小栗上野介が駆け抜けた時代 7 尊敬すべきタフ・ネゴシエイター

フィラディルフィアの造幣局に乗り込んだ小栗忠順は、「金以外の含有量を分析して正しい交換比率を決定すべき」と主張し、一歩も引きませんでした。当時のアメリカの新聞記事から小栗の様子を引用します。
「オグロ(小栗)は、どれだけ時間がかかっても結構と言って、動かなかった。それは、あきれかえるほどの忍耐心であった」

もともとアメリカ側は大がかりな合同実験を日本使節団とやることになるなど考えていなかったようです。小栗の要求でやむを得ず挑んだというのが正直なところでしょう。しかもこの交渉は幕府から正式に命令を受けたものでなく、いわば小栗の自己判断でした。彼は「一切自分ひとりで責任を取る」と言い切って交渉を開始したと伝えられています。

合同実験の結果、日本の小判のほうがアメリカの金貨に比べてはるかに良質であることが証明されました。ここで決まった新通貨交換・為替レートは次のようなものです。
●安政小判1両=3ドル41セント
日本側にきわめて有利な結論が出て、“日米間初の為替レート交渉”は終了します。
この実験結果を踏まえて交換レートは再評価され、日本は無用な金の流出を防止することが可能になったのです。
当時のアメリカの新聞は「将来、日本人がアメリカ人の教師になる時がくるだろう」と記しています。もともと独立精神の強いアメリカ人は自分の考え方を堂々と主張する人間を高く評価する傾向があります。小栗がアメリカで尊敬のまなざしで見られたのは、彼が子供の頃から宿していた“生意気さ”であったのかもしれません。日本では敬遠されがちな歯に衣着せぬ物言いが、アメリカでは効果的だったのでしょう。
そういった意味では、小栗は最初にアメリカ人に認められた交渉人、しかもタフ・ネゴシエイターであったようです。

一方、小栗はアメリカで多くのことをつかんだようです。港の大きさと船の巨大さに驚き、また初めて本格的な蒸気機関車に乗り、この鉄道を日本に建設するために必要な構造から建設に要するコストの計算まで行っていたといわれています。そして港や鉄道など巨額な建設資金を調達する方法として「コンペニー」(カンパニー=株式会社)というシステムがあることも知ります。

軍艦、新聞、造幣技術、蒸気機関車など科学技術の進歩を目の当たりにし、日本もこれらの科学技術をできるだけ早く吸収し、世界に対抗できる国にしなければいけないと考えたのでしょう。のちに勘定奉行に任官される小栗は、兵庫開港に際し、真っ先に「コンペニー」創立の必要性を説きます。

さて、遣米使節団一行は帰国します。諸説では帰国時に歓迎の儀式はまったくなかったとされています。帰国した1860年(万延元年)11月、小栗忠順は外国奉行に任官されます。翌1861年(文久元年)、小栗上野介に昇進。当時は名を変えることは昇進とされ、多くは役職の位が上がるのを機に改名されました。

しかし同年、上野介にひとつの試練が待ち構えていました。ロシア軍艦の対馬占領事件、通称「対馬事件」が勃発したのです。
ロシア軍艦のポサドニック号が対馬付近を測量し、芋崎浦に停泊。船体修理を名目として永住施設を建設しはじめたのです。対馬藩の抗議に対し艦長ビリレフは、設営資材・食糧・遊女を要求、芋崎付近の永久租借権とロシア軍による警備権をも要求してきたのです。

土地を侵された島民は激しく抵抗しました。幕府から派遣された外国奉行の小栗は藩の上層部とともに折衝に当たります。島民の抵抗を押さえる一方、艦長と交渉するとともにイギリスに折衝を依頼します。小栗はここでもタフ・ネゴシエイターぶりを発揮します。駐日英国大使オールコックが2隻の軍艦を派遣して退去を強硬に迫り、ポサドニック号は退去、事件は落着します。しかし小栗は事件の責任を問われて免職となります。

By Master K/益田 慶