小栗上野介が駆け抜けた時代 5 安政の大獄と万延元年の遣米使節団
1855年(安政2年)、小栗忠順のちの小栗上野介は、家督を継ぎました。幕府では、それほど地位の高くない使番(つかいばん)でした。これは大名の監察、城の受け渡しの立ち会い、目付けとしての地方出張などが主な任務です。
日米修好通商条約が調印された翌年の1859年(安政6年)、ようやく大老の井伊直弼に抜擢され、旗本や御家人を監察する本丸目付となり、外交担当の外国掛(がいこくがかり)に任命されます。その秋、小栗忠順は日米修好通商条約批准書交換の使節の一人に選ばれ、さらにその年の末、豊後守に任官され、小栗豊後守忠順が誕生します。
大老の井伊直弼が独断で行ったのは、日米修好通商条約の調印だけではありませんでした。紀伊藩主徳川慶福(よしとみ)を推す南紀派の中心人物であった井伊は、一橋慶喜を将軍にしようとする一橋派を押し切って、強引に徳川慶福を将軍の後継者を選んでしまったのです。しかも独裁に反対する一橋派を謹慎や江戸城登城禁止など徹底的に弾圧しました。これが世に言う「安政の大獄」(1858年~1859年)です。
厳しい処罰を受けた歴史上の重要な人物をひとり挙げるなら、処刑された吉田松陰でしょう。長州(山口県)の萩で松下村塾(しょうかそんじゅく)を主宰し、多くの弟子を育成しました。門下からは高杉晋作、内閣総理大臣・山県有朋(やまがたありとも)、同じく総理大臣を務めた伊藤博文などが輩出しています。
さて、1860年(安政7年、3月に万延と改元)1月、77名の遣米使節団が迎船パウアタン号に乗り込み、アメリカに向かって出港しました。随行船(護衛船)は幕府の軍艦・咸臨丸(かんりんまる)。艦長はのちに小栗忠順と対立する勝海舟です。咸臨丸には従者として若き日の福沢諭吉、通訳として中浜万次郎(ジョン万次郎)が乗船していました。
遣米使節団の三役は、外国奉行であった新見正興(まさおき)が全権を与えられた正使、村垣淡路守範正が副使に、小栗豊後守忠順が監察に名を連ねました。遣米使節団の最大のミッションは、日米修好通商条約の批准書(ひじゅんしょ)の交換でした。批准書の交換とは、調印した条約を国家として正式に認めて最終的に確定する手続きのことです。
しかし小栗忠順には他にも「日米両国の通貨の為替価値決定」という目標がありました。小栗は小判と金貨の交換レートに疑問を抱いていたのでしょう。のちに記しますが、彼は交渉をスムーズに進めるためにある道具を積み込んでいたのです。
パウアタン号は途中サンドイッチ諸島(ハワイの旧称)に寄港し、1860年3月、サンフランシスコ港に到着します。
同じ頃、日本は万延元年に改元し、井伊直弼暗殺事件「桜田門外の変」が勃発します。「安政の大獄」で前水戸藩主徳川斉昭が自宅謹慎処分されたことに激怒した水戸藩士の一部が脱藩し、薩摩脱藩藩士らとともに井伊の暗殺をたくらんだのです。白昼堂々と幕府の大老が襲われ、殺害されたことで、幕府の権威は一気に失墜します。幕府の力が弱まった理由は、経済面にも見受けられます。
おりしも、これまで使用していた小判の金の含有量を3分の1に減らした万延小判を改鋳したことで物価高が起こっていた時期。さらに自由貿易によって外国製品が安く国内に流れ込み、急に輸入額が増加していました。また、国内の既存の流通システムが崩れたのもこの頃です。江戸時代はあらゆる商品はいったん産地から江戸や大坂などの問屋に集められ、問屋から仲買、小売へと流れる物流システムが確立していました。
しかし、生糸や茶などの輸出品はとても人気が高かったため、農村を拠点とする在郷商人は、農家から生糸や茶を買い付けると、問屋を通さずにそのまま開港場へ直送してしまったのです。消費地である大都市では生糸や茶が極端な品薄状態になり、価格が上昇、連動して物価が上がっていたのです。
By Master K/益田 慶