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小栗上野介が駆け抜けた時代 15 円金本位制度の確立

先週のコラムで1円銀貨鋳造の目的が、メキシコ・ドルの追放にあったことを紹介しました。それは明治政府がアジア圏で経済的なイニシアチブを握るための方策でした。長い間鎖国政策を敷いてきた日本は、国の近代化にも国際市場の進出にも大きく出遅れたという焦りがあったのでしょう。

 
明治初期の日本は、慢性的な国際収支の赤字状態が続きました。内外における市場金銀比価は法定比価を上回り、これまで良貨であった銀貨は逆に悪貨となりました。実質的には銀が本位貨幣の地位を占めていましたが、一方で明治4年に公布された貨幣制度に記された金本位制は維持されていきます。


金が再び本位貨幣の座に復帰したのは、明治30年になってからです。明治政府は、金のみを本位貨幣とする貨幣法を公布します。この貨幣法では、「1円は純金750mgと等価である」と定められました。
対外的には1ドルとほぼ同量の金であり、1両とほぼ同量の金を含む1円金貨を本位貨幣に据えることで、近代的貨幣制度の基本前提が完成したといえるでしょう。

 
円とドルの交換比率は、明治初期には1ドル=1円と定められていましたが、その後、実際にはドルのほうが圧倒的に力があるため、次第に円安に動き、昭和初期には1ドルが3~4円程度になっていたようです。


しかし、この金本位制はイギリスを除く欧米列強よりも先駆けるものであったことが、その後の100年の歴史を大きく左右することになります。日本経済を欧米列強が中心となっている国際市場へ直結させことになったのです。


1929年の世界恐慌により、金本位制は機能しなくなり、やがてすべての国が金本位制を脱退、第二次世界大戦後、米ドル金為替本位制度を中心としたIMF体制(ブレトン・ウッズ体制)が創設されます。

 
日本が太平洋戦争の敗戦国として再出発し、IMFという国際社会の仲間入りを許可された時には、固定相場が引かれ、円の対ドルレートは360円と評価されました。戦後の超インフレ時には仕方がなかったといえます。


長く続いた固定相場の時代から、円とドルの通貨の交換比率を示す外国為替レートは、その後、スミソニアンレート(1ドル=308円)という時代を経て、1973年2月より完全な変動相場制に移行したのは、周知のごとくです。その後、円の価値は上昇し、1985年の「プラザ合意」を経て、1988年には対ドル120円45銭という交換レートがマークされます。


日本の本位金貨、旧1円、2円、5円、10円、20円や新5円、10円、20円は1987年(昭和62年)5月末限りで流通停止となり、現在の管理通貨制度が実施されることになります。
単純にいえば、1988年の「対ドル120円」というレートは、国際社会復帰時の円に対して、およそ3倍の価値を持つようになったということです。「円高・ドル安」の推移は、他のコラムに譲りますが、「円」に見られるこの現象は、世界貨幣史上におけるひとつの奇跡と称されても差し支えないでしょう。


約150年前に小栗上野介が日米間初の為替レート交渉に臨んで以降、「円」は絶えず「ドル」の存在を意識しながら、時にはアメリカの金融政策に翻弄されながら今日に至ります。


ひるがえってみれば、ドル・円の為替レートの土台を築いたのが、江戸時代の敏腕外交官・小栗であったことが明確に見えてきます。国際通貨ではなかった両の為替レート交渉に挑んだ小栗の評価は、日本ではそれほど大きくありませんが、日本が近代国家へ転換する礎を築いた人物として再評価されてもよいでしょう。足早に紹介してきた小栗上野介の足跡は、日本が国際社会にデビューするきっかけを見いだした歴史ともいえるでしょう。

次週からは「小栗上野介が駆け抜けた時代」の各論、上野介が実施した政策に着目してみます。

By Master K/益田 慶