小栗上野介が駆け抜けた時代 2 ペリー来航、動揺する幕府 上野忠順の初登城
上野忠順(のちに上野介)の初登城は、15歳とも17歳とも言われています。
初登城とは、いわば本社への初出勤です。
忠順の文武の才は、城内でもすぐに注目され、若くして両御番となり、手腕をふるいました。
「両御番」とは、戦時には将軍を直接護衛する部隊で、平時には江戸城本丸の主要な門の警護、将軍外出時には乗物の警護を担当する「書院番」と、より将軍の近くを警護する「小姓組」を併せた総称です。
しかし若き忠順は率直な物言いによって、ときにまわりから疎んじられることが多く、たびたび官職を変えられたようです。やがて忠順のその後の運命を変える、大きな出来事が発生します。
忠順初登城から10年後の嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、幕府を震撼させる事件が起こります。
アメリカ東インド艦隊司令官ペリーが、遣日国使兼日本遠征艦隊総指揮官として4隻の軍艦を率いて江戸湾の入口、浦賀に来航したのです。
黒い塗装の軍艦であったことから、日本では「黒船」と呼ばれました。旗艦サスケハナ号(2450トン)、ミシシッピ号(1692トン)の2隻が蒸気軍艦。
サラトガ号(882トン)、プリマス号(989トン)が帆走軍艦です。
ペリーは政治家でなく、アメリカ海軍軍人です。アメリカ初の蒸気軍艦フルトン2世号の艦長となり、1846年に始まった対メキシコ戦争ではメキシコ湾艦隊副指令官として指揮をとった海軍のエリートです。
1852年、東インド艦隊司令長官に任命され、日本派遣特派使節を兼任しました。
1848年にメキシコとの戦争に勝利し、カリフォルニアを手に入れたアメリカは、中国との綿貿易を活発にするためにカリフォルニアから太平洋を横断して中国を結ぶ汽船航路の開設が急がれていました。
そして当時の汽船は石炭を大量に消費したため、寄港地を必要としていました。
石炭の搭載量を減らすことができれば、その分の商品を積めるからです。アメリカが鎖国中の日本に寄港地を求めた理由のひとつは、中国との貿易にあったということです。
もうひとつの理由は、捕鯨業です。当時のアメリカは北太平洋で盛んに捕鯨を行っていました。
しかし、遭難して日本にたどり着いた漁師は、帰還することができず、日本で拘束されていたのです。
アメリカは人道的な見地からも、日本に開国を求めるようになっていったのです。
カリフォルニアを領土にする直前の1846年、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドル提督率いる軍艦2艇が浦賀に入港し、幕府に開国の意志があるか打診だけして帰国したのは、どうやら幕府の感触を調べる事前調査だったようです。これがやがて1853年のペリー来航につながるのです。
当時のアメリカ海軍の情報収集能力にふれた文献が少ないので、明言はできませんが、幕府に最も近い港に来航したということから、アメリカ艦隊は日本の要所を描いた地図を持っていたことが想像できます。
また、江戸に政治を統制する機関があることを知っていたことがわかります。
余談ですが、幕末を描いたドラマではペリー艦隊が何の前ぶれもなく突然、浦賀に現われたかのように表現されますが、アメリカはこの前年、オランダ政府に対して、艦隊派遣の斡旋を依頼し、長崎のオランダ商館長を通して幕府に連絡していました。
そのことから「近くアメリカが日本に艦隊を送る準備をしている」という情報は、幕府の要人の耳には入っていたのです。
しかし、艦隊を迎え入れる準備は、何もされていませんでした。こうなった要因は、のちにこのコラムで綴ります。
アメリカ艦隊入港の情報をチャッチしておきながら、何の対策も取らなかったことに対して「危機管理能力の欠如」と指摘する作家や評論家は少なくありません。
しかしそこまで一気に飛躍するのでなく、まず「外交」という概念がまったくなかったと考えたほうがわかりやすいでしょう。
話は黒船に戻ります。ペリーは黒船に護衛させた測量艇を江戸湾深く侵入させ、江戸城の老中たちを威嚇。久里浜において、浦賀奉行に修好通商を求めるフィルモア大統領親書を受け取らせ、再来を約して退去していきます。
By Master K/益田 慶
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