小栗上野介が駆け抜けた時代1 はじめに

幕末に活躍した一人の人物に様々な角度からスポットを当て、約1年半かけて彼にまつわるエピソードや事件を紹介していきます。
その人物とは、江戸幕府の勘定奉行(経済担当大臣の役割)として幕政を支え、また横須賀製鉄所の建設や日本最初の株式会社の設立をはじめ、多くの事業を興し、日本の近代化の礎となった小栗上野介(おぐり・こうづけのすけ/1827年~1868年)です。

小栗忠順(ただまさ)――のち上野介に昇進――は、文政10年(1827年)、江戸駿河台の旗本の家に誕生しました。第11代将軍徳川家斉が、太政大臣に任じられた年です。世界に目を転じれば、イギリスで蒸気機関車が実用されるようになった頃です。欧州で資本主義制度が始まり、いち早く産業革命に成功したイギリスが「世界の工場」の地位を獲得していました。しかし、そんな世界の様子は、日本には伝えられることはありませんでした。

忠順の父は、新潟奉行の小栗忠高です。小栗家は上総(現在の千葉県)、下総(現在の千葉県)、上野(現在の群馬県)、下野(現在の栃木県)などに領地を持つ禄高2500石の旗本でした。
江戸幕府の旗本とは、徳川将軍直属の家臣で1万石未満の家を指します。旗本は武家諸法度により統制され、町奉行や勘定奉行、大目付など諸役職に就きました。
 
父親に経済力があったため、忠順は教育を受ける環境にありました。屋敷内に開かれた塾で7、8歳から漢学を学び、剣や柔術など武芸にも優れていたようです。文武に抜き出た才能を発揮し、自身の意見をはばかることなく主張することから「天狗」と揶揄されることもあったようです。現在なら「自己主張の激しい秀才タイプ」ということでしょうか。

忠順は17歳から蘭学を学び、開明派幕臣の岩瀬肥後守忠震(ただなり)が翻刻刊行した『地図全誌』を読み、その先見的な構想にひかれ、早くから開国の必要性に目覚めたようです。ちなみに岩瀬忠震は、大老井伊直弼の代にアメリカ使節応接役を担う人物です。

やがて上野介は万延元年(1860年)、日米修好通称条約の批准書交換のために幕府初の遣米使節団として渡米し、通貨・為替交渉に当たり、1両小判と1ドル金貨の交換比率(為替レート)を決定します。不公平だった両国の為替レートをこの時期に改定したからこそ、明治4年、金本位制による「旧貨1両=1円=1ドル」という新貨幣体制へとスムーズに移行できたのです。つまり、上野介の活躍が大きな布石となり、日本の「円」が国際社会にデビューできたのです。

一方、彼が活躍した時代といえば、カリフォルニアのゴールドラッシュ(1845年~1850年代初頭)の時期と重なります。ヨーロッパが恐慌に見舞われ、多くの失業者が一攫千金を夢見て新大陸アメリカを目指した時代です。

じつはこのゴールドラッシュが世界経済に深くかかわり、ひいては「旧貨1両=1円=1ドル」という新貨幣体制の確立につながっていったのです。
当時はいち早く産業革命を迎えたヨーロッパの先進国が世界に君臨していました。欧州の強国は国外にも目を向け、海外との貿易を強化していった時代です。

一方、1848年にメキシコとの戦争に勝利してカリフォルニアを手に入れ、ゴールドラッシュを迎えたアメリカは、西海岸から太平洋を横断して上海、広東を結ぶ汽船航路の開設を目指していました。アメリカの綿工業が、中国市場で優位にあったイギリスに追いつくためにはどうしても航路の確保が必要だったのです。

このように小栗上野介が駆け抜けた時代背景を知ると、世界経済の大きな流れと日本経済の関係性までも浮かび上がってきます。毎週お届けするコラムは、エンタテインメントに軸足を置きながら、一方では現在ある制度の基礎がこの時代に確立されたことを知識として身につけてもらうための読み物でもあります。
 「現代」の世界と日本経済の見取り図を知るためには、その基礎となった「近代」を知ることが肝心です。「小栗上野介が駆け抜けた時代」が皆様にとって、おもしろくて役に立つ読み物になれば幸いです。

By Master K/益田 慶