディスカウントを中心とする「アルディ」やスーパーマーケット「メトロ」といった地元密着の店舗が存在することが挙げられます。


アルディ社はドイツを中心に10ヵ国で約4000の店舗展開をする企業。その核となる「アルディ」は、カールとテオのアルブレヒト兄弟が第二次世界大戦後まもなく始めた格安チェーン店で、徐々に消費者に受け入れられ、2人は今では320億ユーロ(約4兆8000億円)の資産を持つドイツ屈指の大富豪兄弟です。雑誌『フォーブス』の発表による「世界長者番付」2006年版によると、兄のカールは総合13位(ドイツ国内1位)、テオは総合22位(ドイツ国内2位)となっています。


一方のスーパーマーケット「メトロ」を経営するのは、オットー・バイスハイム一族です。「世界長者番付」では150~160位ですが、ドイツ長者番付のベスト10にランクインしている財閥で、小売業「メトロ」グループは、世界の小売業売上高ランキングで第3位(2004年度)を占めています。日本では丸紅と提携し、日本にも進出(千葉県)しています。


ドイツの流通財閥といえば、通販・カタログ事業で世界一の規模を誇る「オットー・フェルザント社」を経営するミハエル・オットー一族を忘れてはいけません。ドイツではアルブレヒト兄弟(1位、2位)に次いで3番目の資産額を保有しています。同社は海外戦略に力を注ぎ、アメリカ関連企業への投資のほか、1986年に住友商事と提携し、「住商オットー」を立ち上げ、通販事業を展開しています。ちなみに住商オットーは、化粧品会社ロレアル(フランス)と提携しています。ロレアルを経営するリリアンヌ・ベタンクールは、創業者の父親から会社を引き継いだ、フランス屈指の資産家。住友商事を介してドイツとフランスの有力ファミリーがつながっていることがわかります。


さらにドイツにはスーパーマーケットを中心に展開するテングルマン・グループがあります。これを支配するのがエリファン・ハウブ一族です。こちらもドイツで有数の財閥を成しています。
ドイツの自動車メーカーではBMWが著名ですが、当社のオーナーであるズザンネ・クラッテンも世界の億万長者。BMWはもともとは航空機用エンジンのメーカーでしたが、第一次世界大戦でのドイツ敗戦後、飛行機の生産を制限され、1923年にオートバイ生産へと転換しました。
その後、4輪車の製造を開始し、1994年にはイギリスのローバーグループ(現MGローバー)を買収するなど、自動車業界の“勝ち組”として君臨しています。40年もの間、赤字を出していないといわれるほど経営状態は良好です。


 ドイツにはほかにも世界28カ国62地域に自社工場を持つ、世界最大の医薬品メーカー「メルク」があります。1827年、世界で初めて痛みを和らげるモルヒネ類の製造に成功。1930年代、世界で初めてビタミンCの工業生産に成功し、抗がん剤「エルビタックス」、脱毛治療剤「プロペシア」の開発に成功しています。アドルフ・メルクレ会長は資産1兆円を超える大富豪です。


雑誌『フォーブス』の発表による「世界長者番付」2006年版では、トップ100の国別ランキングでアメリカ38人に次いでドイツ15人が第2位となっています。スウェーデン、フランスは5人、イタリア4人、イギリス、スペイン2人という結果です。欧州財閥と企業グループを知るうえで、どうやらドイツ、スウェーデン、フランス、イタリア、イギリス、スペインといった国がポイントになりそうです。


