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小栗上野介が駆け抜けた時代 4 日米修好通商条約と通貨の流出

1858年(安政5年)、総領事ハリスの通商開国の申し出を受け、幕府はこれに調印することになります。
しかし、これですぐに条約が結ばれたわけではありません。当時、対外的な条約のような国の重大事項については、勅許(ちょっきょ)、つまり朝廷(天皇)の許可が必要とされたのです。老中首座の堀田正睦は、京都に出向き、当時の天皇である孝明天皇に勅許を求めます。すると外国人嫌いの孝明天皇は、これを拒否。その頃の朝廷は排除思想ともいうべき「攘夷」に傾いていたのです。

堀田はこれを機に幕府での政治的な力を失います。将軍の後継者争い、攘夷思想の高まりなど多くの問題を抱えていた幕府は1858年春、彦根藩主井伊直弼を大老に据え、一挙に問題解決を図ります。のちに井伊直弼が渡米使節団の一員として小栗上野介を任命するのです。
井伊直弼は藩政改革を断行した名君として知られていました。また、ペリー艦隊が来航した際に江戸湾の防備に活躍し、発言力も増していたようです。

この井伊直弼が大老になった直後、歴史が変わります。井伊直弼は天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したのです。この独断が朝廷や攘夷主義者の大きな怒りを買い、事件に発展するわけですが、それはこのあとの連載で記すとして、先に日米修好通商条約の要点を記しておきましょう。

(1) 神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の開港と江戸・大阪の開市
(2) 通商は自由貿易
(3) 開港場に居留地を置き、外国人の国内旅行は禁止
(4) 領事裁判権(治外法権)の承認
(5) 関税自主権のない協定関税制度の承認

 特に(5)に注目してください。この条項は、日本にとってたいへん不利なものです。外国製品の関税を決める権利が日本に認められず、アメリカと相談しなければ税を決定できないという制度が採用されたのです。この「不平等条約」を解消するために幕府および明治政府は大きな外交努力を払うことになるのです。幕府が通商条約を結んだのは、アメリカ以外にオランダ、ロシア、イギリス、フランスなどがあります。

さて、ここで幕府が抱えてきた大きな問題が浮上します。幕府は鎖国体制のもとで通貨の金銀比価を行ってきましたが、これが国際相場との大きなギャップを生み出していたのです。幾度となく貨幣改鋳を実行し、幕末には計数銀貨が銀貨残高の大部分を占めていました。開港すると、その割高な銀貨は「同種同量の法則」に基づいて、素材価値が低くても重量のある洋銀(メキシコ・ドル)と両替されることになったわけです。ちなみにメキシコ・ドルとは、アジア圏内での貿易決済手段として広く流通していた銀貨です。

重量で見れば、天保一分銀3枚の総重量25.8g=洋銀(メキシコ・ドル)1枚重量26.8gとなります。
 
実質価値では銀高化が進み、金銀比価は当時の国際相場1対15を大きく上回り、国内では1対5でした。幕府は「金銀の交換比率は素材価値に基づいて算定すべきだ」とハリスに主張しますが、最終的に押し切られます。
 
開港によって何が起こるかといえば、メキシコ・ドルを日本に持ち込めば、銀貨の金貨価値が国際相場の約3倍も過大評価されるために、リスクなしで多額の利益を獲得できることになったのです。次のような流れです。
洋銀を一分銀と交換→金貨(天保小判)に両替→海外に持ち出す→地金と交換→洋銀と交換→多額の利益
つまり、通貨が流出し、国内は物価高に見舞われるという危機に直面していたのです。幕府は開港直前の1859年(安政6年)、天保一分銀よりも重量・含有純銀量を増やし、かつ額面を半分に落とした安政二朱銀を新鋳しましたが、諸外国から強い反発を受け、開港後まもなく中止します。
そして翌年、天保・安政小判の対銀貨の通用価値を約3倍に引き上げ、続いて1両当たりの純金量を約3分の1に引き下げる金貨改鋳を実施するまで、国内から巨額の通貨が流出したのです。

By Master K/益田 慶