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小栗上野介が駆け抜けた時代 3 日米和親条約の締結と開国

1853年、黒船に乗って来航したペリーが、久里浜において浦賀奉行に受け取らせたフィルモア大統領親書(正式な外交文書)の内容を説明します。

「与が志、二国の民をして交易を行わしめんと欲す。是を以て日本の利益となし、また兼て合衆国の利益となさんことを欲してなり。(中略)もし是等の難に遇ふに方っては、貴国に於いて其難民を撫恤(ぶじゅつ)し、其財物を保護し、以て本国より一舶を送り、救い取るを待たんこと、是与が切に請ふ所なり。日本国に石炭甚だ多く、又食料多きことは、与が會て知れる所なり。(後略)」

 要約するなら、「アメリカ合衆国は日本と貿易をしたいと願っている。(つまり、日本を侵略するつもりはない)。お願いしたいことは、商船や捕鯨船などアメリカ船が立ち寄った際に物資の補給をしてもらうこと(寄港地として利用させて欲しい)、そして遭難船員の保護をしてもらうことだ」という内容です。
 これに対して幕府が出した回答は「来年になったら返事をするから、とりあえず帰って欲しい」というものでした。
 こうしてペリー提督を退去させた直後、今度はロシア使節で海軍中将のプチャーチンの艦隊が長崎に寄港し、開国を要求します。

当時の幕府で国政を統轄した職は老中です。5万石以上の譜代大名がこの職に就きました。将軍の補佐役である大老は、老中より位の高い最高職ですが、譜代大名の名誉職的な意味合いが強い職でした。大老として権力を行使したのは、これから登場する井伊直弼です。
 老中の筆頭として財政担当を専任したのが老中首座です。ペリーが浦賀に来航した際の老中首座は、備後福山藩7代目藩主の阿部正弘です。自らが治めていた備後福山藩の藩校をリニューアルしたり、思い切った人材登用や「大船建造の禁」の緩和を実行したりするなどいくつかの改革を行った政治家ですが、ペリー来航時には鎖国を理由に開国を拒絶しています。


しかし、ペリー提督を退去させた後、意外なことに阿部正弘は、諸大名や幕臣に「開国についてどう考えるか」と広く意見を求めたのです。彼のこの態度に対して現在「指導者として主体性がない」「優柔不断」という批判と、「外様大名が幕政に参加できる機会をつくった先駆者」という賞賛の意見の両方が寄せられています。中には阿部正弘が外様大名に意見を聞いたことで、彼らが政治に目覚め、討幕運動につながっていったと分析する作家もいるくらいです。

 さて、ペリー提督ですが、翌年の1854年(安政元年)に再び来航します。今度の艦数は7隻。しかし、来航は幕府が予想した以上に早かったようです。どうやらアメリカ政府あるいはペリー本人が、ロシア使節プゥチャーチンに先を越されまいと焦ったようです。
 そして横浜に上陸したペリーは強硬な態度で開国を迫りました。諸大名から意見を聞いた阿部正弘はついにペリーの要求を受け入れ、「日米和親条約」を結ぶことになります。こうして日本は開国を迎えます。
 のちに日本人使節団の一員として渡米する小栗上野介は、この翌年の1855年(安政2年)に家督を継ぎます。1856年にはアメリカの初代総領事ハリスが来日し、下田に駐在します。ハリスのミッションは、日本と通商条約を結ぶことでした。つまりハリスは「わが国と貿易をしよう」と言い寄る営業マンです。ハリスはもともと商人。この機会に一儲けしようと企んでいてもおかしくありません。こうしてハリスは幕府にアプローチを続けます。

一方、老中首座の阿部正弘は1855年、開国・通商派の人材を免職させたことで譜代大名たちから反発を買い、下総佐倉藩主の堀田正睦(まさよし)を老中首座に推挙して引退。新たな外交担当の堀田がハリスと交渉を続けました。ハリスの意向は自由貿易です。それは外交に無知な幕府につけこんだもので、日本に関税自主権はありませんでした。その一方で、日本は「通貨の流出」という大きな危機を迎えていました。日本はこうして初めて世界経済の荒海に見舞われていくのです。

By Master K/益田 慶