By Master K/益田 慶

FXライフ 15 ユーロの歴史と欧州の通貨 ポンドとユーロ

ユーロの歴史を語るうえでイギリスとの関係を避けて通ることはできない。イギリスは、ご存知のようにユーロ通貨統合には参加していない。世論調査では、英国民の3分の2はユーロ加盟に反対を示している。その理由として「現状でも経済成長率はEU内でNO.1」「女王様の印刷されたお札に愛着がある」「ユーロ導入国のドイツ、フランスの経済が低迷している中、今のポンドからユーロに移行する積極的な理由は見えない」といったものが大半を占める。見当違いのコメントもあるが、これはイギリスが島国で、ヨーロッパ諸国と適度な距離を保っているという地理的背景と、かつてイギリスが世界の覇者でポンドが基軸通貨であった歴史を背負っているからであろう。英国民のプライドの高さは世界屈指とされるのは、かつて世界最強の海軍を擁してアフリカやアジア諸国、アメリカを植民地とし、世界に先駆け産業革命に成功した国だからだろう。


女性として初めてイギリス保守党党首になり、首相に就任(在位1979~1990年)したマーガレット・サッチャーは、イギリス経済の復活と「小さな政府」の実現を公約とした。新自由主義の立場に基づき、サッチャーは80年代に電話会社、ガス会社、空港、航空会社、水道事業など国有企業の民営化や規制緩和、金融政策などを推し進めた。所得税、法人税は段階的に引き下げられた一方で、付加価値税(消費税)は8%から15%まで引き上げられた。


イングランド銀行が大幅な利上げを行ったためインフレは抑制できたが、失業数は倍増。失業率は1986年半ばまで減少することはなかった。その後、サッチャーはインフレを起こさない程度に金利の引き下げや財政支出の拡大などを通じて景気を刺激し、景気回復を図り、財政赤字を克服し、イギリス経済を立て直した。しかし、公的分野にも競争原理を導入したことや金持ちを優遇するような政策は弊害とされた。


イギリスが転機を迎えたのは、1992年秋に起こった、ポンドの為替レートが急落する「ポンド危機」であった。欧州共同体(EC)は、域内通貨の統合に向けて域内通貨間の為替レートを事実上固定する欧州通貨制度(EMS)と欧州為替相場メカニズム(ERM)を進めていた。ERMに参加していたイギリスは、ポンドとEC諸国との為替レートを一定の枠に収めなくてはならなかった。


一方、1990年の東西ドイツの統一以降、旧西ドイツ政府による旧東ドイツへの投資が増加し、欧州の金利は高水準にあった。高めの金利が欧州通貨の増加をもたらし、ポンドも次第に過大評価されていった。


そこに目をつけたのが、当時「クォンタム・ファンド」を率いていたジョージ・ソロスは、「過大評価されたポンドは、大幅な切り下げに追い込まれる」と予測した。ソロスはイギリス政府の為替介入に対抗し、イングランド銀行を相手に100億ドル相当のポンドを売りまくった。ポンドへ「空売り」を行い、安くなったところで買い戻したのである。ソロスは、「ポンド危機」によって10億~20億ドルの利益を得たと言われている。


当時、激しいポンド売りによって変動制限ライン(上下2.25%)を超え、イングランド銀行は公定歩合を10%から12%へ引き上げ、さらに15%まで引き上げた。それでも、ポンド売りは止まらず、イギリスはERMから脱退せざるを得なくなった。この結果、イギリス・ポンドは変動相場制へ移行し、1995年まで減価を続けた。イギリスは周知のとおり、現在もユーロを導入するには至っていない。


イギリス・ポンド(GBP)は、為替変動の幅の大きな通貨だ。通貨名は、大昔、1トロイポンド(イギリスの薬剤師や宝石商によって使用されていた質量の単位)の銀から硬貨が作られていたことに由来する。英国の2005年の実質GDP成長率は製造業の落ち込みが響いて1.8%と、92年以降で最低の伸びとなったが、2006年は2.8%までアップした。同年の物価上昇率は2.3% 、失業率は5.4%。日本から英国への直接投資額は37,595億円。これはオランダに次いで二位である。ともあれ、英国はアメリカ、欧州、ロシアにとっても常に意識せざるを得ない大国であることは事実である。


By Master K/益田 慶

2007年11月30日

08:30 (日) 10月失業率
08:30 (日) 10月有効求人倍率
08:30 (日) 10月全世帯家計調査-消費支出
08:30 (日) 11月東京都区部消費者物価指数
09:30 (豪) 第3四半期経常収支
15:45 (スイス) 第3四半期GDP
15:45 (スイス) 11月消費者物価指数
18:00 (香港) 10月月次政府財政収支
19:00 (ユーロ圏) 11月消費者物価指数・速報
19:00 (ユーロ圏) 第3四半期GDP・改定値
19:00 (日) 外国為替平衡操作の実施状況(10月30日~)
19:30 (英) 11月GFK消費者信頼感調査
21:00 (南ア) 10月貿易収支
22:30 (米) 10月個人所得
22:30 (米) 10月個人支出
22:30 (米) 10月PCEデフレータ
22:30 (米) 10月PCEコア・デフレータ
22:30 (加) 9月GDP
22:30 (加) 第3四半期GDP
23:45 (米) 11月シカゴ購買部協会景気指数
24:00 (米) 10月建設支出

2007年11月30日 FX検定 きょうの問題 北朝鮮問題に進展があるか 12月19日韓国大統領選

キム・デジュン、ノ・ムヒョンと2期10年に及ぶ左翼政権が続いてきた韓国だが、政権政党であるウリ党の苦戦が伝えられている。政権交代が行われた場合、最有力視されているのはイ・ミョンパク前ソウル市長であるが、この候補を擁立している最大野党はどこか?


正解 ハンナラ党


保守野党ハンナラ党は前ソウル市長のイ・ミョンパク(李明博)氏を大統領候補として擁立した。
イ・ミョンパク氏は経済界出身で、36歳で大手建設会社の社長に就任し若手経営者として注目を浴びていた人物である。一介のサラリーマンから若くして出世したためサラリーマンの鑑として神話化されている。


イ・ミョンパク氏はハンナラ党の予備選挙で、前党代表のパク・クネ氏を破って大統領候補となった。韓国民の不満は、ノ・ムヒョン大統領の経済政策に大きな不満を持っており、イ・ミョンパク氏の経済手腕を評価されての大統領候補選出となった。


イ・ミョンパク氏はすべての世論調査で他候補をリードしており、次期大統領に最も有力とされている。北朝鮮問題では、イ・ミョンバク氏は、ノ・ムヒョン政権の対北朝鮮政策を「国家が危機に陥っても一方的な融和政策を続けた。」と批判し、融和政策の見直しを訴えている。同時に、「核放棄を条件に、経済協力を通じて、北朝鮮の一人当たりの国民所得を10年以内に今の3倍の3000ドルにする。」構想を示している。

強硬姿勢だけではなく、硬軟織り交ぜで南北経済協力に柔軟な姿勢を見せている。宥和政策に変更はないものの、これまでのような北化した韓国ではなく、一定の距離を置いた政策となるだろう。
過去、韓国の保守政権は一貫して対北強硬姿勢で臨んできたが、左翼政権下の10年間に国民の対北意識は変化し、一方的な敵視策をとるのは選挙戦に不利とするのが大方の見方である。保守政党であってもある程度の宥和策は取らざるを得ないのが現状である。


選挙におけるハンナラ党の課題は、予備選で激しく戦ったイ・ミョンバク氏とパク・クネ氏との間にしこりが残っており、挙党体制が築けるかどうかだ。過去に予備選で敗れた候補者を応援したことがないというのが歴史的事実だ。民主統治というよりも人治統治といった色合いが強い韓国で、民主的手続きを経ながら政党政治が進められるのかどうかが見ものである。

一方の与党であるが、現実的にはすでに与党は存在していない。ノ・ムヒョン大統領のあまりの不人気に与党は事実上崩壊状態で、今回の選挙は11月5日発足した新党「大統合民主新党」が事実上の与党で、この新党は民主新党によるウリ党の吸収合併である。

民主新党は2007年に入ってウリ党から独立した政党である。ノ・ムヒョン大統領の不人気を嫌ってできた党である。分離して分離した政党が元の政党を吸収しただけであるから実態は変わらない。所属議員143人のうち138人は元ウリ党議員である。

ノ・ムヒョン大統領の不支持率は80%を超え、レームダックどころか両足がない状態である。

与党からは多くの大統領候補が手を挙げたが、民主新党の大統領候補となったチョン・ドンヨン氏が有力である。テレビのニュースキャスターから政界入りし、ノ・ムヒョン政権で統一相を努めたほか、ウリ党の議長にも着いたことがある。早い段階からノ・ムヒョン大統領の有力な後継者と見られていたが、今年に入り、大統領と袂を分かってウリ党を離党し、民主新党の設立に参画した。


政治的なスタンスは、革新陣営の中では、中道派と見られている。さらに革新陣営からは、ムン・グクヒョン氏と言う政治の世界では無名の会社経営者が、大統領選挙への立候補を表明している。


2007年12月13日 追記
イ・ミョンパク(李明博)氏は、大阪出身で知日派である。親日かどうかは不明だが、リベラルな福田首相との間に日韓関係の距離を縮める外交政策を取ると予想される。
大統領選における韓国民の最大関心事は経済政策である。60%以上が関心事として第1位に上げている。(KBS)


2007年12月15日 追記
選挙まであと3日と迫ってきたが、情勢が大きく変化している。野党側からイ・へシャン(李会昌)氏が立候補し分裂選挙となったためだ。イ・へシャン氏は、イ・ミョンパク氏と大統領予備選で激しく争ったパク・クネ氏と路線が同じで急速に保守層の支持を集め、野党側の票を割っていた。また、与党サイドが仕掛けていたBBK(投資ファンド)による株価操作疑惑の背後にイ・ミョンパク氏が実質オーナーとして存在しているとの政府・検察・マスコミを挙げてのキャンペーンにより、イ・ミョンパク氏の支持率は低迷していた。

さらに政府与党による金大中氏拉致事件の機密文書公開、日本非難にによって反日発言、報道を煽り、日本の反論を待って保守陣営への打撃を画策していた。しかし、政府与党の目論見に反し、日本政府は冷静な対応に終始し、韓国内の反日論議を巻き起こすに至らなかった。さらに検察はBBK事件とイ・ミョンパク氏とは無関係との結論を出し不起訴処分とした。これにより2030世代(若者層)の支持はイ・ミョンパク氏に傾いた。追い打ちをかけるようにかつての政敵パク・クネ氏がイ・ミョンパク氏支持を表明し、実質的に保守は一本化された。これまでの動きからするとイ・ミョンパク氏の勝利はほぼ確定的である。

これまでの動きで注目すべき点は2つある。
第1に、パク・クネ氏の行動発言である。韓国では歴史的に予備選での対立候補が最終候補者を支持することはなく、民主主義というよりも人治主義的傾向が強かったが、今回はパク・クネ氏の民主的判断が選挙民に与える影響は大きい。

第2点は、検察は常に政権政党につくという点である。政府与党によってBBK事件は政争の具として取り上げられたが、検察は次期政権は保守イ・ミョンパク氏と読んだようだ。選挙選後、例によって前政権は不正を暴かれることになるだろう。すでに多くのスキャンダルを抱える金大中一族もさることながらノ・ムヒョン大統領の不正行為の掘り起こしが行われるだろう。政権が変わっても経済状況が急に好転することはなく、5%の経済成長が不動産バブル、北朝鮮のために使われて帳消しとなっている現状からそう簡単に脱却できるとは思われない。国民の目を逸らすために不正追及は必至である。

2007年12月19日 韓国大統領選 イ・ミョンバク氏勝利 10年ぶりに政権交代 保守ハンナラ党

小栗上野介が駆け抜けた時代 36 激変した世界地図の中の江戸時代 世界の勢力地図

徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府が開かれた1603年から1867年に大政奉還するまでの264年間、日本は江戸時代が続きました。

では、同じ時期に世界の勢力地図はどのようになっていたのでしょうか? そして日本は世界各国とどのような関係にあり、直接的にせよ、間接的にせよ、どのような影響を受けたのでしょうか? 小栗上野介が登場する幕末までの動向を同時代的に進めながら関係性を紡いでいきます。


イギリス、フランス、スペインなどのヨーロッパの強国がこぞって自国の領にすべき進出した新大陸(アメリカ)。江戸時代初期の1607年、まずイギリスが植民地を建設します。当時の幼い女王にちなんで「ヴァージニア」と命名された植民地を皮切りに、大西洋に沿って多くの植民地を開いていきます。1733年にはジョージア植民地が形成され、ここに13の植民地が揃います。


イギリスは植民地に対して本国なみの課税はせず、植民地が輸入する商品に高率の関税をかけました。また、鉄などの植民地での生産を禁止することで、植民地を本国の市場、あるいは原料供給地として確保する「重商主義」的政策を取りました。つまり、植民地は釘一本にいたるまでイギリスから輸入しなければいけなかったのです。


17世紀末から断続的に続けられていたフランスとイギリス両国の植民地支配をかけた対立は「七年戦争」と呼ばれる長期間の抗争の結果、イギリスが北米の植民地のすべてを奪うことになります。しかし、新大陸とイギリス本国は距離が遠いことから、政治的には植民地議会を中心とする自治が認められていました。フランスとの戦争で財政が悪化したイギリスは、植民地に対してさらに無茶な政策を強制します。財政難の東インド会社が植民地で茶を無税で独占販売できる特権を与えたのです。植民地ではイギリス本国に対する反対運動が広がり、対立が深まっていきます。


イギリス本国と植民地の対立は、やがて独立戦争へと発展していきます。1775年にイギリス本国軍と植民地の民兵が衝突。植民地側はジョージ・ワシントンを司令官として戦いに挑みます。ヨーロッパ諸国はこの闘争を覇権国イギリスを叩く好機と捉え、フランス、オランダ、スペインは植民地を支援。武装中立同盟のデンマーク、プロイセン、ロシアなども間接的に植民地を支援しました。こうして1776年、13の植民地はフィラディルフィアで「独立宣言」を出し、アメリカ合衆国を成立させます。


1783年のパリ条約で、13州の独立は認められ、1787年にはアメリカ合衆国憲法が制定されます。選挙による大統領の選出、司法・立法・行政の三権分立と州の強い権限を特色とする連邦国家の誕生は、のちに小栗上野介が描く国家のイメージに大きな影響を与えました。大政奉還の際に「早急に幕藩体制を廃止して、郡県制へ移行させ、そのうえで大統領制を敷く」と構想した上野介は、明らかにアメリカ合衆国をモデルにしたものです。


さて、独立を達成したアメリカ合衆国は1803年、ナポレオン1世が支配するフランスから1500万ドルでルイジアナを購入し、領土を倍増させます。以降も1819年にスペインからフロリダを購入、1845年にメキシコ領のテキサスを併合。1848年にはアメリカ合衆国が大きな飛躍を遂げるきっかけとなるカリフォルニアの併合に成功します。形式的にはメキシコから1500万ドルで購入したカリフォルニアでその年に金鉱が発見されたのです。アメリカはとても安い買い物をしたわけです。金鉱が発見された翌年の1848年からゴールドラッシュが始まります。一獲千金を求める男たちは、その年にちなんで「フォーティナイナーズ」と呼ばれました。


一方、当時のアジアも激動の時代を迎えていました。中国という巨大な市場を手に入れるためにイギリスがアヘン戦争(1840年)を仕掛け、清国が無理やり開国させられたうえ、香港がイギリスの植民地になっていたのです。


By Master K/益田 慶

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